表題のような発言を、選挙応援演説で麻生太郎が行って、北海道農民の苦労がわかっていないと非難を浴びている(と朝日新聞は報道している)。品種改良とか土壌整備とか、ずいぶんと苦労をして北海道で米が獲れるように力を尽くしてきた。それを、温暖化のおかげでできたようにいわれては、立つ瀬がないというトーンだ。
だが、問題点はそこか? 違うだろう。
日本列島のように南北に長い島国では、気候温暖化がすすんでも、どこかが亜熱帯になり、どこかが温帯に変わり、どこかの亜寒帯が消えていくってことを、緯度でスライドさせて考えると、麻生のいうことも一理ある。いや、三分の理くらいはあるといっても良い。だが、今問題になっている「温暖化」は、そういうモンダイではないだろう。
(1)まず、日本列島の、北海道の気温の「温暖化」という視点が、地球の温暖化と同一次元にされていて、適切ではない。これはそのまま、麻生トランプのフェイクニュースである。北海道という場の、気温の変化というのを「温暖化」という言葉に引っかけただけ。「米がうまくなった」というオチで、笑いを取るはずだったというだけの、馬鹿話。だが自民党副総裁という要職の政治家が、目下SDGsで「喫緊の課題」とされている「温暖化」をその程度の笑い話にするところが、ケシカラン。でもね、彼にとっては、笑い話じゃないかもしれない。えっ、どういうこと? 彼は心底、その程度にしか「温暖化」モンダイを考えていない。それがぽろりと口をついて出ただけ。馬鹿話ではなく、或るバカの話。
(2)いやじつは、かく言う私も、麻生のようなことをしゃべっていたことがあった。北海道の米ばかりではない。蜜柑の北限が、埼玉県寄居町の風布だったのが、栃木県でも地元産の蜜柑が並ぶようになり、それって温暖化のおかげだねとおしゃべりしていた。ま、私は麻生のような要職にあるわけではないし、公にしゃべったわけじゃないから、バカはバカだけにとどめたというわけ。米も蜜柑も、天からの貰い物というナイーブな自然観がベースにある。その「本質」だけを取り出していえば間違いじゃないが、採集経済を営んでいるわけではないから、何も言ったことにはならない。自然と農耕民との戦いという、人の営みの本質的な点を落っことしている。
そんなことを指摘しても、たぶん副総裁は、「あっ、そう」と昭和天皇の系列に身を置くものとして恬淡として居るであろう。
だが私は、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年)を読んでいて、土壌改良ということについて切実な事態に直面したドイツ農民の話に、胸を打たれている。ルドルフ・シュタイナーのBD(バイオ・ダイナミック)農法のことには以前触れたが、宇宙と大地と生命体の循環を視野に入れて、大地をつくることが作物を育てることという、「占星学的な超自然的精神世界」を背景にしていると紹介する藤原辰史は要約する。それが、土壌の頑固さと格闘するドイツ農民の心情をつかむのだが、それは化学肥料の投入によって土壌が硬くなり乾燥化し、それと格闘する農民の体感、つまり土と共に生き、土をつくることが生きている証という生命観にマッチする。それは逆にシュタイナーのBD農法の生態系の中に微生物を組み込むことにすすみ、農民の手作業を評価するかたちで(動物としての)人の存在と結びつく哲学を感じさせて、行く。他方でそれは、農民層の支持を手に入れたいナチスの広報戦略に符節を合わせ、また後に、戦時体制の食糧増産を図る政策とあいまって、(シュタイナーの生命哲学は排除されたが)ナチスの農業政策に取り込まれていった。藤原辰史は、ナチスが日本の自然観に共感する部分を発見していくことをふくめて丁寧に追跡しているが、要するに、農民の生き方そのものを、金銭換算ではなく、また食糧増産という目的的でもなく、表象する哲学的な視線を持つかどうかが、決め手になっていたと、ドイツ農民の受け入れ方を読み取っていった。
そうしてみると、日本の政治家たちが繰り出すジョークでさえ、生き方の哲学を欠片も宿していないことに気づく。でも地球規模の「温暖化」に関する知見を持っているかというと、それもまた、欠片もなく、目先の株価と権力の趨勢とそれに利用できるかどうかが、人に対する評価という貧しい言葉しか繰り出せない。そう思う。SDGsの温暖化は棚上げしてしまったが・・・。
あ、そう。
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