2021年10月31日日曜日

「性」と権力と自己決定

 中国が「人民民主主義」を定着させるために、人生設計をことごとく政府が行うという荒唐無稽な「人生総量規制」をやり始めた、と昨日書いた。「子育て」や「家庭教育」に口出しし始めたと聞くと、「修身斉家治国平天下」という儒教の看板を思い出す。と同時に、明治の「教育勅語」が説いた「……父母ニ幸ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ……」をイメージする。

 どういうことか。江戸の頃の日本の習俗について、昨日取り上げた渡辺浩『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021年)は、面白い記述をしている。《これ(教育勅語)は、往々、儒教的教訓と解されている。しかし、それは疑わしい。……一切の道徳的行為を「皇運」「扶翼」の手段と見做していることが、既に奇異である。さらにここの徳目にも、新義や偏差が忍び込んでいる。》

 と前振りをして、「夫婦相和シ」もその一つである、という。

《(『孟子』の「五輪」の教えの「夫婦」に関する全九条中に、夫婦和合を説いたものは無い。……何故であろうか》

 と問いを立て、江戸時代の、17世紀初めの慶長の頃から18世紀後半までの23の文書や本を引用し、

《江戸時代の日本には「夫婦」といえば仲良く睦まじくあるべきものと説く習慣が、広範にそして長期間あったと言えそうである》

 とまとめる。儒教の「夫婦有別」というのは、分け隔て有りでは無く、

《されば別とは区別の義にて、此男女は此夫婦、彼男女は彼夫婦と、二人ずつ区別正しく定まるという義なるべし》

 と、明治3年の福沢諭吉の言葉を引用して解釈としている。

 それまでの社会習俗の中に、「夜這い」や「雑魚寝」という性的に放縦な習わしがあり、また混浴など、性差による羞恥心を感じさせない姿が、訪れる外国人に衝撃を与えていた。1865年に来日したハインリッヒ・シュリーマンは、こう記している。

《「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にも触れることなく、彼らは衣服を身につけないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!》

 渡辺は、こうした性的な放縦・開放性は庶民の間のことで有り、それは共同体的な枠組みのなかでそれなりの規範をつくっていたとみている。それに対し、武士身分においては画然とした規律として男女の別が有り、家を軸とした継承性が保たれて、それが武士という特権身分の証でもあったと解析している。

 こうも言えようか。「教育勅語」は天皇制国家を正当化すべく儒教を援用したつもりであったろう。だが、その背景には、江戸以来の社会習俗を西欧に恥ずかしいと思う明治政府為政者(つまり江戸の武家身分)の、羞恥心が働いた。しかし庶民の方は、家業即ち家内労働の実情からいって、「夫婦相和シ」こそが最も実態を反映していたと言えたのであろう。だから「教育勅語」の記述の内実は、(今の私たちからみると)江戸の伝統的な社会習俗を語るに落ちたというところであろう。

 はたして中国の子育てや家庭教育にまで及ぶ「人生総量規制」の事々は、中国人大衆の伝統的な習俗に足場を置いて「共産党の一党独裁」を正当化するのにつながっていくのであろうか。それとも、人民大衆の伝統的作法が働いて、面従腹背の道へきっぱりと進むのであろうか。中国人民の習俗が(私には)わかっていないから、どちらともいえないが、習近平の統治が習俗を変えるのか、統治をすげ替えるところへ追い詰められるのか、興味津々で見ているのである。

 中国のことは、さておく。上記の渡辺浩の記述が示すのは、善し悪しは別として、私たちの抱いている「一夫一婦制」や「恋愛婚」とか「純潔/処女」とか、「二夫にまみえず」という女性に対する道徳的な規制は、明治政府の創作による「道徳律」であり、キリスト教的な戒律に扶けられて定着したものとみせている。せいぜい150年の間に作り上げられた規範(幻想=イデオロギー)だという確認であった。

 どうして日本は、こうも簡単に西欧化に傾いたのか。むろん「攘夷」が単なる国家権力を奪うときの旗印であったことは、わかる。江戸も明治もいずれの権力も、口先では「攘夷」といいはしたものの、その実、(長州を除いて)一度もそれを実行することなく、西欧文化の衝撃に打ちのめされたのは、なぜか。日本に先んじて同じように西欧の襲来を受けながらも変容を嫌い、あっけなく国土を好きなようにされてしまった清朝と、何処が違ったのであろうか。善し悪しは別として、日本の文化そのものが辺境文化であるという自覚が、そうさせたのではないか。中国は逆に、世界の中心である(はず)という国家の自覚的感触ゆえに、なかなか西欧化に向かえず、他方日本には、まるで自分たちが世界の隅っこで、頼りない文化文明を営んでいるという肩身の狭さの自覚があったから、それが素地となって、さっさと西欧化を受け入れたのではないか。そんなことを考えさせられたのであった。

2021年10月30日土曜日

資本市場の国家によるコントロール

 中国の企業・恒大集団の行き詰まりを、中国政府がどうコントロールできるか。世界の経済関係者の、目下の最大関心事となっている。33兆円という負債額がデフォルトになった場合に世界経済に及ぼす不況の波の大きさに、アメリカ政府も、しっかりコントロールする責任は中国政府にあると呼びかけている。リーマン・ショックのことなどを棚に上げてよく言うよと思うが、上り詰めた先で弾けるのは、暴走を止めるためには致し方のないこと。そういう調整の方法を備えているのが、自由な市場経済である。ということは、中国がもし、この苦境を、それとは違う方法で乗り越えることができたら、まさしく「国家独占資本主義」の真骨頂ということになる。中国にとっては、専制主義の正念場。はたしてコントロールは上手くいくだろうか。

 1990年頃の日本の不動産バブルを思い出す。ジャパン・アズ・ナンバーワンの活況でじゃばじゃばと金が市場に溢れていた。マンハッタンを買い占められるんじゃないかとアメリカではジャパン・バッシングが横行し、日本は有頂天になっていた。賢い経済学者は、こういうときこそ人を育成するために投資するのがいいと力説していたが、ごく一部の企業がそれを聞き入れて、研究施設に投資をしただけではなかったか。大半の金を持っていた企業や投資家は耳を貸さなかった。そのあげくが、「失われた**十年」であった。

 中国政府は、日本のバブル崩壊を教訓に(恒大集団の負債暴発を緩やかにさせようかと)懸命に今、手を打っている。果たしてこれをうまく乗り切れるかどうか。そこに、一党独裁体制を敷く中国政府の専制統治体制が、人類史的な普遍性を持つことになるのかどうかの、正念場がある。

 そんなことを考えながら、渡辺浩『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021年)を読んでいたら、渡辺はトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を引用して、出自に関係なく統治機構に参与できるアメリカの体制に感心し、これこそ「デモクラシー」と褒めそやしているとあった。とすると、世襲議員が跋扈する(今の日本の)政治体制は民主主義が崩壊していっている姿と言えるのかもしれないと、私の観念を一時、棚上げしたくもなっている。

 そう考えてみると、中国は「科挙」に始まり、たしかに出自に関係なく統治機構に参与できる体制を、昔から取ってきたとも言える。中華人民共和国になってからの中国は、出自をかき混ぜるやり方を(文化大革命も頂点として)とってきた。今、出自は「金銭」に取って代わる時代となっていて、それがバブルの暴走と恒大集団の破綻とに結びついているから、専制統治機構の「人民民主主義」の真価が問われる場面に直面しているとも言える。これに失敗したら、「自由民主主義」が腐りきっていても、ほらっ、やっぱり「人民民主主義はだめだったじゃないか」とトクヴィルにいわせることになるか。

 習近平政権は、コロナ禍もあって国内需要を喚起しようと舵を切っている。中流を育てるという看板を口にする。驚くほどの収益を手にしている俳優や芸術家などを、脱税や非行を理由に、彼らの主舞台から永久追放するような措置を次々と打ち出して、これはこれで、大衆の怨嗟の的になることがいかに「ひどいこと」かと倫理的な振る舞いにかこつけて演出していると見える。要するに、人民大衆の暮らしに溜める鬱屈が暴発しないように懸命である。

 子育てや家庭教育、学習の有り様まで、ことごとく政府に指図される暮らし方もまた、別様の鬱屈を溜めることになろうから、たぶん習近平政府の思うようには事は運ばないであろうし、総中流目標路線がもたらす、上位層への実際的負荷が加重になればなるほど、そちらの方の暴発も心配しなければならなくなろう。じっさい、「ダイヤモンドオンライン」の記事では、「不動産税」の創設や恒大集団への対処それ自体が、「権力闘争の様相」として解析されていて、(軍を含めた)コントロールが問われる事態に近づいているとあった。

 人民民主主義も、今進行しているまるごとの統治となると、人生設計をことごとく政府が行うという荒唐無稽な「人生総量規制」をやるしかなくなる。その一部規制だけでも、ソビエトがどのような道をたどったか、すでにお手本がある。チベット族やウイグル族の、文化総掛かり革命を試みている中国政府だが、今度は13億人民の総量規制とあっては、目が行き届かなくなって、武力的規制という臨界点に行き着くのではないか。そればかりか、その内政的臨界点の沸点を避けるために、台湾や日本(に駐留する軍事基地)に対する対外的武力行使へと踏み切るのではないか。

 そんなことを、過剰な懸念といっていられるのかどうか。お隣の私たちにとっても中国の内政が、対岸の火事といっていられない地点に来ているように感じる。決して好ましいとは思っていないが、「人民民主主義」がそれなりに緩やかに「状況」の緊張をほぐして、解消できる方向へと向かってほしいと、願わないではいられない。

2021年10月29日金曜日

温暖化で北海道の米はうまくなった

 表題のような発言を、選挙応援演説で麻生太郎が行って、北海道農民の苦労がわかっていないと非難を浴びている(と朝日新聞は報道している)。品種改良とか土壌整備とか、ずいぶんと苦労をして北海道で米が獲れるように力を尽くしてきた。それを、温暖化のおかげでできたようにいわれては、立つ瀬がないというトーンだ。

 だが、問題点はそこか? 違うだろう。

 日本列島のように南北に長い島国では、気候温暖化がすすんでも、どこかが亜熱帯になり、どこかが温帯に変わり、どこかの亜寒帯が消えていくってことを、緯度でスライドさせて考えると、麻生のいうことも一理ある。いや、三分の理くらいはあるといっても良い。だが、今問題になっている「温暖化」は、そういうモンダイではないだろう。

(1)まず、日本列島の、北海道の気温の「温暖化」という視点が、地球の温暖化と同一次元にされていて、適切ではない。これはそのまま、麻生トランプのフェイクニュースである。北海道という場の、気温の変化というのを「温暖化」という言葉に引っかけただけ。「米がうまくなった」というオチで、笑いを取るはずだったというだけの、馬鹿話。だが自民党副総裁という要職の政治家が、目下SDGsで「喫緊の課題」とされている「温暖化」をその程度の笑い話にするところが、ケシカラン。でもね、彼にとっては、笑い話じゃないかもしれない。えっ、どういうこと? 彼は心底、その程度にしか「温暖化」モンダイを考えていない。それがぽろりと口をついて出ただけ。馬鹿話ではなく、或るバカの話。

(2)いやじつは、かく言う私も、麻生のようなことをしゃべっていたことがあった。北海道の米ばかりではない。蜜柑の北限が、埼玉県寄居町の風布だったのが、栃木県でも地元産の蜜柑が並ぶようになり、それって温暖化のおかげだねとおしゃべりしていた。ま、私は麻生のような要職にあるわけではないし、公にしゃべったわけじゃないから、バカはバカだけにとどめたというわけ。米も蜜柑も、天からの貰い物というナイーブな自然観がベースにある。その「本質」だけを取り出していえば間違いじゃないが、採集経済を営んでいるわけではないから、何も言ったことにはならない。自然と農耕民との戦いという、人の営みの本質的な点を落っことしている。

 そんなことを指摘しても、たぶん副総裁は、「あっ、そう」と昭和天皇の系列に身を置くものとして恬淡として居るであろう。

 だが私は、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年)を読んでいて、土壌改良ということについて切実な事態に直面したドイツ農民の話に、胸を打たれている。ルドルフ・シュタイナーのBD(バイオ・ダイナミック)農法のことには以前触れたが、宇宙と大地と生命体の循環を視野に入れて、大地をつくることが作物を育てることという、「占星学的な超自然的精神世界」を背景にしていると紹介する藤原辰史は要約する。それが、土壌の頑固さと格闘するドイツ農民の心情をつかむのだが、それは化学肥料の投入によって土壌が硬くなり乾燥化し、それと格闘する農民の体感、つまり土と共に生き、土をつくることが生きている証という生命観にマッチする。それは逆にシュタイナーのBD農法の生態系の中に微生物を組み込むことにすすみ、農民の手作業を評価するかたちで(動物としての)人の存在と結びつく哲学を感じさせて、行く。他方でそれは、農民層の支持を手に入れたいナチスの広報戦略に符節を合わせ、また後に、戦時体制の食糧増産を図る政策とあいまって、(シュタイナーの生命哲学は排除されたが)ナチスの農業政策に取り込まれていった。藤原辰史は、ナチスが日本の自然観に共感する部分を発見していくことをふくめて丁寧に追跡しているが、要するに、農民の生き方そのものを、金銭換算ではなく、また食糧増産という目的的でもなく、表象する哲学的な視線を持つかどうかが、決め手になっていたと、ドイツ農民の受け入れ方を読み取っていった。

 そうしてみると、日本の政治家たちが繰り出すジョークでさえ、生き方の哲学を欠片も宿していないことに気づく。でも地球規模の「温暖化」に関する知見を持っているかというと、それもまた、欠片もなく、目先の株価と権力の趨勢とそれに利用できるかどうかが、人に対する評価という貧しい言葉しか繰り出せない。そう思う。SDGsの温暖化は棚上げしてしまったが・・・。

 あ、そう。

2021年10月28日木曜日

期日前投票

  衆院選の期日前投票をしてきた。当日、外へ出るためだ。昔、といっても半世紀以上前だが、期日前投票をするために市役所へ足を運んだことを思い出した。

「どこへいくのか? その日でなければならないのか」

 などと係員に聞かれ、

「そんなことを話さなければならないのか」

 とやりとりをして、

「だったら、投票しない」

 と帰ってきたことがあった。

 つまり昔は、「どうしても期日前投票をしなければならない理由」というのがあったのだったか。いまならきっと、係員の名前を聞いて、投票妨害だと騒ぎ立てるような大事になったに違いない。

 投票所入場券の裏面に、期日前投票をする理由を、チェックする欄が設けられていて、該当箇所に☑を入れればそれで済む。

 区役所の投票所は、混むほどではないが、人が絶えることなく適当な間隔を置いて列を作り、記入台がいっぱいになる程度に、投票する人が押し寄せてきている。ほどほどの気温の昼間だから、出歩くにも気持ちがいい。

 そういえば今回は、3人立候補しているうちの2人が1回ずつ、すぐ近所で演説をしただけ。あとは、いついつ浦和駅前に政党の名を知られたのがやってきて演説会があるというお知らせが、やはり2候補1回ずつ。名前を連呼して通る候補もなく、しずかなもの。

 TVも、どこかのチャンネルは選挙のことをやっているが、やっていないチャンネルの方が多い。そちらの方に切り替える。SNSや週刊誌にあることないことを書かれて憤激している女優のこととか、皇女の結婚のこととか、中国の軍事的な装備のこととか、台湾が緊迫感を増しているとかいないとかと、特報風に話題を組んで、2008年の政権交代のあった時とは大違いだ。メディアも冷めてきているのだろうか。太鼓持ちのニュースを流すよりは、放っておくほうが、いい。政治家連中も、調子の乗らない分、賢く見える。

 ま、こちらもパートタイム主権者らしく、3年とか4年に一回の投票権を行使するだけはして、あとは何をするか見ているだけ。本当にご苦労様、と声をかけたいような政治家がいなくなっちゃったなあ。

 むかしはそれでも、エリート官僚たちが脇をかっちり固めて(善し悪しは別として)やることはやっているようであったから、パートタイム主権者は(任せるしかないよな)と身の程をわきまえていたのだが、いまは、おいおい大丈夫かよと思うような人たちがそちこちに出来して、週刊誌に話題を提供し続けている。聞き苦しいし、見苦しい。その話題提供者たちが、恥ずかしげもなく、またぞろり立候補している。懲りないのか、パートタイム主権者の忘れやすさを見くびっているのか。そんな連中が、蓋を開けて当選してたりすると、いっそうこちらの(パートタイム的)断片性が際だって、いやになってしまうじゃないか。

 行き来の6500歩ほどを歩いたのが、せめてもの効用と思って、主権者は、ふだんの暮らしの中に姿を消すのでした。

2021年10月27日水曜日

見事な紅葉の奥日光

 奥日光二日目の早朝は雨だったと昨日記した。宿を出る時にはしかし、日差しが差し込み、青空が見えるほどの晴れ。少しばかり泉源辺りを散歩して振り返ると、前白根山と外山にかかるスキー場の上部が、昨夜来の雪で真っ白に化粧している。それを背景にカラマツの黄葉とミズナラの、少し焦げ茶がかかった黄葉が奥行きを湛えて、見事に映えて輝く。

 曇り空に色落ちして悄げたような、昨日の黄色と違い、やはり黄葉は日差しによるねとカミサンは喜んでいる。光徳牧場にも立ち寄った。昨年小鳥が屯していたズミの辺りにカラ類が居るとカメラを構えている人が二人居たが、やはり今年は鳥影が少ない。

 光徳から中禅寺湖脇を抜けて車を走らせる。湖とカラマツやミズナラの黄葉とモミジの紅葉とがマッチすると美しいのだが、今年は後者が遅れている。中禅寺湖を挟んで男体山の対岸にある半月峠駐車場にまで車で上がれば、湖に突き出ている八丁出島が色づいて見えたろうにと後で思ったのだが、そういう紅葉を楽しむというセンスが、私に欠けていたものかもしれない。

 下りのいろは坂から見える山の色合いの見事さに、助手席のカミサンは声を上げて喜んでいたが、ま、こうして楽しんでもらえれば結構と、日光を案内する私は運転に集中する。

 日光植物園に入る。一週間前に撮影した20種の秋の花の写真を掲載した「見頃植物」のチラシを手渡し、「これも、もう一週間で縮こまってしまって」と受付の方は済まなそうに言う。まるで、花々の監督不行届をわびているようで可笑しかった。ここでも秋の進行は平年に較べて遅かったようだ。でも、枯れる草木は枯れ、切り払ったところはずいぶんとすっきりとほかの植物を見せていて、池に生える菖蒲の仲間がたくさんあるのだなあと、名前書きを見ながら感心した。忘れな草が青色の花をつけて一群れをつくり、静かな水面を飾っている。

「いつもはカワガラスが居るんだが・・・」と見降ろした浅い石畳を流れる小沢に、いたっ、カワガラス。お出ましって感じ、と見ていたら横合いからもう一羽が視界に飛び込んできて、沢の先の方へ飛び去っていった。いやいや、二匹目のドジョウっているんだと、喜ぶ。

 2時間近く植物園を散策し、古河鉱業の近くにある中華料理店「幸楽」に行く。夏にも立ち寄った。コロナで密を避けるためだろうが、電話で注文し、受け取りに来る客が多かったせいか、お昼時、いつもなら外の駐車場で待たされるはずなのに、客席が空いている。レバニラ炒め定食を注文する。小切りにしたレバーを油で揚げてニラを少しばかり絡めて大量に盛り付けている。食べ残すと、包んでくれる。また正月に通るから寄ろうかとみたら「定休:水曜日」。暦を見ると通りかかる正月5日がちょうど水曜日。尋ねると「12月下旬にならないとわからない」という。古川鉱業の操業予定と絡んでいるからだろうと私は思うが、どんなものか。

 高速は空いていた。急ぐでもなくのんびりと走って帰宅。埼玉の午後は風雨が強く荒れると予報にあったが、意外にも晴れ渡り、風もない。コロナ明けのような、感染者数も、埼玉県は一桁。落ち着いた旅日和であった。

2021年10月24日日曜日

年寄りの感懐

  一年前の記事、「どうしているか、乞う連絡」をみて思ったこと。

 そうか、一年前かと思っている。その後、年が明けてから、タイにいる友人・Mさんと親しかったytgさんに消息を問い合わせた。まだ現役のytgさんもMさんが癌(?)という診断を受けたと知って、驚いてメールを打ったりしたようで、今年の1月下旬には、Mさんから電話がかかってきたと、私のところへytgさんから知らせがあった。その電話でMさんは、まるで夢の中で道に迷っているような話しぶりで、私とももう5年もやりとりをしていないと話したらしい。


 おや? 耄碌し始めたか。あるいは手術の予後が悪く、未だ苦しんでいるのか。


 そう聞いて、私もメールでなく、手紙を書いて送った。返信が返ってきたが、その文面は「助けてくれ。女房子どもに監禁されている。タイの日本大使館か領事館に連絡を取って救出してほしい」と(読める)たどたどしい文面。ytgさんと相談したものの、身内でもない私たちが「事態不詳」のまま、そんなことを外務省に依頼するわけには行かない。若いytgさんはスカイプとかをつかってか画面通しで姿もみたという。すっかり痩せて、奥さんに介助されている。「痛み止めを処方してもらっているというから、そのために妄想が起こっているのかもしれない」とytgさんは、医療に詳しい専門家の見立てを話す。そうこうして、ほぼ毎週のように私はタイへ手紙を送り、Mさんからノートの切れ端に書き付けた手紙を受けとることになった。


 3月のひな祭りが終わった頃、ytgさんのところへタイのNPOボランティアから3月3日にMさんが亡くなったことを知らせてきた。奥さんが日本語も英語もわからないため、頼まれて送信しているというメール。それには葬儀の写真も添付され、生前、近所の寺院を車椅子に乗って散歩している写真も収められていた。


 その3月の下旬、Mさんの義姉(兄嫁)から手紙を頂戴した。私の送った手紙がMさんの死後に届いたのが(読めない)奥様から送られてきて、「逝去の報告とお礼をいってほしい」と依頼されたと断ってあった。私の方からお知らせへの御礼とMさんと関わったいきさつや消息がわからず困惑したこと、ytgさんの助けを受けて手紙のやりとりができるようになったことを書き送ったのが、ほぼ半年前だ。


 新型コロナのせいで、事実上国交も遮断されていたこともあったが、消息不明のままになってしまわなくて、ほんとうに良かった。一年経ったことを知らされ、Mさんとの46年間を思い返すという年寄りらしい感懐。

2021年10月23日土曜日

これは水です

  若いおサカナが二匹、

  仲よく泳いでいる、

  ふとすれちがったのが、

  むこうから泳いできた年上のおサカナで、

  二匹にひょいと会釈をして声をかけた。

  「おはよう、坊や、水はどうだい?」

  

  そして二匹のおサカナは、

  しばらく泳いでから、はっと我に返る。

  一匹が連れに目をやって言った。

  「いったい、水って何のこと?」

  

 こんな詩のようなフレーズからはじまる卒業式の「祝辞」を読んだ。小さな一冊の本になっている。デイビッド・フォスター・ウォレス『THIS IS WATER』(田端書店、2018年)。アメリカでは、出身かどうかに関係なく、著名人を招いて卒業式の祝辞を述べてもらう風習があるようで、これは、オハイオ州で最も古いケニオン・カレッジの2005年度の卒業式に招かれて、行われたもの。

 D.F.ウォレスは1962年生まれのアメリカの作家。2008年に大統領選に出馬するバラク・オバマの立候補演説を依頼されるようなかたであったという(体調不良で引き受けはしなかったが)。

 この「祝辞」の中でウォレスは、人が生きていくということは、生まれ持った感性や感覚、ものの考えかたなどの、「自然に埋め込まれた初期設定」を、無意識に信じ込んで成り行き任せにすると、「退屈で、苛々して、人いきれに喘ぐ、社会人の生活の一面を体験することになる」とみる。そして、意識して組み替えていくことだと力説する。冒頭の詩のようなことばは、「初期設定」を象徴する場面を取り出している。大学で学ぶことというのが、じつは「ものの考え方」であり、でも卒業しても、世の中の「自然に埋め込まれた初期設定」をふだんに見直すコトを続ける必要があるという。それを小さな本で言えば、140ページまでいくつかの事例を引いて述べたのちに、二度繰り返されているフレーズが「これは水です」である。

 卒業式というよりも入学式の「祝辞」にしたい趣があるが、今私たちの孫世代が、どのような「初期設定」に気づき、それを見直して突き崩して組み替えることに臨めるか。

 ウォレスは、しかし、この祝辞を述べた3年後に縊死して46歳の人生を閉じた。双極性障害(躁鬱病)だったと「訳者解説」にあったが、「これは水です」と喜びに満ちて語れる「水」を求めて、苦悶しながらの創作が続けられていたのであろう。ずいぶんたくさんの作品が奥書に記されている。少し手に取ってみようかとおもっている。

2021年10月22日金曜日

学問研究に対する軽視の体質

《ノーベル賞学者の「KAGRA計画」重力波の検出は事実上、不可能に》という見出しに、なんだろうと目をとめた。週刊文春オンラインの記事。

 重力波の検出をアメリカなどと協力して行う計画の「ハイパー・カミオカンデ」KAGRAは、何段階かのグレードアップを重ねて、ノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章氏(62=東京大学宇宙線研究所所長)が研究代表者を務めて、研究を牽引してきた。その会議で、梶田氏が、目標としてきた数値を大幅に引き下げ、重力波の検出が不可能になっていると表明したことが、文春砲にすっぱ抜かれたというもの。

 KAGRAの子細メカニズムは承知していないが、重力波でどれほど遠くの宇宙を見ることができるかという望遠鏡。なんでも「25MPc以上で、重力波を観測できる」という。2015年に重力波を観測したLIGOは「60MPc」の能力をもっていて、ハイパーカミオカンデは「25MPc~130MPc」を目標として計画が進められてきたそうだ。

 梶田氏が(オンライン会議で英語で)明らかにした「目標値の引き下げ」は、なんと「1MPc以上」。重力波の検出には1万5千年かかるという。なんだ、KAGRA計画とはなんだったんだ。この十年間で190億円を投入し、文科省主導で推進してきたという。この十年、何をしていたんだ。

 文春オンライン砲も、事実報道だけをしていて、なぜこうなったかを記載していない。だが、梶田氏は「欧米プロジェクトに較べて15年遅れているから」と、淡々と述べているのに、諦めに近い切歯扼腕を感じる。

 文科省の管轄下に行われる科学研究が、これほど頓珍漢になってしまうのは、どうしてか。類推するというよりも、眼にも明らかになっているのは、ここ30年ほどの間の、日本政府の成長狂い。バブルの夢を再度といわんばかりに、「遅れてきた*十年」が叫ばれてきた。経済構造の改革も、グローバル化への対応も、ことごとく外圧によって渋々動くような気配。自ら改革に乗り出すよりは、外から求められて、やむなく応じるという風体。きぎょうも、だからか、用心に用心を重ねて、内部留保を高めることに腐心し、従業員への分配をおろそかにしてきた。輸出入という外部との取引関係に心を砕くが、内側の経済関係が回ることにはさしたる関心を向けなかった。内部需要喚起も、日本の輸出圧力に苦しんだアメリカから要求されて600兆円もの支出を財政から行うという無様さであった。つまり、国民の暮らしそのものがどうなっていくかに心を傾けなかった。そして気がついてみると、先進諸国の所得は、30年前と較べて40%ほど上昇しているのに、日本のそれは5%に満たないという有様。政権党も、今ごろ選挙で分配あってこその成長を言い始めたと思ったら、逆転して成長あってこその分配と言い直し始めた。つまり、旧来勢力のセンスによる圧力が、相変わらず強く作用している証が見える。

 いや、話は科学研究と政治であった。となると、学術会議の新規任命拒否を、説明抜きに続けていることを挙げねばならない。今回のことと学術会議のこととがつながっているとは思わないが、コトの重要さが何処で目詰まりを起こして、こんな事態になっているかを考えるとき、私たちは、包括的なセンスを思い浮かべる。その直感の背景には、一つひとつのこと、たとえば大学院の博士学位を増やしては来たものの、彼ら、彼女らが学位を取ったもののその後どう活躍することへ気を配ったかを考えてみると、後は野となれ山となれ状態。笊で水を汲むような仕掛けをしておいて、顧みない。

 学術研究が、すぐ現実に役立つかどうか、金になるかどうか、そういう近視眼的な見方で予算を組み、成果が(短期間で)上がらなければどんどん優先順位を下げ、予算を削ってしまうやり方が、まかり通ってきた。それを見てきた私たちは、ほら見たことか。ノーベル賞だなんだと喜ぶのは、半世紀も前にバブル経済を迎えて、有り余る金をつぎ込んでいた成果が花開いたのを見ているだけ。いずれだめになるよと思ってきた。それが目の前に現れるようになったのが、今回の「目標の切り下げ」であった。

 なんのための政府なのか。なんのための研究活動なのか。文化って、なんだ? 国家経済って、輸出入のコトばかりなのか? そもそもクニってなんなんだよ。コクミンの暮らしって、政治の局面ではどういう意味を持ってんだよ。単に、選挙の票数にしか見えないのなら、政治家なんてくそ食らえだ! って怒鳴りたくなるよね。

2021年10月21日木曜日

綠の森の気遣い

 図書館の書架に「今日返却された本」という棚がある。まだ整理しきれないうちにも、借りたい人がいるだろうと気遣って設けられた棚。何十冊と並んでいる時もあるし、ほんの数冊が片隅に収まっている時もある。どんな本を読む人が、この図書館に出入りしているのだろうと推しはかるように、まず覗く。

 知っている名前を見つけた。宮下奈都『綠の庭で寝ころんで』(実業之日本社、2017年)。何年前になるか、この作家の小説を読んで好ましく思ったが、すっかり忘れていた。エッセイ集。表題のエッセイは、彼女が暮らす地元新聞社発行の情報誌に2年ほどの間、連載されたもの。「綠に庭の子どもたち」と題した、子どもをテーマにしたエッセイとして、依頼を受けていたらしい。

 ワケは知らないが、中学生2人と小学生1人の子どもを連れ、北海道の「晩ご飯の買い物にも、ノート一冊買うのにもクルマで40分以上かけて山を下りなければならない」土地に暮らす日々からはじまる。小学校と中学校が一つになっているほど、子どもの数も少ない集落。子どもたちの立ち居振る舞いや言葉が新鮮に拾われ、それを作家の感性が上手く包む。「綠の庭の子どもたち」という連載エッセイのタイトルが、暮らしている風景とともに異彩を放つように新鮮である。しかし「綠の庭」というのは、トムラウシ山の麓というよりも母親だなと思う。この母にしてこの子たちありという感触。

 作家としての思いもときどき、行間をよぎる。作家がホテルに閉じ込められて執筆に追われる「缶詰に憧れる」とか、思い浮かんだストーリーを、ほんのちょっとした家の中のデキゴトに気を向けた拍子に「はて、なんだったっけ?」と忘失してしまうことなど、創作と並行するのはムツカシイだろうなと感じさせる。そうして、「綠に庭」であることへ心持ちを傾ける自然体が好ましく響く。

 その後、長男を高校へ入れるために福井に戻って、地元誌にエッセイを連載するのだが、当の子どもが暮らしているところへ、母親作家の「こどもたち」を登場させるのは、何ともムツカシイはず。だがそれが、こどもたちや彼らを取り囲む人々の心持ちによって柔らかく包まれ、作家はそれを幸せと感じる。ここでの「綠の森」は、柔らかに子どもたちを包む福井の土地と人々を指していると感じられる。

「綠の庭」も「綠の森」も、もっと言葉を換えていえば、ヒトの暮らしを上手く育む環境である。それは物理的景観・環境ばかりでなく、そこに暮らす人々であり、その人たちの関係が作り出す社会的オーラである。それこそが子どもたちを育てる。「綠」に任せればいいじゃないかという達観が、いずれこの作家の落ち着きどころになるような気配が随所に見られる。

 私の子ども世代の作家である。子を産み育てるのに、どれほどの綠を育み、どれほどの豊かさを蓄えてきたか。しかもこのエッセイの行間には、とうてい男の及ぶ業ではないと思われる感性と懐の深さが感じられる。

 近頃のジェンダー論では、女もすなる子育てというものを男もしてみようと奨励する表現にしばしば出くわすが、果たしてそれで上手くできるだろうか。機能的なところはできるにちがいない。でも、なにか肝心要なところが抜け落ちてしまうんじゃないかと戸惑いがついて回る。そう思うと、簡単に作業分業的にジェンダー論をやりとりするわけには行かない。保留にするところが、まだずいぶんたくさん残っていると思わないではいられない。

2021年10月20日水曜日

願望と抑制

 人の世の活動エネルギーは願望に由来する。好奇心も欲望も祈りも探索も、願望が形を変えたもの。だが、前向きに突き出すエネルギーだけでは、コトはならない。過去から現在に至るたくさんの人々の多様な願望が絡み合うから、持続的に、周囲に配慮し、協調的に抑制したり、別の道を通って目的に向かうようにルートを譲ることもある。こうした願望と抑制の絡まり合いの調整装置が、人それぞれの中と社会関係の各所に設けられ、自律的に運べない人には、社会装置が作動して、ブレーキを掛け、あるいは、市場原理を用いて誘い込むように活動している。

 その関係に踏み込み、そこに流れる風や水のぶつかり合って渦を巻き、相乗して奔流となる方向を見定めていくのが物語であると見るところに、人の世の文法を読み取る。その文法もまた、生々流転、とどまりたるためしなく、変わり移ろう。

 それが作家の役目というように、基底部分の人の願望と抑制をみてとり、数多のそれが関わり合って紡ぎ出す文法を物語としてすくい取り、私たちに提示してみせる。その名手の一人、宮部みゆきの『悲嘆の門(上)』(毎日新聞社、2015年)を、今読み終わった。これから下巻にかかる。

 宮部みゆきは、言葉の象徴的表現に長けていて、目に見えないものが世の中を動かしていることを、上手に目に見えるかのように文章に紡ぎ出す。おやっ? と思う不可思議というか、ファンタジックというか、まさか現実にはないよねと感じるような場面には、かならず、その事象の象徴するモノゴトが埋め込まれている。その構造的なメカニズムが、いつもかっちりと整えられている(ことが読み進むにつれてわかってくる)から、おやっ? と思ったことを保留するというか、それを棚上げにしつつ、物語を追う。そうして、しばらく読んでから後に、そうか、これだったかと棚上げしておいてモノゴトが、ジグソーパズルのピースのように上手くはまるのを感じる。その、わが身の裡の日常感覚とわだかまりなく接続していて、なおかつ非日常の物語に身を預けている快感。それを感じるために、宮部みゆきを読む。そういう味わいを、今回も覚えつつ、読んでいる。

 言葉の初源から現在に至るまでの、人の世の媒介項としてのお役目をしっかり押さえて、その移ろいと現在地を浮かび上がらせるのに、ちょっとオカルト的に見える場面を挿入することで物語を駆動し、なおかつ象徴性を込めることによって、平凡な私たちの日常感覚との地平を接合して、違和感を取り払いながら、共感性を醸し出す手法には、舌を巻きつつ、わが身の裡をのぞき込むようなスリルを感じている。

 こう書いたからといって、この小説が何をどう展開しているのかわからない(と思うが)。そこはそれ、読む人の娯しみを奪わないためにも、必要な作法だと受け止めてもらいたい。図書館の書架でふと出逢って見つけた一冊である。さて、今日これから図書館へ足を運んで、「下巻」を借り出さなければならない。図書館へ向かう「願望」を手に入れただけで、はや私は、今日一日を過ごすエネルギーを得た感触を喜んでいる。

2021年10月19日火曜日

教養とリベラル・アーツ

 今日(10/19)の朝日新聞の科学欄に科学誌サイエンティフィック・リポーツの記事が紹介されている。記事の執筆者は東大の研究チーム。「専門知識は自由な発想の邪魔?」と見出しがある。

 調査は、ステレオやパソコンのスピーカーを題材に、200人の参加者に音響学や専門知識を尋ね、その人の所有するスピーカーを写真に撮ってもらい、新機能のアイデアを考えてもらったというもの。その結果について、こうまとめる。

《専門知識が多いと視野が狭まってしまい、素人の方が広い視野で自由な発想ができるケースがありそうだ。植田教授は「専門知識はもちろん重要だが、最初のアイデアを出す部分では、専門知識が少ない人も活躍できるかもしれない」と話している》

 これを読んで、大学のときの「リベラル・アーツ」という言葉を思い出した。専門領域に入る前に、広い視野を培うことが必要という「教養」分野。最初にこの言葉を耳にしたのは、入学式のときの学部長だった言語学者の祝辞。理系、文系という切り分けにこだわらず、発想の次元の違いをものの考え方の違いと見極めて、いろいろな考え方を学ぶことがリベラル・アーツであり教養なのだという趣旨の話であった。

 実際に入学してからの私は、授業で学ぶことよりもサークルや寮の先輩や同輩の立ち居振る舞い、繰り出される言葉やそのしゃべり方、そうしたことの一つひとつに刺激を受けた。発想の次元、ものの考え方、立ち居振る舞いに秘められている生育歴の違い、それらが言葉の違いとなり、実際行動の違いとなって現れてくる。めくるめくような多彩さ、豊潤さに圧倒され、田舎と都会の生育環境の文化的な違いを感じ取り、その違いを感じ取ることが「リベラル・アーツ」だと思った。

 今思うと、「リベラル・アーツ=一般教養」と受け止めていれば、もっと教授連から受け入れるところが多かったろうに、当時の先輩たちは「マジメに授業を受けるのはバカだ」と大真面目に話していたのに私は感応して、サークル活動の方に力が入っていったから、授業に出るよりも(先輩たちとのやりとりに必要な)本を読むことに向かい、学生たちの振る舞いに感じる(身の内に湧き起こる)疑問を解くことから学んだところが多かった。

 それはそれで、私の専攻した経済学のイデオロギー的な傾きが、その科学的な方法にどういう作用を与えているかという哲学論議の入口になり、私の世界観に大きく影響したと振り返って思う。外の世界と「わたしのせかい」との非対称的な相関も、わからないことを次々と生み出して、「わたし」のかたわらに積みおかれることになった。

 都会育ちの人たちの先鋭さと田舎育ちの私の鈍重さとの対比が、つねに、なぜ「わたし」はこう感じるのか、そう考えるのか、と外に対する疑問が自分の内面に向かう視線をともなった。自画像と私は読んだが、それはいわば、無意識にわが身の裡に入り込んだ文化的な堆積物を、一つひとつ我がものとして吟味し、意識化する作業でもあった。いや、過去形ではなく、そのクセは今も続いていて、「わたし」そのものとなっている。

 そうして今思うのだが、その文化的な堆積物の多くは身そのもの、つまり、言葉やイメージにもならない、身体的な身のこなしに蓄積されていて、これが案外、知的世界では等閑視されてきていると痛切に感じる。大正デモクラシー期に青春時代を過ごした我が父母の身に備えていた文化的蓄積の多くは、言葉よりも、立ち居振る舞いの文化であった。あるいは、こういう方が適切だろうか。立ち居振る舞いを言葉として用いた。意識以上に実在が重んじられていた、と。

 それが戦後教育の中で、欧米的理念が理性的に抽出され、リベラル・アーツな「教養」として身体から離陸浮揚し、知的財産のように尊崇されたことによって、大学の一般教養は、俗世の古典に沈殿してしまったように感じる。その行き詰まりが、皮肉にも、現実の実利的な学問を要請することに現れ、一般教養は解体されて「教養学部」というひとつの専攻と化して、捨て置かれるようになった。

 だが、実利的な学問への視線が、じつは近視眼的な実益を求めるものにほかならず、人々のアーツも技芸という技を競うものにしか目が届かず、リベラルもまた、「売れる」意味しか宿さなくなっているのではないか。いまさら、「教養」の復活などというつもりはないが、「発想の次元の違いをものの考え方の違いと見極めて、いろいろな考え方の違いを学ぶことがリベラル・アーツであり教養なのだ」という哲学を、もう一度見直しても悪くないのではないか。その広い視野こそ、行き詰まった時代の先を見通すのに応えられるアイデアを生み出すのではないか。そう思っている。

2021年10月18日月曜日

いい一週間の予感

 週の始まりを歩くことから始めるのは、心地が良い。とことこと歩を進めるごとに踵から頭の先へ軽くずんずんと地面の固さが伝わってくる。頭の夾雑物が背骨に沿ってするするとつま先へ向かい抜けていく感触。リハビリに向かっている。

 先週は、日差しを避けて住宅の陰をたどるように歩いたのに、今日は逆。日向をたどって進む。長袖シャツのボタンを一番上まではめ、腕先のボタンもきっちりと止めている。秋も深まっている感じだ。

 武蔵野台地の畑と植栽を養生する樹木畑が続いていた土地が切り開かれ、虫食い状に住宅地が広がってきた中を、きっぱりと切り裂くように片側二車線、中央分離帯を設えた広い第二産業道路が北へと延びる。大型店舗が開かれて、目下開発途上の賑わいを見せている。30年前越してきた時には樹林の間を細い田舎道が続いていたのに、いまは幹線道路になって車の通行が絶えない。そこの信号を渡って再び、古い田舎道へ入る。ここの樹林もずいぶん少なくなった。田舎っぽさが広がっていた地域に入る。その古い住宅地の中にもっと古くから夫婦二人で営んでいる小っちゃな八百屋があった。そこが、この9月で店を閉めた。まだ店内の片付けをしている。

 浦和駅の南側を抜ける日の出通りへ入る。片側一車線だが、歩道が着いている日の出通りは、車の通行もさほどでなく、いくぶん静かになる。歩く先のバス停の歩道でバス待ちのお客だろう人が二人いる。手前の女学生風は、車道寄りの仕切りブロックに身を寄せて背の後ろが空いているが、その向こうの年配のご婦人は歩道のほぼ真ん中に立っている。

 前を通ってもいいが、それじゃあ悪かろう。後ろが狭い。少し手前で「はい、ごめんよ」と声を掛ける。ご婦人は動かないままに「※*◆」と短く音を発する。もう一度「はい、ごめんよ」と声を掛ける。やはり「※*◆」と音を立て、しかし動かない。狭い後ろを身が当たらないように私は通り抜ける。なんだ、コイツはと思う。品のあるご婦人に見えたが、自分の後ろが狭くなっていることに気遣いをしない。私の声には、「どうぞ」と挨拶を返したつもりなのだろうか。近頃耳が悪くなっている私には、音を発したようにしか聞こえない。こういうとき「邪魔だよ、どけ」とでも怒鳴るようにいった方がいいのだろうか。それとも、前をずい~っと通り抜けた方がいいのだろうか。爽やかな気分はどこかへ行ってしまった。

 20年ほど前までは、この先、字・富士見のバス停を通る天気のいい日には富士山が見えた。だが今は、駅周辺のビルが高層化してすっかり視界を塞いでいる。そういえば、我が家のそばの樹林に、季節になると毎年カッコウが鳴き、その姿も見ることができたが、住宅開発が進んで、いつの間にか来なくなってしまった。家の庭にも、ジョウビタキやシロハラが来ていたのに、今はとんとご無沙汰している。

 主要道を外れ、小学校脇を抜け、住宅街の中を抜ける。駒場運動公園の交差点で産業道路と見沼大橋へ抜ける片側二車線の広い道を渡って、住宅街の中を抜ける遊歩道へ踏み込む。この1・5㌔ほどは木々に囲まれて住宅の裏側を通っている風情がある。ランナーもいるし、犬の散歩をする人もいる。ときどき自転車も通る。市営球場や市立高校や中学校のグラウンドをみながら、閑静な住宅街を抜けると、目的の整形外科クリニックへ着く。

 往復、約2時間弱。クリニックの滞在が約30分余。朝の合計1時間半の散歩が、今週の始まりとなる。季節の進行が感じられ、肩の張りもとれて、いい一週間の予感がする。

2021年10月17日日曜日

意外なルドルフ・シュタイナー

 意外なところでルドルフ・シュタイナーに出逢った。彼が有機農法の開発に力を尽くしていたのだ。私が彼を知ったのは「シュタイナー学校」。神智学の世界観をバックに、子どもの教育に貢献した人という印象であった。その神智学が何なのかもよく分からないまま、子どもの感性に直に訴えかける教育手法と、それに携わる教師の身近な司祭のような振る舞いが、機能的に分節化して「学力」を語り始めていた70年代の日本の教育界には、新鮮に響いた。神智学というのは、よく分からないが、まるごと自然に浸っている人間をとらえているようで、私は好感を抱いていた。

 その彼の名が農業の本を読んでいる時に現れて、驚いたというわけ。藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業――「自然との共生」が生んだ民族の絶滅』(柏書房、2005年)。表題のサブタイトルに関心を抱いて手に取った。読み始めたばかり。その最初の章節で、ルドルフシュタイナーが提唱した「バイオ・ダイナミック農法」がナチス・ドイツの有機農業のスタート台をつくったと取り上げられている。その入口のところで、私は感じ入っているわけです。

 藤原辰史の「バイオ・ダイナミック農法」の紹介は、肝にして要を得ている。私は神智学と記憶していたが、藤原辰史は「人智学」「神秘学」と呼ぶ「占星学的な超自然的精神世界」をまず紹介する。「現代科学からするととりわけ理解しづらい」と藤原がいうシュタイナーの言葉が、なぜだか私にすんなり入るように感じるのは、小説『三体』を読んだ余韻のせいかとも思う。

《植物の内部に動物や人間のための食料となる物質が作り出されている場合には、ケイ石質という回路を通って火星、木星、土星が参与しています。ケイ石質は植物という存在を大宇宙の中へと解き放ち、植物の諸感覚を目覚めさせて、この地球から遠く離れた諸天体が形成したものを、全宇宙圏から受けとるようにするのです》

 全宇宙と地球の生命体とがひと繋がりに捉えられている、この感覚は、私の身についている自然観(の感覚)となんとなく見合うステージって感じがするのだ。

 藤原の紹介は、シュタイナーの、「人智学の用語を用い(た)自然界(の)四つの次元」をこう要約する。

《「鉱物的世界」「エーテル的=生命的世界」「アストラル的=魂的世界」最後に「自我の世界」である。人間は死ぬと鉱物に分解されるが、鉱物を生きた形態にするものが「エーテル的なもの」である。これは端的に言えば植物状態。「アストラル的なもの」は、意識を目覚めさせる。これは、端的に言えば動物状態である。「自我」とは、人間と動物を分け隔てるものである。「記憶」を可能とするのがこの「自我」である。》

 この世に存在するものが鉱物を含めて生態系のような全体の構造として捉えられている。「生命」と「魂」を分けるところはいかにも西欧キリスト教的であったり、動物と人間をことさら分け隔てるところも、西欧的世界観を感じるが、逆に私は、東洋的な自然観に相通じる回路があるように思っている。

 シュタイナーはこの自然観に基づいて、例えば窒素を肥料として鉱物的世界の中でしか理解していないと批判し、上記四つの次元と関連付けて施さなければならないと提起している。藤原はこう記す。

《つまり、シュタイナーは、肥料を、植物栄養の視点から論じるのではなく、惑星、大地、植物を結ぶ通路を通って、通常人間が感じることができないさまざまな次元で「生命」を運ぶ媒体として捉えている》

 この感覚が、「百姓は田を作る。稲は田が作る」という半世紀前から私が学校教育のモチーフとしてきた指針の感覚「教師は学校をつくる。生徒は学校が育てる」と見合うように思う。それはつまり、人間には分からないことがあると考えることだと思う。シュタイナーも、肥料を植物に直に施すと考えるのを愚とし、「大地の生命そのものへ」と関心を傾けるよう主張する。さらにシュタイナーは、チリから硝石を取り寄せることにも異を唱え、「(糞尿も)農場で生きている動物たちから得る」ようにすることが「自然を損な」わないことだという。シュタイナーの考える生態系は、バクテリア、キノコから森、湿地まで含めて、「調和した生態系」をイメージしており、「生物圏平等主義的」農場と藤原は記す。あるいはまた、鉱業機械を使用することにためらいを示し、手作業を重視する発言をしている。これを藤原は《ヴァイマル時代を生きるひとりの農民としての生活信条、生活風習、農作業に対する考え方や態度である》とみて、「農民の心情に根差した質問とシュタイナー理論との往復運動の中から、おそらくシュタイナー自身さえ予測がつかなかったであろう体系が積み上げられていく場面がある」と、「バイオ・ダイナミック農法」の提唱者の、現場農民との関係性をみてとっている。

 そうした世界観で農作業を見て取ることによって、収穫物の貨幣価値ではなく、働くことそのものが自然と関わる喜びをもたらすと述べる辺りに、シュタイナーの教育論との接点があるように感じた。

 さあ、それがどのようにしてナチスと結びつき、どのように「民族の絶滅」につながっていくのか、興味津々で、いま読み進めている。

2021年10月16日土曜日

現代の焚書坑儒、言葉狩り

  一昨日(10/14)のJBpressに、驚くような記事が載った。《習近平の独裁がついにここまで、中国報道機関がすべて国営に》と題した、福島香織記者のレポート。

 中国政府の国家発展改革委員会が10/8に打ち出し、10/14までパブリックオピニオンを求めている「市場参入ネガティブリスト」(2021年)。その第6項目に今年は「ニュースメディア関連業務」が加えられた。その中身はおよそ6つに分けて説明されている。

(1)非公有資本(民間企業)が報道事業を行ってはならない。

(2)非公有資本は報道機関の設立・経営に投資してはならない。その範囲は通信社や出版社、ラジオ・テレビ局だけでなく、ネットニュースサイト、情報編集発信サービス機構なども含む。

(3)非公有資本は、報道機関の紙面、チャンネル、コラム、アカウントなども運営してはならない。

(4)非公有資本は政治、経済、軍事、外交、重大な社会、文化、科学技術、衛生、教育、スポーツ、政治の方向性に関与すること、世論や価値観の誘導に関する活動、事件の実況放送などの業務に従事してはならない。

(5)非公有資本は海外メディアが発信した報道を国内に広めてはならない。

(6)非公有資本が報道・世論領域のフォーラムやサミットを開催したり、(コンテストなど主催して)賞評活動を行ってはならない。

                                      *

 これはどう見ても、情報の全面的な国家独占。かつて日本で行われた刀狩りになぞらえていえば、「言葉狩り」である。ニュースと呼ばれる報道ばかりではない。(2)(3)は、民間のメディアは許可しない。(4)は、人々の暮らしに関わるあらゆる「言葉」が公有資本の元でしか許されない。(5)は外からのものもシャッタアウト。情報鎖国である。では、媒体抜きでやりとりするのはどうかというと、(6)がかっちりと閉め出している。

 思えば、紀元前3世紀、秦の時代、丞相・李斯の意見によって法治主義を徹底させるために、医薬・農業・占い関係以外の書物を焼き、政治を批判した学者などを生き埋めにしたといわれる焚書坑儒。それを彷彿とさせる方針である。(4)には、文化、科学技術や衛生も入っているから、医薬も農業も占いも、娯楽も、国家独占ということになる。つまり「言葉」をすべて国家が独占するという宣言である。秦の時代にはそれを思想統制につかったと歴史の解説書はいうが、上記の「言葉狩り」はそんなものではない。人々の暮らしそのものを、国家統治者の思いのままに操作しようという「人民統制」である。しかも情報化時代という世界の趨勢を視野に入れて、「情報鎖国」を組み込んでいる。となると、中国という檻籠の中に人民を封じ込めて統治する。まさしく北朝鮮化。それを「世界の工場」を自認する国がやろうとしているのであるから、何がTPPだ、自由貿易だといわねばならない。

 ただ、自国の世界経済における位置を承知しているから、これができると自信を示している。つまり他国が文句を言うことはできないと読んでいるとも言える。

 この方針は、しかし、今年急に現れたものではなく、すでに政府系メディアが次々と民間メディアを買い上げてきたこと、政府に批判的な民間メディアや独立系のジャーナリストを、逮捕・拘留・処罰してきたことなどをあげて、情報化時代の進展を推し量りながら手探りで統制にこれ努めてきたと、福島香織記者は記す。まだ「決定」ではないとはいうが、推進路線の先を見せていると付け加えている。

 これは、中国の国内問題なのだろうか。私には、そうは思えない。いうならば、ウィグル族やチベット族ばかりではなく、中国人民を奴隷的に人質にして共産党政権という独裁国家を維持している国家のモンダイだ。しかもその維持の保証になっているのが「世界の工場」という位置だとするならば、新疆ウィグル自治区産の羊の毛を使ったユニクロの不買運動をするだけじゃなく、中国製の製品をボイコットするくらいの応対をしなくちゃならないのではないか。つまり、世界経済と人間の暮らしという、生きることの基底に関わるモンダイが提起されていると思う。

 どうしたらいいだろうか。ひとつ思い浮かぶのは、アナログに戻れということ。デジタルだからこそ、上記の統制は国家独占となる。だが、アナログの「私信」ならば、籠を抜けられる。むろん人民の中に、密告をする輩も居ようから、井戸端会議さえも心しなければならないだろうが、秦に抗して陳勝呉広の乱が起こったことも、それを機に項羽・劉邦の挙兵に至ったことも、三国志演義に詳しい。中国の民は天声人語、言葉狩りに対しては、天の声が味方する。対岸に居て私たちは、形の違う、自国の言葉狩りに抗して、支援していかねばならないと、2200年以上の歴史がひと繋がりになって胸中に胚胎するようになった。

2021年10月15日金曜日

体に聞けーー虚数の実存

 久しぶりに今野敏の作品を手に取った。『精鋭』(朝日新聞出版社、2015年)。警察組織の中では暴力装置的な色合いが強い、機動隊やSATを素材として取り上げている。いかにもこの作家の得意とする筆致が、警察組織全体の中で、それらがどういう位置を占めているか、それらに所属する隊員の心持ちの、なにがこの組織を支えているかを、上手に描き出している。

 一言で言うなら、体に聞け、というのが、この作家の得意技の筆致。一人の青年が警察組織に入り、交番勤務から機動隊へ、そしてSATへと移っていくプロセスを、(自分は一体何をしてるんだろうと考えながら)訓練を通して心持ちが変化していく様子と抱き合わせて、綿密に描く。

 サスペンスやスリラー的要素は全くない。だが、この「体に聞け」という描き方をとおして、読み手にとってこの小説は、とても新鮮に響く。それと同時に、訓練課程に自衛隊の特殊部隊と一緒に訓練を受ける部分があり、警察のSATと自衛隊の特殊部隊との違いが、自衛隊員と警察官の目から浮き彫りにされていく。

 とても印象深い記述に出逢った。日々訓練に明け暮れる機動隊員や自衛隊員は、何を目標に日々の訓練を続けているのか。そのモチベーションをテーマにした一節が面白かった。

 モチベーションといえば、当然のように「(国民の暮らしに)役に立つ」というところだが、機動隊が役に立つというのは、要人警護や社会的動乱の治安維持という側面が思い浮かぶ。自衛隊が役に立つというと、戦争か災害出動、海外での平和維持活動ということになる。いわば(国民にとっては)災厄が襲ってきた時の、防護、救助、救援、防衛活動であるから、その状況自体は歓迎すべきものではない。いわば、実際出動がない方が良い状況であり、出動する時は、国民に不幸が襲ってきた時ということになる。

 実際に昭和32年の、防衛大第一期の卒業生に贈った吉田茂首相の言葉が、作中の自衛隊員の口から話される。

《「自衛隊が国民からちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時の方が、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」と……》

 ああそうか、と私は膝を打つ思いがした。ただ単に、憲法九条の規定に反している組織という意味での「日陰者」というのではない。前面に出て活動しないことが即ち、国民の幸せであるというパラドキシカルな存在。つまり、日常存在は虚数のような「i」。だがiの二乗は「-1」となり、実数と掛け合わせて現実態となる。「虚数」としての実存をモチベーションにして、日々の訓練に励む。

「稽古は実戦のように、実戦は稽古のように」を心構えにしているという。だが、虚数としての実存を良しとしてモチベーションにするのも、しんどい話だなあと、今野敏の描く機動隊員の心情を推察しながら読み進めた。

 でも、そうなんだ。平穏な暮らしを戦後75年続けてきて、じつはそれが良くも悪くも虚数的な存在に裏打ちされていることを等閑視していた。大きく全体構造に言い及べば、虚数の中に在日米軍という実数が幅を利かせていたことも触れなければならないが、警察や自衛隊という組織に関していえば、まさしく「i」という「日陰者」の存在にバックアップされていたと言える。

 作中では、機動隊やSATと自衛隊の違いにも主人公は触れて思案している。SATはテロに対する防護出動、自衛隊は(災害出動を別とすると)国外勢力に対する暴力装置と切り分けている。今野の言及はそこまでである。それは、組織活動の全体像を内側から見ることの限界を示していると思えた。

 要人警護にせよ、社会秩序維持活動にせよ、機動隊やSATの暴力装置は、間違いなく権力者の側に属して発動される。その力の向けられる側もまた国民であるということについて、装置の内側にいる当事者には判断の余地はない。その暴力装置のある位置が、いわば国民の(そのモンダイに関する)分断線である。アベートランプ時代の国民を分断する方向での施策や世論操作が、あからさまになって、それにどう対処するかとというモンダイが浮上する。そのときアメリカでは、「抵抗権」としての(国民の)武装とテーマが浮かび上がり、大統領選を盗んだとか、国家権力を盗んだとフェイクであろうがデマであろうが人々が結束して、騒乱に持ち込むことが常態になりかけている。日本でも現状が続くことになれば、いずれ、そうしたモンダイが俎上に上るだろうか。

 他方自衛隊の方は、災害出動を別とすると、分断線が国境によって確定されているから、外からの脅威は内的にはむしろ結束を固めるように作用する。その違いが、その組織に属するものにとっては(たぶん、いずれ)大きな影響を持つように思うが、もちろん、この作品は、そこまで踏み込んでいない。今後の楽しみというところか。

2021年10月14日木曜日

仮説提起のムツカシサ

  1年前の記事、「ルートnの法則」を読んで、こんなことを考えた。

 この文中の末尾近くにある《人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」》があるから、コロナウィルスの激減がなにゆえなのか分からない、と思った。「ルートnの法則」を適用して考えると、爆発的に増えたコロナウィルスの「ルートn」個が、感染を拡げるのとは逆の動きをしていることだってある。私たちが「疲れた」というのだって、同じ作業を何時間も続けると、逆行分子がおおくなり、「ルートn」個が、2×「ルートn」個になっているってことも、あるかもしれない。


 理科学的にいう「仮説」だって、《人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」》を超えてこその「仮説」ではないか。福岡伸一の動態的平衡というセンスをとりいれれば、コロナウィルスだって、そんなにいつもいつも元気で活発ってわけにもいかない、かもしれない。「疲れたら休め。敵もそう遠くへ行くまい」と昔、誰かがいったように、コロナウィルスにもしココロがあれば、そう呟いているかもしれない。


 そもそもこのウィルス(いつから)コウモリに寄生していたのかどうかは知らないが、長年ヒトにはとりつかないでいたじゃないか。それがヒトに寄りつくというフレークスルーをやっと2019年に果たしてデビューしたではないか。温暖化のせいかもしれない。グローグローバリゼーションの進展のせいかもしれない。中国が経済的な急進展を遂げたおかげで、世界という舞台へお目見えしたと考えると、案外、平凡なヒトの営みがもたらした結果と言えるような気もする。どこが初発原因かは、ナショナリティのモンダイではなく、ジンルイの営みを反省する意味で、探求する必要はあるが、それを「中国ウィルス」と自己都合で呼ぶようにしたトランプの所為で、すっかり国民国家利害モンダイと見なされるようになってしまった。これは、「理解の枠組みの縛り」を狭くしてしまっている。


 そんなことを考えながら、本屋の雑誌棚を眺めていたら、この世界的コロナウィルス騒ぎを教訓に「中国がウィルス兵器を開発中」という記事が、大見出しになっている。「理解の枠組みの縛り」をますます狭くして、その結果、「なぜウィルスが激減したのか分からない」事態となっているんではないか。昨日、今日の、コロナウィルス状況を見て、「仮説」の提起の仕方のムツカシサを思った。

2021年10月13日水曜日

ツルムラサキ

 今朝、最後のツルムラサキのおひたしをいただいた。ツルムラサキを湯がいて細切りの塩昆布と和えただけのものだが、水分をよく含み、クセのない味がご飯に良く合う。

 今年最初のツルムラサキがいつであったか、はっきりと覚えていない。だが6月頃だったろうか。カミサンに聞くと、

「そう、いつもなら植える時期なんだけど、勝手に生えてきてね」

 と笑う。かつては、我が家の狭い庭に畝をつくって植えていたもの。それが種となり地に落ち、いつしか漉き込まれて、自生するようになった。ミツバも、シソも、いまは時期になると自生してくる。何処に何と、秩序だっていない。植える細葱などとも混じり合って、庭がわんさと自生する植物に乗ったられたように賑やかになる。

 その中に、ツルムラサキがひょろひょろと茎を伸ばし、そちらこちらに顔を出していた。そのひと茎ずつを取り払って湯がいたのが食卓に上がる。それが6月から今朝まで、4ヶ月ほども続いたのだから、自然の力強さは、すごいと思う。カミサンは、

「わたしの元気の素は、これよ」

 といって、毎日、出歩いてきた。ありがたいことだ。

 去年はシソの葉を炒めて、梅干しや味噌を絡めた。だがちょっと塩分過多になったかと気遣い、今年は野菜炒めや焼きそばなどの具に切り刻んで入れたが、それで片付くようなシソではなかった。大量に実をつけ、種となり、いまは地面に漉き込まれて来年を待つようだ。

 今ひとつ、蜜柑が成るのをまっている。私の古い友人が、古希祝いとして2年前に苗をくれた。それが去年は小さな実をつけたが、風に揺さぶられたか、虫に食いつかれたか、ポロリと落ちてしまっていた。ところが今年、四つも実をつけている。いまも青々として大きくなり、幹に支柱を当ててやらねばならないほど、垂れ下がっている。たわわって、こういうのをいうのだと感慨深いことであった。ところが、よその家の蜜柑は、もう色づきが変わって黄色くなっているのに、家のそれは、少し青色が薄味がかっているが、いまだ青い。黄色くなったら、古い友に一つやろうと思っているのだが、思うようにいかない。

 古い友は、目下、青息吐息、生きているのが精一杯という風情で毎日を過ごし、月に一回、手紙のやりとりをしている。色が変わったらやるから、それまでは生きていろよと、励ましている。その都度、長文の手紙が届く。ああまだ、これを書けるだけの元気があるなと安堵する。年寄りの黒山羊さんと白山羊さんってところだ。

 我が家の狭い庭は、カミサンが手入れをして、すっかり様子を変え、冬野菜の種をくわえ込んで、静かにしている。雨が降る。

「あっ、もう芽を出している」

 とカミサンの声が聞こえる。冬も、また来年も、食べられるか。こちらも、持ちこたえねばなあと、ちょっぴり自分を激励する。

2021年10月12日火曜日

第二期第13回seminarご報告(4)高温ガス炉という新機軸原子炉

 ミヤケさんの話が佳境に入った。「原子力発電」である。フクシマ以来、「原子力発電」はタブーのように扱われてきた。だが、モンダイは、フクシマが発生したワケをしっかりつかまないで、ただ「原発」を排斥すれば済む話ではない。2011年のときも、ミヤケさんは、エネルギー源としての原発は必要という態度を崩さなかった。そしてそのとき彼は、モンダイは原発を適正に維持運営するだけの企業経営や現場管理が為されていないことと見ていた。

 今回の「原発」に関する提起は、しかし、企業経営や現場管理についてではなかった。原子力発電の仕組みそのものが、これまでと違った技術方式によるものであり、それによって水素精製をするメカニズムであった。

 話は、順を追って進められた。

(1)まずこれまでの福島原発などの、原子炉の構造と電力生成方法。原子炉建屋とタービン建屋の模式図を図示して、海水が原子炉の冷却にどのように用いられているかを示す。その海水が、大地震の津波による電源停止によって供給されなくなったために、原子炉に環流する復水器での冷却が行われなくなり、原子炉の暴走がはじまって高温となり、炉心溶融がおこったと、福島原発事故の概略を説明する。

(2)次に加圧水型原子炉の模式図を示す。フランスでもっぱら用いられているもののようだ。(1)との違いは、原子炉の中を流れる高温水は、蒸気発生器を通過して別系統の水に熱を伝え、即ち冷却され、原子炉に戻る。つまり、自己完結して外部に出ることはない。別系統の蒸気発生器で熱せられた蒸気がタービンを回して電気をつくる。そののち、復水器で系統を別として送られてくる海水によって冷却され、再び蒸気発生器の方へ送り込まれる形で、これも自己完結している。冷却に海水を用いる点では(1)と同じであり、もし万一電源停止となって海水が送り込まれなくなれば、フクシマと同じケースに至ることも考えられる。

(3)上記と違うのが,新規に提案される「高温ガス炉」。炉心の主な構成材に黒鉛を中心としたセラミック材料を使い、核分裂で生じた熱を外へ取り出すための冷却剤にヘリウムガスを用いたもの。軽水炉は300度ほどしか取り出せないが、高温ガス炉は1000℃程度を取り出すことができるため、二次系ヘリウムの900℃で水素製造を行うことが可能になる。850℃でガスタービン電気をおこない、200℃に下がったヘリウムを地域暖房や海水の淡水化などにも利用可能である。蒸気タービンの発電効率は30%程度だが、高温ガス炉のそれは45%以上となる。黒鉛構造材が2500℃の熱に耐える。また、セラミックス被覆燃料は1600℃でも放射性物質を閉じ込める。こういう新素材の開発によって、この高温ガス炉は可能となった。

 なにより、炉心溶融、水素爆発、放射性物質を発生する恐れがないと聞くと、いいことずくめ。小型の発電装置を設置することができるから、需要地で発電して供給する,いわゆる地産地消が可能になる。ということは、地域的な電力設計に対応が可能であり、従来のように過疎地を植民地的に利用するのとは異なる原子炉の設置を考えることができる。

 まだ、試験段階のようだ。これが実用化されると、海辺につくる必要もなくなる。ただ原理的には、放射性廃棄物の処理ができないことがモンダイとして残る。また、事業管理面での懸念さえ拭えれば、具体化できるが、それよりなにより、国民の間に広まっている原子力アレルギーが解きほぐされないと、ムツカシイと、ミヤケさんは結論的に慨嘆した。

 タツコさんからひとつ、質問が飛んだ。

「自民党総裁選の高市候補が、核融合方式をとればといっているが、核分裂とどう違うの?」

 ミヤケさんから翌日、次のようなメールが届いた。

《昨日のセミナーで質問があった件、私の回答が中途半端でしたので、ここに補足します。

核融合について:

 ドーナツ形の真空容器の中に、セ氏1億度を超える超高温の重水素と放射性物質であるトリチウム(三重水素)を閉じ込め、原子をくっつけることでエネルギーを生み出す――。ここで起きているのは地球と1・5億kmも離れた太陽の内部で起こっているのと同じ反応だ。酸素がない宇宙空間で生じている反応であり、もちろん二酸化炭素(CO2)を排出しない。そんな太陽と同じ反応を地上で再現するのが核融合炉だ。

 核融合炉は日本では「次世代原発」として語られることが多いが、電力供給が止まれば反応が止まるため、従来の原子力発電に比べれば安全性は非常に高く、廃棄物も出ない。② 核燃料サイクル

 核燃料サイクルとは、原子力発電で使い終えた燃料から核分裂していないウランや新たに生まれたプルトニウムなどをエネルギー資源として回収し、再び原子力発電の燃料に使うしくみです。

 このウラン・プルトニウムを再処理(再処理と使用済燃料の中間貯蔵参照)という工程で回収し、混合酸化物燃料(MOX燃料、Mixed Oxide Fuel)とすれば、再び原子力発電所で使用(プルサーマル)することができます。》

                                      *

 高市候補が,どのような文脈で核融合に触れたのか分からないが、タツコさんの話のトーンでは「未来の方式」というようであった。だが、ミヤケさんの補足は、まったく科学技術的なコメントに終始している。それよりも先に私は、えっ? 今頃高市さんは何言ってんの? と思った。

 日本のプルサーマル計画として鳴り物入りでスタートしたのが「もんじゅ」であった。しかし「もんじゅ」は1994年に臨界に達した後、「ナトリウム漏洩事故」を起こし、その後、設備装置の落下事故など、相次ぐお粗末な作業と管理を露呈して、ついに2016年に政府が「もんじゅ」の廃炉を決定したではないか。

 その失敗に対する原子力関係者や研究者の真摯な総括が行われている(にちがいない)と私は思っていた。だがそもそも、「未来の方式」という夢を売るような技術的事項として話を持ち出すことができることではないと、私は受け止めている。なんか、(この話自体が)変じゃないか。

                                      *

 ミヤケさんの話は、まったく科学技術的な「原子力発電」の解説であった。だが、科学的な基礎理論の展開と技術的な具体的可能性だけでは,すぐに信用できないことを,私たちはフクシマで体験した。つまり基礎理論に技術が伴い、それの現実展開に見通しがついたとしても、それを経営的に、ひとつの事業として起こし、持続するにはいくつも乗り越えなければならない「壁」がある。

 しかも、フクシマの事後処理に当たって、露呈した、事業経営者や政治家や原子力関係者の「情報秘匿」が、人々の原子力発電に対する信用を,大いに損なった。彼らに任せることが私たちの暮らしを脅かす。危険そのものであった。いや、そればかりではない。その後の、フクシマの除染や復興ということについても、何をやってんだろうという見当違いの施策が数多見られる。避難者からすると、モンダイが先送りされ、切羽詰まって、ほかに手の施しようがない事態に至ってから、ではどうすればいいというのかと居直るような態度が行政に見受けられる。除染もそう汚染水の処理もそう。事態が発生した時から見通せたモンダイであるはずなのに、言を左右にして先送りし、動きが着かなくなって時点で、どうしようもないと提案する手口には、もう飽き飽きするくらいである。この状況は、いまもまったく変わっていない。

                                      *

 ミヤケさんはさいごに、次の5点を提示して話をまとめた。

1,走行時にはCO2を排出しなくても、走行に利用する電気を発電する際のCO2排出が問題であり、結局は、発電の問題に尽きる。

2,EVでは直接に、FCVでは間接に(水素製造時に)電気のお世話になる。

3,いかにCO2の排出を少なくして発電するかが最終の問題であり、解は原発しかない。

4,カーボンニュートラルを言うなら、走行時のCO2排出ではなく発電時のCO2排出を議論すべき。

5,即ち、トータルなエネルギー戦略の議論が必要。火力、再生可能、原子力などの比率を実現可能な範囲で策定すべき。


 折に触れて考えていきたい。(「第13回seminarご報告」終わり)

2021年10月11日月曜日

都道府県ランキング

 昨日(10/10)の新聞に、「47都道府県のランキング発表」と記事があった。大見出しは「私の地元 魅力度は?」とある。

《ランキングは,ブランド総合研究所が7月、ネット上で各地の認知度や訪問経験、観光意欲など89項目について約3万5千人から回答を得て,年齢や人口分布を考慮した上で点数化した》

 と、説明がある。最下位順位を気にしていた栃木県や茨城県が、どのような取り組みをしたかを取り上げて、「茨城、再び最下位…西日本で認知度低く」と袖見出しにしている。44位から下位へ、群馬、埼玉、佐賀、茨城の47位へと並んでいる。我が埼玉は,昨年の38位から45位へと順位を下げている。これひょっとすると、「翔んで埼玉」って映画の効果が、賞味期限切れになったってことじゃないの? 

 記事は、昨年最下位であった栃木県が(41位になったのは)3千万円を掛けて「開き直ったPR作戦を展開した」ことを記載している。これは、

(1)「知ってもらいたい」という外部評価を気にしているのだろうか、それとも、

(2)「魅力を伝えて」観光客の誘致をしているのだろうか、あるいはたた単に、

(3)ランキング順位が下位であることに苛立って、順位を上げたいと思っているだけなのだろうか。

 「都道府県魅力度ランキング2021完全版」(ダイヤモンド)を読むと、東京都の「点数の伸びが大きかった」のは、「本調査直後に始まったオリンピック、パラリンピックの影響可能性が大」とある。また、「次に点数の伸びが大きかった千葉県」(順位を21位から12位)は、20代の点数の伸びが前年の4倍になったと子細を記している。

 コロナ禍で近場の観光地が見直されているが、日光や那須が栃木県とは認識されていないともあり、「栃木県の潜在力や地域資源が,あまりにも低すぎる」とコメントも添えられている。

 この調査のトーンは、昨日のこの欄で取り上げたことと同類である。「魅力」というのは観光客がどれだけ振り向いてくれるかという数値であり、上記に記した(1)~(3)を総じていうと、「観光客呼び込み度ランキング」といった風情になる。となると、昨日のこのブログ話題同様、金勘定にしてどれだけ魅力があるかを俎上にあげているわけだ。

 こういう調査をする組織も、それを記事として取り上げるメディアも、いずれも「金勘定魅力」にしか目が向いていない。調査会社の項目にはきっとないから、私の好みは反映されないわけだが、私はむしろ、この都道府県別ランキングの下位にあることを好ましく思う。

 知名度が低い、観光地が少ない、人の出入りが少ないのかもしれない。だがそれは、その土地に暮らす人々が、他の土地からやってくる人の懐を当てにしない生活の型を保っているということではないのか。ま、あまり綺麗事では言えないが、埼玉県などは、東京への出稼ぎでせっせと生業を立てている。埼玉には寝に帰っているだけという働き手も多い。だが逆にそれは、「暮らし」の基本をしっかりと押さえた生活パターンを保っているということである。その強さは、コロナ禍では一番の強みであった。

 ステイホームを呼びかけられて、慌てふためいたのは東京への出稼ぎ者たち。だが幸いにも、未だに公共交通機関が感染源になったという報道はなされない。人流を抑えるとはいうが、電車やバスに乗るなとは,為政者は誰も言わない。外食をやめろとか、お酒を提供するなとはいうが、慎ましく家で料理をして食事をしている分には、何一つ困らない。スーパーの買い出しでマスクをしたり、混み合う時間帯を避ける程度の調整をすれば、むしろ遊びに行かない分だけ遊興費がいらなくなり、亭主がお酒を飲まないで帰ってくる分だけ、交際費もいらない。リモートワークで一日中在宅勤務をいうのが、ひょっとすると煩わしいとお内儀は感じているかもしれないが、家族経営的な自営業の人たちはいつでも一緒にいるのだから、これはお内儀も我慢しなければならない。

 もちろん市場経済の世の中だから、埼玉県域の公益商品だけで暮らしが成り立っているわけではないが、県産品の製造と「輸出」や出稼ぎを含めた「外貨」を稼ぎ、それをもって、圏外からいろいろなものを「輸入」して消費している。観光客を呼び込む必要があるのは、そういう人たちを当て込んだサービス業だろうが、人気が低く、観光地も少ないとなると、それに依存している産業従事者も,そう多くはないということになる。まさしくwith-コロナ時代にふさわしい、産業構造ではないかと思わせる。

 そう考えてみると、この「都道府県別ランキング」の順位が低いところは、むしろ次の時代の地域立て直しに一番優位な位置を占めているとは言えまいか。浮かれ暮らすことが、人生ではない。世間の顔色をうかがって,自らの自画像を作り出す必要もない。順位をつけられて「ブランド力」の有無に心を砕くよりは、自律した暮らしの型をしっかりと作ることに気を配るのが、with-コロナ時代の優先順位の上位に来るはずだ。そう思って、こんな「ランキング」に動揺しない埼玉県を誇らしく思った。

2021年10月10日日曜日

神の留守の祝日

 山での事故があってほぼ半年、通っているリハビリも一区切り付け、ペースを落として良いと医師の診たてが出た。これまで週4回通っていたリハビリも2回にする。月、木と曜日を決めた。と、早速11日は「スポーツの日」、祝日。

 今週は火、木かと呟いたら、カミサンが「祝日がなくなっていた神の留守」と、何やら川柳を読み上げる。

 なんだ、それ? 

 11日は祝日じゃないのよ。

 だって、ほらっ、カレンダー観てごらんよ。11日はスポーツの日だよ。

 ハハハ、どこいっちゃんでしょうね、スポーツの日。オリンピックに吸収されちゃったみたいよ。

 オリンピックに合わせて、祝日を集中して盛り上げようという算段をしたんでしょう、政府が。でもそれが決まるのが遅いから、カレンダー業者が間に合わなかったってこと、とカミサンの説明が続いた。

 このご都合主義、これが私たちの心持ちから時間的な堆積性・継承性を奪っていくんだと思った。

 10月10日は、体育の日であった。東京オリンピックの開会式があってから祝日となった。ところが、いつからだったか忘れたが、それが、十月の第二日曜日になった。なんでも、連休にした方が、人々が遊びに行く,観光業などの経済効果があってよいと、(たぶん)どこかのシンクタンクが言い出して、政府が乗っかったんだね。

 バカだねえ、戦前開かれることになっていたのを戦争でおじゃんにしておいて、戦後やっと復興して「悲願のオリンピック開催」と喜んで祝日にした記念日じゃないか。それを、目先の経済効果を当て込んで替えてしまうなんて、この国の操縦をしている人たちの視界が近視眼的になり、現在が過去の堆積の上に成り立っていることをゴミのように扱っている。そのとき私は、そうみていた。

 今回,コロナ・オリンピックになるからと、10月から7月へ大幅に引っ越してしまうなんて、こんなの祝日じゃないよ。ただの、欲望むき出しの便宜主義だよ。恥ずかしくないのか。

 これで見込む「経済効果」ってのが、今回オリンピックの本質ってところだ、とも思った。つまり、オリンピックは観光客を呼び込むための方便。日本の経済成長の夢よ再び路線。競技をするアスリートやそれに刺激を受けて文化的な豊潤へと向かう国民は,二の次。やだお金を支払ってくれる対象としか見られていない。

 たぶん、ここ、つまり、オリンピックがスポーツの祭典であり国際交流であるというのは、じつは、開催国の国民の、ひいては人類の暮らしの豊かさを象徴することであるとみるのではなく、これを集金箱の最良の方法と考えている人たちが、主催者だったってこと。それを証明したようなことだよね。

 「神の留守」とは言い得て妙だ。神無月というだけではない。金勘定ばかりがモチーフとなって変更された祝日だが、ものの見事にそれは精神性をうち捨ててしまっているじゃないか。日本の為政者だけではない。ジンルイがその段階にきて、その心裡から「神を留守にさせている」。

2021年10月9日土曜日

身に迫る老いる形

「ご無沙汰……」と電話があった。(ああ、地震の心配してくれての電話やな)と思い、声を聞く。関西に住む叔母。94歳になる。以前にも,台風19号被害があったと報道された時にも「あんたのところは大丈夫だった?」と消息を尋ねる電話があった。あれは2年前の今頃のことであったか。

 叔母は、同い年のご亭主とほんとうに仲良く暮らしてきた。子どものいないこともあって、姪や甥が遊びに来ることを気さくに歓迎し、私たちも気兼ねなく、よく行き来をしていた。3年前だったかな、自宅でご亭主の面倒を見ることが叶わなくなり、二人でサ高住のようなところへ入所した。それと同時に、すぐ近くに住む孫姪を養女に入籍して、彼岸に旅立つ後の憂いを始末してもらえるようにしたと聞いていた。

 6人兄弟姉妹の長男であった私の父親の兄妹で存命なのは,叔母の二人。祖母は享年98であったから、ま、長寿の家系と言えそうだ。

 2014年2月に訪ねたときのことを、次のように記している。

 11日、上京する途上で、大阪に住む叔母の家を表敬訪問。岡山駅で駅弁を買っていって、一緒にお昼を食べようと連絡をしておいた。叔母は春巻きをつくり、ホタテの貝柱を取り寄せてつまみにしてくれ、さらに手作りのパウンドケーキを土産にもたせてくれた。昭和2生まれの86歳。お花の師匠もし、書道の作品も、まだ仕上げている。私は「徒然草」をかな書きした巻紙を、形見分けの時にもらう「予約」をした。これだけ動く気力をもっていれば、まだまだかくしゃくとしていると言える。叔父も若干の病をもちながら、おしゃべりに付き合う明晰な頭をもっている。これまでの海外旅行の写真を整理して、もう100冊以上の分冊になるというほど、モノゴトの整理と整頓に、今でも心配りをしている。子どもがいないとはいえ、幸せな老後を送っていると言える。15年先にこれだけの生活をしているかどうか、いまからでも間に合うかなと、我が身を振り返っていた。

 また、2016年1月の訪問記録もあった。

 千里の叔母というのは、私の亡父の6人兄弟姉妹の妹。存命は末の妹と二人だけ。「15も年が離れていたから女学校のときの父兄会にお兄さんが来てくれてな、ちょび髭をはやしていたから、先生から、若いお父さんやなと言われた」と笑って話す。子どもがいないまま、夫婦とも米寿を迎えた。その叔父が脳梗塞で倒れて入院、目下リハビリ病院に入院している。叔母は歩くのに不自由であるが、その世話で忙しない。叔母も叔父も、顔艶は良く声に張りがある。やりとりもしっかりしている。「そりゃあ、早く家に帰りたいわ」と叔父は明るい。近所に住まう甥や姪やその子どもたちが、入れ代わり立ち代わり面倒を見に足を運んでくる。半世紀以上のお付き合いをする(高級住宅街の)ご近所さんも、何かというと手を貸してくれる、という。いわば、これまでの「かんけい」の総決算がなされているような日々に思える。

 2017年3月には、祖父の50回忌、「本家」を継いだ叔父の7回忌のときに高松市で、顔を合わせている。こう記す。

 最年長の叔母は今年90歳、大阪からやってきていました。同い年のご亭主も健在ですが、大きな移動が不自由なため、ご亭主を堺に住む私の弟夫婦がみている間に、大阪で開業している私の従弟夫婦が叔母を車に乗せて連れてきて、その日のうちに連れて帰るという算段をしていました。もう一人の叔母、86歳と久し振りに何やら話し込んでいるのが、ちょっとうらやましいようにみえました。そのもう一人の叔母夫婦もいろいろな患いに見舞われたのに、しっかりと回復して、スリムになっていました。86歳の叔母はお茶の師匠を90歳までは続けようと思うと、張りのある声を出していました。同い年のご亭主は胃を切除しているせいですっかり痩せて57kg、今年の運転免許が更新できれば90歳までは運転すると意気軒昂。この夫婦、去年には孫娘の案内でカンボジアのアンコールワットへ行ってきたと嬉しそうに話していました。この歳になって元気でいることがどんなに大変かと思うと、頭が下がります。

 その後にもう一回訪ねたはずだが、それがいつのことであったか、わからない。そのときは、堺に住む弟と一緒に訪れ、2014年に「予約」した「徒然草」のかな書き巻物を頂戴してきた。いま私の手元にある。

 さて、本題は、電話のこと。

 声がしゃがれている。2年前に電話があった時は、声に張りがあり、とても90代とは思えなかった。

「どこか調子が悪いん?」

「そうよ。どこもここも。歩くのがしんどくてな、食堂まで行くのに、歩行補助器をつかっても、時間がかかるわ」

 と話がはじまり、近況の話になる。

「(部屋に一緒にいるオジさんは)退院以来歩けないし、誤嚥するっていわれて、すりつぶしたものをたべさせてもらってる。すぐに横になってしまって、歩けないんよ。」

「なさけないわぁ。筆ももてんようになってしもた」 

「眼がみえんようになってな。TVもな、文字も人の顔もぼんやりしてしもうて」

 と愚痴をこぼす。そのうちに

「はやくお迎えが来てほしいけど、オジさんがいる間は頑張らないといかんしな」

 と、自分の立ち位置を意識している。話の脈絡も、縁戚関係の人の名前もきちんとしている。

 あれこれ話しているうちに、部屋の鍵が盗まれ、姪っ子にあげようと思っていた宝飾品がなくなり、冷蔵庫に入れておいた(甥っ子が送ってくれた)葡萄が,この施設の職員に取られてしまったという。さらにそれを施設長に訴えても(証拠がないと)取り合ってもらえないし、盗っていった本人にいうけど、笑ってごまかしてしまうと言い始めた。

「昨日の地震ですが……」

 と、こちらから話を切り替えると、

「そやそや、どうだったん? そう、それはよかった」

 と気を取り直したように,声のトーンが変わり、昔の叔母に戻ったようであった。

 あんなに聡明で、しっかりしていた叔母が、まさか惚け始めたとは思えないが、話の運びからすると、その施設では殆ど認知症を発症しているように扱われているのかもしれない。と同時に、歳をとるって、こういうことよと、16年の年の差を知らせてくれているとも思える。そういえば先日のseminarで認知症を十年病んだ奥様を亡くした友人が、認知症は原因も分からないし治療法もない、だれがなっても不思議でないと力説していたのを思い出した。

 いや、認知症だけではない。眼が衰え、耳が遠くなり、足腰が弱り、歩行が困難となって介助なしでは行きたいところへいけないとなるのは、長生きすれば避けようがない。その事態が,16年後に待ち受けている。そう思うと、叔母の近況は他人事ではなく我がことであった。いかに元気なうちに死ねるか。意のままにならぬ大きなモンダイが浮上してきた。

2021年10月8日金曜日

直下型地震

 昨夜(10/7)下からドンと突き上げる感触に眼をさます。うん? と思うまもなく、ぐらぐらと揺れがはじまり、おっ、おっ、これは大きいと身を起こす。何かが落ちる音がする。「ここが一番安全だから」とカミサンも目を覚ましたようだ。

 私はリビングへいき、TVをつける。10時41分。なんだ、まだこんな時間なんだ。熟睡していた私が、可笑しい。震度5弱。東日本大震災のときと同じ震度。だが、十年前は揺れが長かった。パソコンを打っていた部屋から飛び出して、揺れが収まるまで部屋の入口でしばらく立ったままであった。だが、今回は、震源を確認しただけで、すぐまた寝に就いてしまった。その程度。

 私の住む緑区は震度5弱、隣の浦和区は震度4。緑区の南隣、川口市は震度5強、25km程北に離れた宮代町も震度5強。その間に挟まれた緑区は震度5弱。更に北側の間に挟まれた越谷市や春日部市は震度4。なんの違いだろう。断層が走る箇所に近いか遠いかだろうか。75km程下の直下型というから、地盤の堅さと揺れの伝わり方が関係しているのだろうが、堅い方が強く伝わるのか、柔らかい方が良く揺れるのか、それがわからない。ま、どちらにしても、今いるここからどこかへ引っ越すわけにはいかないから、関東大震災2・0がやってくるまで、待つしかない。ま、それまで寿命があっての話だけどね。

 朝になって、昨夜すでに、関西の兄弟からメールが届いていたことが分かった。あんな時間に、皆さん起きているんだねと感心しながら返信を打つ。電話も来る。ちょうど転んで傷ついた傷口に白血球が集まるようなものだ。もちろんそれで、手当になっている。

 古い大陸に暮らす(地震を体験しない)人たちは、こうした揺れに驚くらしい。だが私は震度5弱にはこの程度の反応しかしない。それが私の心の習慣。いいことかまずいことかは,後になってみなければ分からない。用心に越したことはないと、人は言うけれど、どこに越すラインがあるのか、心の習慣が決めるのだとしたら、慣れ親しむというのも大概にしないと、大怪我の元になる。

 何週間かは,大きな地震に注意して下さいと、TVが報道している。そろそろ来てもいい頃合いだと研究者は考えている。こちらは、ケセラセラですね。

健康な常態

  1年前の記事「目の付け所に舌を巻く」が、ブログサイトから送られてくる。読んで,1年後の感想を記してみようと,お誘い付き。サイト主催者が,どういう意図でこういうサービスをしているのか知らないが、私は自らを対象化してみる機会として、好感している。

  一年前のこの記事を読んで、そうだ、こういう本に出逢いたいがために、本を読んでいるのだと、改めて思った。読み始める時の「動機」が,読み進めるにしたがって修正され、あるいは別次元の関心が付け加わり、読み終わった時にそれもまた修正されて、書名の表現しているテーマが、じつはこの本の実在そのものという感懐をもたらす。これって、ちょっとした「世界」の旅をしたような気分を醸す。

 でも、わずか一年で、そう書いたことも忘れてしまっている。これが、年寄りの健康な状態。常態。ときどき、「1年前の記事」って、思い出させてくれるブログ運営者の手を借りて、感懐を新たにしている。ありがたいことだ。

2021年10月7日木曜日

36会第二期第13回seminarご報告(3)ワタシの美意識

 今年の東京モーターショウは中止されたが、5月の上海やいま開かれている天津モーターショウには、電気自動車がずらりと展示されているそうだ。新聞は,世界各国の自動車会社がEVやFCVの開発競争に乗り出していると報じ、2030年にEVの占める割合まで順位づけて載せている。そこには、電力創出に関するCO₂排出の問題は取り上げられていない。EV化すれば気候変動の問題は解決するといわんばかりの前提となっている。それこそ、ミヤケさんが指摘したかった点。電気自動車のCO₂排出とエネルギー経済性を説明したのは、EUを先頭にして世界がもっぱらそちらに突っ走っているからであった。

 ミヤケさんの話は、あくまでも理化学的、かつ技術的なレベルであった。

 では、電気に代わるクルマのエネルギー源はあるのか、それは何かであった。

 一つは、水素。もうひとつは自然エネルギー。後者は,水力、太陽光,風力、地熱など,いろいろと挙げられるが、いずれも貯蔵できない点で、EVと同じ問題を抱えている。そう前振りをして、「燃料電池車Fuel Cell Vehicle/FCV」へ話を移した。

 これは、「蓄電池を搭載したEV」と異なり、「発電機を搭載した電気自動車」。「水素自動車」と呼ばれるものを代表例として取り上げた。

 水素は、水か炭化水素のかたちでしか存在しない。それを分離・分解して取り出すことになる。目下開発途上。実用化にはほど遠い。水の電気分解と逆の工程で水素を燃やして電気を取り出しモーターを回す。電磁的ではなく化学的に発電するもの。モーター駆動の方式はEVのそれを利用できるから、FCVはEVの延長上に位置すると言える。

 水素を取り出す方式は大きく分けると4方法ある。

 製鉄工業の副生ガスからもとれる。これが、前回seminarでイセキさんが俎上に載せた「エネルギー問題」であった。

 そのほかに、自然エネルギーを用いて水の分解をする方法とか、バイオマスと呼ばれる、メタンガスやエタノールを触媒を用いて改質するなどある。

 だが、いま試みられている一般的なのは、化石燃料の改質法。天然ガスなどに触媒を用いて炭化水素を分離するもの。コストがかかりすぎることと、水素の輸送、水素ステーションの全国配置などの政策的な展開が鍵になる。また、化石燃料の改質による水素生成は、CO₂排出を伴うことも問題が残る。

 そう論点を提示して、本題、「原子力発電の新展開」に移った。

                                      *

 じつは、この「ご報告」を書くのに、私はなかなか気が乗らない。手元に「資料」はある。だのになぜ書く気にならないのか、我がことながら不思議だ。

 歳のせいかと,はじめ思った。だが気が乗らないのは、ワタシの傾きがヒトに向いていて、天然自然から離れているからじゃないか。ミヤケさんが自然の摂理に傾ける関心は、なかなかのものがある。高校時代の物理に感じた面白さを,未だに保っている。ぼんやりとそう思いついて、ひとつ,ひょんなことを思いだした。

 自分が好きな子に手を出さないのはなぜと聞かれた場面で、ゲーテ(の作品の主人公)が、「私が君を愛しているとして、君がそれとなんの関係がある?」と応じた言葉。その言葉は、「美意識」はそれを持つ人固有の,絶対的なもの(したがって他の人に理解を求める必要のないこと)と受け止めていた。ちょうど宇宙に心惹かれ、E=MC²を美しいと感じていたアインシュタインに対して宇宙は,何ほどかの心を動かすことをしたろうか。ガモフ全集を読みながら、そう思っていた。そうして、私は「美意識」に縁がないと思っていた。

 だが、ゲーテが(好きな子の)「魂」を取り上げていたのだとしたら、「美意識」というよりも、ピラトニックな愛とはこういうものだといっていたのかもしれない。そう、受け止め方を修正したこともあった。これは当時の我が心持ちにうまくフィットするようであった。

 だが長じて、「関係的な認識」を持つようになって、「君がそれとなんの関係がある?」というのは、わが身に合わないと思うようになった。ワタシはそのように言える場に身を置いていない。つねにワタシとの関係においてモノゴトを捉える視線こそが、私であると考えるようになっていた。それはワタシが生い育った社会関係の単なる器に過ぎないということもである。これは、卑俗なわが身の認知であった。同時に、「魂」がそれ自体で存在しているのではなく、身体とともに実在している(べき)もの、「身」だと感じるようにもなっていた。「美意識」に欠けるワタシは、卑属の実在,つまりヒトとしてのワタシに我を発見したのであった。

 ミヤケさんの「美意識」(理化学的なものの見方)がそれとしてあることは、よく分かる。だがワタシは、その次元では心が燃え上がらない。どうしてもヒトを介して、ミヤケさんのモンダイとする「美意識」がワタシにとって何であるかを問い返さなければ、書き続けようとする意思につながらない。そんな感じがしているのである。(つづく)

2021年10月6日水曜日

SNSの憂さ晴らし文化

 情報化時代になって、日々のニュースも、各メディアの発信するのを集約して短くしたニュースサイトが多くなった。social networking service というより、short news service の趣がある。ちょうど新聞の見出しを追うような気分で見ている。

 TVなどの報道番組も、似たり寄ったりの中味だったり,ときにはどこのチャンネルに合わせても、皆同じ記者会見を見せていたりすると、TV自体を消してしまう。いやになるのだ。そういうとき、short news serviceの方のSNSが、具合がいい。

 新聞を読むのも、ニュースは見出しだけという風になる。踏み込んだ関心は、どこかに消し飛んでいる。ことに政治の動向などは、聞くまでもないという気分になっている。ニュースならば、せいぜい海外の動きに関すること。文化情報や人々の様子を報じる企画に関心が傾き、それらは詳細も読むが、あとは見出しをざあっと眺めるだけという己の傾向に気づいている。忙しいわけではなく、ほかのことはどうでも良くなっている。

 こういう「傾き」に気づくと、新聞を読まないとかTVを観ない若者が増えているというのが、我がことのように感じられるようになる。と同時に、これが続くと、「わたし」の情報形成が或る「片寄り」を持つようになると思う。

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(1)まず、モノゴトが手短に簡略化される。因果関係もショートカット。そのデキゴトとワタシとの関係がパッと思い浮かんで、ちょっとした印象を残して次へ移る。これはセカイが簡略化されることに等しい。

(2)自身の抱くセカイが簡略化されるってことは、だが、全部が全部簡略になるわけではない。深い関心を持っているところについては、細かく情報を収集する。あるいは、強く関心を持った時に検索すれば、子細を覗くことができるのが、SNSの得意技である。その我が関心の「傾き」を意識していないと、人を見誤るようにもなる。同じデキゴトについてしゃべっていても、まるで重心の置き方が異なっていたりする。それは捉え方の深みに及んでいて、何しゃべってんのコイツって思うほどにすれ違ったりする。でも調子を合わせたりすると、交わされる言葉は深みの浅い方にそろうようになるから、コミュニケーションが薄く広くなる。つまらなくなる。

(3)それじゃあつまらないから、関心の深さを近づけようとすると、論理とことばを重ねなければならない。それは二重焦点になっている立体画像を、上手に焦点を近づけ合わせて,くっきりと見えるように調整することばをつかう。うまく焦点を合わせるには、じつは相手もそのように焦点を合わせる作用に動いていなくてはならないから、ただ単に交わされることばだけでなく、ことばのトーンや顔つき、所作・振る舞いも動員することになる。食事を取りながらとか、お酒を飲んでいるとかいった、場面も,むろん影響する。1対1か、複数の集まりかも,深みに入るには運びが異なる。二重焦点が三重、四重になると、ことばの綱引きが行われる。発言力のあるやつが主導権を取る。そこを軸として、ほかの人たちが焦点を合わせるように,話は展開するのが好ましい。だんだん,その集まりは気心のしれた「仲間同士」になる。そうでないと、気遣いが煩わしい。多様な人が集まると、思惑も絡まる。交わされる話の焦点はぼけ、深みは削がれていく。不特定の人が集まると、話は単純明快な方が良いというのは、その通りだ。複雑だと、外れてしまう。

(4)SNSはたいてい、一人で観ている。そこへ(4)で述べたように「仲間内」の集いとなり、相共感共鳴することばが行き交う。よほど自問自答が習いになっていないと、自分の「傾き」に気がつかない。気がつかなくても、その「情報」に接して感覚や感情は動員されるから、悲憤慷慨したり、馬鹿にしたり差別的な言辞を弄したりするのは、身の自然として発動される。ヘイトスピーチを繰り出したり、意を同じうするものの発言をコピペしたりして拡散するというのは、とどのつまり自分の憂さ晴らしにすぎない。これも発言の自由と識者はいうかもしれない。だが発言の自由の行使は、社会的な影響、つまり害を為すことであるから、当然責任をともなう。だが、自問自答もできない人たちに,責任を自覚しろっていっても、詮無いこと。匿名で、瞬発的に繰り出される振る舞いは、垂れ流しなのだ。コミュニケーションが成り立っていない。

(5)新聞は(ま、大手を想定してるが)読者大衆を啓蒙していると思っているから、垂れ流しってわけにはいかない。それに見合う分、読者・視聴者であるこちらもそこそこ信頼を置く。逆にだから、一つひとつを取り上げて揚げつらい、批評することもする。ところがSNSは、啓蒙というよりは自己表白である。むろん、書いている当人は啓蒙するに値することを述べていると思っているかもしれないが、それこそ「表現の仕方」によるのであって、ただ単に、そう言っているだけに終わる。つまり「権威」の備わる社会性がSNSではフラットになる。面白い(と私が思う)のは、世間的な肩書きをつけていても、あるいはTVなどでよく見る著名人であっても、SNSに現れると、たちまちフラットになってみえる。これは私のクセなのだろうかと反省的に考えたりはするが、論理とか表現に組み込まれていないと、なんだコイツ,つまんねえヤツだなあと見えてしまう。つい先日、どこかのホテルのフロントで喚き散らしている「不動産会社の社長」を名乗る男の画像が流れた。世界的に名の知られた不動産会社のようだが、ホテルマンの処遇がセレブに対するそれではなかったと怒って文句を言っている「ホテルマン風情が……」と叫んでいて、つい、「何さ、フドーサン屋風情が……」と画面に向かって罵ってやった。いや、大学教授を名乗るラジオのパーソナリティにも同じように感じることがあるから、世の中全体が情報化社会のSNSによって、憂さ晴らし文化へ大きく傾いていっているのかもしれない。

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 情報大衆化社会のもたらした「憂さ晴らし文化」は、しかし、あってもなくてもいい情報の広場というわけではない。憂さ晴らしということ自体が、大いに意味を持つ社会関係に根を持つ。「憂さ晴らし」をするのが、格差とか差別とか閉塞とか、鬱屈がたまる現実社会に身を置く人たちであってみれば、憂さ晴らしは、自己確認の手立てでさえある。SNSも現実であるし、それによって交わされる「情報社会」も現実である。とすると、トランプ支持者のように、街に繰り出して大勢で意気投合するっていうのは、まさしく自己確認としての「リア充」にほかならない。いま日本の若者たちが,アメリカの共和党支持者のような「リア充」に直面してるのかどうかはわからないが、間違いなくそちらの方へ向いて歩いていると感じる。

 これを、科学技術の発展とばかり喜んでいないで、アナログ時代の良さを手放すなと(若者たちに向かって)声高に叫べるのは、いま高齢者になっている私たちだけではないか。そう思うと、何だかすんなりと棺桶の蓋を閉じるわけにはいかないなあと思うのですが・・・。

2021年10月5日火曜日

自然体の妙とその対象化

 昨朝(10/4)の朝日新聞「折々のことば」。《「何も考えずに楽な姿勢をとれること」は、健康な人間が持つありがたい機能なのである。 山本健人》をとりあげ、鷲田清一はこう続ける。

《人は自分の全身を見ることができなくても、その容量(ボリューム)は熟知していて、それを動かしたり横たえたりする時も、無意識にいろんな関節や筋肉を操っていると外科医は言う。体はかなり重い物体でもあるのに、眠っているあいだも絶えず寝返りを打って、床ずれしないようにしている。体が黙って判断し動いてくれるから、人は別のことにも集中できる。》

 まさにこの「ことば」を実感する事態が、この半年の私であった。つねに体の不如意が気にかかる。首筋が痛む。肩甲骨が硬く張る。腕が重い。肩と腕の付け根にビリビリと痛みが走る。右腕が曲がらない,上がらない、伸ばせない。動かせない。歩くとすぐに草臥れる。こうしたことが、絶えず身に堪え、意識から外れない。「楽」なんて何だったか,忘れてしまっていた。

 半年のリハビリで、それが少しずつほぐれてきている。と同時に、その部分の不自由を忘れていることが多くなった。それは順調な恢復を意味していて、ありがたいことと思っている。

 でも、こういうのを「楽」っていうの? とまず思い、山本も鷲田も、この表現やコメントは、ちょっと違うんじゃないか。そんな感じが頭の隅を掠めた。何が違うんだろう?

 山本の「ことば」は限定的である。「健康な人間が持つありがたい機能」とある。この「限定」も、「機能」としていることを指している。いかにも外科医という風情だ。

 鷲田はそれをさらに、「別のことに集中できる」と機能性の側面でみて、人間全体の活動に押し広げて「健康な人間のモデル」に変換している。臨床哲学者って風情といえばいえるが、この二人の見て取り方に、もう一言葉を挟まないと、「健康な人間」と「不健康な/病んでいる/障碍のある人間」との差別に至る分岐点に立つような気がする。

 この半年の、私が病んでいる実感からすると、山本の表現は「実感」である。だが、「楽」かどうかは「無意識の体の動き」であると「意識すること」によってみてとれる、とことばを紡がないとならないのではないか。

 この半年のリハビリに通っている「私の不都合な体」の実感は、「楽」に動くかどうかが目安であった。寝られるかどうか、起きた時に肩甲骨や肩の付け根、首筋に痛みが残っているかどうか。右肩や腕が、どこまで曲がるか曲がらないか、痛みはあるかないか。そういうことを一つひとつ、実感させられて、つまり意識することによって、恢復しているとかいないとかを見て取ってきた。リハビリを受けた夜には心地よい眠りに就いたのに、夜中に目覚めたり、朝起きてみると、背中がビーンと張って肩の付け根に痛みが走る。上を向いて寝るのが一番いいはずだが、気がつくと、右肩を下にして負荷を掛けていたり、左側に向いて寝ていたりする。ああ、これは私のクセなのだと分かるまでにずいぶんと時間がかかった。

 無意識の身の動き、つまり自然体を「健康な体」と考えている。だが、それを標準と思っているのは「不都合が生じてから」になる。そのとき、元に戻そうと考えるのが「自然」ではあるが、私の体自体は、事々に、歳々に変わっていっている。元に戻そうという思念と、元に戻らない体の現実とをどう調整するのが「わが身の自然体」なのか。「不都合」に眼が行くと、変わる己が身の衰微、故障が受け入れがたくなる。むしろ,無意識に体が動いていない、つまり自然体に不都合が生じていると分かるのを、「健康」のバロメータと受け止めるようになると、わが身の状態が良くみてとれる。

 そういえば、この半年の間に、お酒の飲み方が変わった。飲みたいから飲むというよりも、飲みたいと思うし飲めるのは大量がいい。体不調であると、飲みたいと思わないし飲んでもおいしくない。そう受け止めるようになって、依存的な飲み方を離脱することになった。

「楽」ということも、うまくいっているから意識しないでかまわないという意味なら、それでいいのだが、歳をとって変わりゆくわが身を意識しないでいると、危うい場面に出くわすことがしばしばになる。わが身の衰微の仕方に意識を向けているからこそ、心持ちも用心し、無理をしない。体の限界辺りを動いている時には、それを意識していないと、4月の私のような事故に出逢う。「楽」に過ごすように努めることが、「健康な人間」のありようといえるようになる。これって、冒頭のことばにいう「楽」と同じ用法をしているのだろうか。

 以上についても、自分について考えている間は、差異だけが浮かび上がって、変化を見て取ることになる。だが、他者を交えてその比較をするようになると、病者とか障碍者と「健康な人間」の差異となって、差別への起点になる。わが身を見ている時は「差異」,他者を交えると「差別」になるというのは、自己と他者の間に社会関係が浮かぶからである。その社会関係を交えた存在が「わたし」という実在であり、わが身だけの「差異」を取りだして外科医が云々する時には、すでに社会関係的な位置づけが前提になっているから、無意識の体の動きだけにことばを集中することができている。

 でもじつは私にとっては、体(それ自体)が、「わたし」,つまり社会関係を含む実存なのだ。「健康な人間」を「機能」で表現すればそう言えるかもしれないが、どうして「機能」に限定するのよと感じている。つまり違和感は「健康な人間」という概念が、社会関係において設えられていることを明かしている。「わたし」は「健康な人間のある状態」を意味している。「わたし」は私自身を社会関係においてしか、見えてこない。

 歳をとると、健康である体も、使い古びてへたってくる。(いつ知らず)寝返りを打つように、草臥れたら休め、急がずゆったりしろ、そうからだが反応している。それは「機能」なのかというと、そうではなく身のすべてだ。その身の反応には、その人の歩んできた人生のすべてが堆積している。機能というより、心の習慣を含む「身の習慣」が込められている。しかもその体は年々歳々変容する。無意識の動きというのは、そういう意味では、その人そのもの、肉体も魂も渾然一体となった「身」そのもの、一部だけを切り取って貼りつけて見せるものではない。

 これは(たぶん)「病気」をどう捉えるかということにも通じている。障碍者とは何かということにも関係している。この外科医にように機能面だけで見ていると、「人間」の幅を狭く捉えてしまうのではないか。それは「健康な人間のモデルイメージ」から外れる人を「病人」にし、「障害者」にしてしまうことでもある。「身の習慣」の染みこみ具合によって、「黙って動いてくれる体」はつくられる。それは文化的な概念であり、社会的な実存である。「健康/不健康」の分かれ目も、そう簡単に仕分けできるものではない

2021年10月3日日曜日

贈与互酬のコミュニケーション

 甲州に住む友人から今年も「令和3年の甲州ぶどう」が届いた。リタイア後に生まれ故郷に帰り、親がもっていた「葡萄栽培」の後を継いだ。といっても、売りに出すわけではなく、自家消費程度と控えめに記す葉書大の「挨拶状」が添えられている。今年の気象、畑の病気、葡萄の育ち具合に気配りしながら、どこまで健康でいられるか、夫婦の健康状態を保つために葡萄を育てていると謙虚だ。その友人も数えでいえば傘寿になる。去年までは持って運べた20kgの堆肥の袋も台車で運ぶようになったと、苦笑いをしているように記している。彼の葡萄や土や堆肥やそこに身を置くふるさとへの愛着が、ひたひたと伝わる。すごいなあ、いいなあと、とても今からでは切り替えようのない生き方に感嘆する。

 ものをもらうことは、気持ちの負担になる。だって、お返しするものが,こちらには何にもない。お天道様相手に汗水垂らして育てたものにたいして、近くのデパートで買った物をお返しするのは、どう考えても「失礼」に思える。といって、物をつくる才覚は、ない。裁縫でもできれば、手作りの何かを送ることはできる。絵を描くことができれば、絵手紙ということもささやかながら,悪くない。楽器でも弾ければ、音の手紙も制作できる。だが、それもできない。全くの無趣味。参ったねえと、困惑する。

 贈与互酬の、釣り合いがとれない。

 昔からそうであった。物を頂戴するというのは、そういう意味で「心の負担」であった。だが、そもそも「釣り合い」はとれないのだ。人は,殊に歳をとってからの人は、生まれも育ちもその後の径庭も違うことを、明らかに目にする。それを自覚することが、己の心持ちを安定させもする。つまり、人それぞれよ、と識ることが大人になることであった。

となってみると、互酬といったり相身互いというが、それは対称的には計らえない。市場取引がその普遍性に手を貸したのかどうかはわからないが、いつしか私(たち?)は「互酬」とか「相身互い」ということに、対称性を持ち込んで反応するクセがついてしまった。

 そんなことはできないし、ないよ、なくてもかまわないよと、心に定めるようになってから、「贈られてくる物」に込められた送り主の「近況」が読み取れるようになった。「釣り合い」は、そもそもとれないし、とれなくても仕方がない。だってこんな「わたし」なんだから。ごめんねと謝りながら、「御礼」をしたためる。

 すると向こうさんから、「返信」があり、「追記」がある。それに恐縮して、こちらも「返信」を書く。こりゃあ、黒山羊さんと白山羊さんだなとおもいながら、でもそうか、そもそもは消息のやりとりであったものを、「モノのやりとり」と受け取るようになって、贈与互酬に「釣り合い」なんて心持ちが組み込まれるようになったのだと思った。「わたし」の思い込みが苦しかったのだ。

 歳をとると、何につけ、自分の輪郭がそこに投影されていることがみてとれるようになる。恥ずかしいこともまた、思い出されて可笑しいことがある。良くも悪くも、良かろうと悪かろうと、そんなことはもう、ただただ「己の輪郭」と受け止めることができる。その感性は、悪くない。

2021年10月2日土曜日

45年ぶりの発見

 昨日の記事を書いて、「きりをつける」っていう言葉の由来は、何だろうと思い、「日本国語大辞典」を引いた。「きり」の項が、ない。変だなあとページを見ると「落丁」であった。255ページから270ページがすっかり欠けている。おやおや、こんなこともあるのだと、うれしくなった。

 全20巻の第6巻の一角。奥付を見ると、「第一版第二刷、昭和51年刊」とある。たぶん刊行されてからそう時を待たず購入したと思うから、45年目にしての「発見」である。「これまでそのあたりを引かなかったのね」とカミサンはいう。そうだね。ご無沙汰していた証のようなことだね。ごめんね、大辞典さま。

 うれしさを収めておこうと、葉書を書いた。

                                      *

前略

 いつもながら辞書編纂の舟を編むお仕事、ご苦労様です。

 こんなことがあったのかと驚き、お知らせします。

 貴社出版の『日本国語大辞典』(第一版第二刷、昭和51年刊)の、p255~p270が、丸々欠落しておりました。

 出版当時に購入したものですのに、一度もこの部分を引くことがなかったからでしょう、「きりをつける」の由来をどう書いてあるか調べようとしてひいたところ、「落丁」をみつけました。今更どうということもありませんが、ちょっと驚き、またちょっとうれしくなって,お知らせする次第です。

 購入したときよりも、歳をとって(傘寿近くになって)からの方が、辞書のお世話になることが多く、有り難く思っております。ほんとうにいい辞書です。

 紙媒体がなかなか苦しいご時世でしょうが、ご健闘を祈ります。  草々

 辞書編纂出版の皆様方

                                      *

 書きながら、舟を編むというご苦労を編纂者がしているとしたら、その成果を手にした者は「辞書を読む」くらいのお返しをしないと見合わないんじゃないかと、反省の思いが湧いてきた。学生の頃から「辞書」には馴染んできたが、ついぞ「読んでいる」とは思わなかった。辞書編纂者のご苦労を、アイヌ語の採取でご苦労された金田一京助さんのことや「舟を編む」という小説で知って、それでも「読む」という思いにならなかったのを、大変申し訳ない向き合い方であったと,今更ながら思った。

 でもひょっとしたら、そのように手元に置いて親しんだ「辞書」だから、なんとなく「我が外部頭脳」という感触が身に染みこんでいて、「読む」というほど疎遠だとは感じていないのかもしれない、と別の「わたし」がちょっと違和感を醸してもいる。

 そうか。そういう面からみると、「うれしい発見」というのは、わが身の輪郭を外部から見つけたような「発見」なんだとも思う。45年ぶりのわが身の発見、ってところか。 

2021年10月1日金曜日

変わり目

  おっ、もう5時か。始発電車が通っているような音に目が覚めた。枕元の目覚まし時計を見ると、まだ3時半。激しい雨音が自転車置き場の屋根をたたいている。そうか、台風がやってくるといっていたか。

 今日は十月一日。衣替え。仕事をしていた頃は、この季節の変わり目を文字通り「衣服を替える日」として意識していました。若い人たちに伝統を伝承する仕事であったということもありましたが、ついぞそのように考えてはいませんでした。まさしく私も、若かったんですね。

 TVの番組も切り替わっています。そういう「きりをつける日」を持つことは、モノゴトを丹念に持続するためにも欠かせないことだと実感しています。もし「きりをつける」ということがなかったら、マンネリズムを続けているということさえも、消えてしまいます。

 なにがしかのことを続けることによって、単に(習性で)続けている意識から「自らの意思」になっていきます。それは「意味を捉える」ことでもあり、自ら持続する志を「意思する」ことだからです。

 もちろん「ハレとケ」の対比から、メンタルな浄化作用をしていると見なすこともできます。だがそう考えることは、ただ単に心理主義的に憂さを晴らす効用にしか目にとめていないように思えます。むしろ、それまでの(習性の)私は何であったのか、このままでいいのか、これからの先を切り開くことはどういう意味を持つのかと自問自答して「自律」する機会であるわけですね。

 ところが,ことばや振る舞いという伝統的なモノゴトを受け継ぎながら、それを否定するのが「自律の志」と考えるのが「若者」の有り様でもありました。そのとき、自分が伝統的なものを継承することによって自己形成していながら、それを否定するという逆説的なスタンスを取っている。それに気づくことが一人前になることであり、その矛盾した自己を「わたし」と意識することから,自己吟味が始まり、「自律」へ至る。でもそれは、それなりに歳をとらなければ、そして、自らの生きてきた形跡を対象化して振り返ることをしなければ、手に入れられないことと、今だから言えるように思っています。

 こう書いている間に、朝食を取り、昨日録画したTVをみていると、町山智宏というアメリカ在住のTVキャスターが、19世紀のアメリカ移民が暮らしていたアパートを紹介しつつ、「殆ど無一文でアメリカに渡ってきた彼らが、二十年ほどの間に財をなして、一戸建ての家を持つ暮らしができた。それがアメリカンドリームであった」と話していて、一つ気づいたことがあります。そういえば私たちも、1950年代の後半に中学を卒業して1970年代の終わり頃には、自動車生産でアメリカを追い越す勢いを手に入れていました。私的にいえば、中学卒業の頃には街頭TVを見ていた田舎の貧乏くさい子どもが、20年後には我が家を構え車に乗って通勤する暮らしをしていたのです。そうなんだ。20年という月日は、近代的産業社会の進展途上にあっては、ドリーミーな時期でした。それが成し遂げられて後もそれが続くかどうかは、じつはわからない。わからないけれども、「きりをつける」ことができないと、それまでと、これからとの意味を問うこともなく、いつまでも「夢を再び」と追い求める仕儀になってしまう。バブル崩壊後の日本の姿はそうではなかったか。そう思えてきたのです。

 そうしてやっと、コロナウィルスの襲来によって,否応なく「きりをつけざるを得ない」事態に追い込まれている。オリンピックも終わった。宰相も交代する。緊急事態宣言も解除する。それを「きりをつける日」として,我がこととして捉えることができるかどうか。

 いや、それでも夢見ることが叶った私たちは、特異な時代だったと思い出に耽ることができるかもしれません。でも、我が子や孫の時代はどうなるのか。そのためにも、自問自答をしっかりとしておかねばならない。その正念場に立っていると感じています。