1年前の記事、「ルートnの法則」を読んで、こんなことを考えた。
この文中の末尾近くにある《人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」》があるから、コロナウィルスの激減がなにゆえなのか分からない、と思った。「ルートnの法則」を適用して考えると、爆発的に増えたコロナウィルスの「ルートn」個が、感染を拡げるのとは逆の動きをしていることだってある。私たちが「疲れた」というのだって、同じ作業を何時間も続けると、逆行分子がおおくなり、「ルートn」個が、2×「ルートn」個になっているってことも、あるかもしれない。
理科学的にいう「仮説」だって、《人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」》を超えてこその「仮説」ではないか。福岡伸一の動態的平衡というセンスをとりいれれば、コロナウィルスだって、そんなにいつもいつも元気で活発ってわけにもいかない、かもしれない。「疲れたら休め。敵もそう遠くへ行くまい」と昔、誰かがいったように、コロナウィルスにもしココロがあれば、そう呟いているかもしれない。
そもそもこのウィルス(いつから)コウモリに寄生していたのかどうかは知らないが、長年ヒトにはとりつかないでいたじゃないか。それがヒトに寄りつくというフレークスルーをやっと2019年に果たしてデビューしたではないか。温暖化のせいかもしれない。グローグローバリゼーションの進展のせいかもしれない。中国が経済的な急進展を遂げたおかげで、世界という舞台へお目見えしたと考えると、案外、平凡なヒトの営みがもたらした結果と言えるような気もする。どこが初発原因かは、ナショナリティのモンダイではなく、ジンルイの営みを反省する意味で、探求する必要はあるが、それを「中国ウィルス」と自己都合で呼ぶようにしたトランプの所為で、すっかり国民国家利害モンダイと見なされるようになってしまった。これは、「理解の枠組みの縛り」を狭くしてしまっている。
そんなことを考えながら、本屋の雑誌棚を眺めていたら、この世界的コロナウィルス騒ぎを教訓に「中国がウィルス兵器を開発中」という記事が、大見出しになっている。「理解の枠組みの縛り」をますます狭くして、その結果、「なぜウィルスが激減したのか分からない」事態となっているんではないか。昨日、今日の、コロナウィルス状況を見て、「仮説」の提起の仕方のムツカシサを思った。
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