今日(10/19)の朝日新聞の科学欄に科学誌サイエンティフィック・リポーツの記事が紹介されている。記事の執筆者は東大の研究チーム。「専門知識は自由な発想の邪魔?」と見出しがある。
調査は、ステレオやパソコンのスピーカーを題材に、200人の参加者に音響学や専門知識を尋ね、その人の所有するスピーカーを写真に撮ってもらい、新機能のアイデアを考えてもらったというもの。その結果について、こうまとめる。
《専門知識が多いと視野が狭まってしまい、素人の方が広い視野で自由な発想ができるケースがありそうだ。植田教授は「専門知識はもちろん重要だが、最初のアイデアを出す部分では、専門知識が少ない人も活躍できるかもしれない」と話している》
これを読んで、大学のときの「リベラル・アーツ」という言葉を思い出した。専門領域に入る前に、広い視野を培うことが必要という「教養」分野。最初にこの言葉を耳にしたのは、入学式のときの学部長だった言語学者の祝辞。理系、文系という切り分けにこだわらず、発想の次元の違いをものの考え方の違いと見極めて、いろいろな考え方を学ぶことがリベラル・アーツであり教養なのだという趣旨の話であった。
実際に入学してからの私は、授業で学ぶことよりもサークルや寮の先輩や同輩の立ち居振る舞い、繰り出される言葉やそのしゃべり方、そうしたことの一つひとつに刺激を受けた。発想の次元、ものの考え方、立ち居振る舞いに秘められている生育歴の違い、それらが言葉の違いとなり、実際行動の違いとなって現れてくる。めくるめくような多彩さ、豊潤さに圧倒され、田舎と都会の生育環境の文化的な違いを感じ取り、その違いを感じ取ることが「リベラル・アーツ」だと思った。
今思うと、「リベラル・アーツ=一般教養」と受け止めていれば、もっと教授連から受け入れるところが多かったろうに、当時の先輩たちは「マジメに授業を受けるのはバカだ」と大真面目に話していたのに私は感応して、サークル活動の方に力が入っていったから、授業に出るよりも(先輩たちとのやりとりに必要な)本を読むことに向かい、学生たちの振る舞いに感じる(身の内に湧き起こる)疑問を解くことから学んだところが多かった。
それはそれで、私の専攻した経済学のイデオロギー的な傾きが、その科学的な方法にどういう作用を与えているかという哲学論議の入口になり、私の世界観に大きく影響したと振り返って思う。外の世界と「わたしのせかい」との非対称的な相関も、わからないことを次々と生み出して、「わたし」のかたわらに積みおかれることになった。
都会育ちの人たちの先鋭さと田舎育ちの私の鈍重さとの対比が、つねに、なぜ「わたし」はこう感じるのか、そう考えるのか、と外に対する疑問が自分の内面に向かう視線をともなった。自画像と私は読んだが、それはいわば、無意識にわが身の裡に入り込んだ文化的な堆積物を、一つひとつ我がものとして吟味し、意識化する作業でもあった。いや、過去形ではなく、そのクセは今も続いていて、「わたし」そのものとなっている。
そうして今思うのだが、その文化的な堆積物の多くは身そのもの、つまり、言葉やイメージにもならない、身体的な身のこなしに蓄積されていて、これが案外、知的世界では等閑視されてきていると痛切に感じる。大正デモクラシー期に青春時代を過ごした我が父母の身に備えていた文化的蓄積の多くは、言葉よりも、立ち居振る舞いの文化であった。あるいは、こういう方が適切だろうか。立ち居振る舞いを言葉として用いた。意識以上に実在が重んじられていた、と。
それが戦後教育の中で、欧米的理念が理性的に抽出され、リベラル・アーツな「教養」として身体から離陸浮揚し、知的財産のように尊崇されたことによって、大学の一般教養は、俗世の古典に沈殿してしまったように感じる。その行き詰まりが、皮肉にも、現実の実利的な学問を要請することに現れ、一般教養は解体されて「教養学部」というひとつの専攻と化して、捨て置かれるようになった。
だが、実利的な学問への視線が、じつは近視眼的な実益を求めるものにほかならず、人々のアーツも技芸という技を競うものにしか目が届かず、リベラルもまた、「売れる」意味しか宿さなくなっているのではないか。いまさら、「教養」の復活などというつもりはないが、「発想の次元の違いをものの考え方の違いと見極めて、いろいろな考え方の違いを学ぶことがリベラル・アーツであり教養なのだ」という哲学を、もう一度見直しても悪くないのではないか。その広い視野こそ、行き詰まった時代の先を見通すのに応えられるアイデアを生み出すのではないか。そう思っている。
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