昨日の記事を書いて、「きりをつける」っていう言葉の由来は、何だろうと思い、「日本国語大辞典」を引いた。「きり」の項が、ない。変だなあとページを見ると「落丁」であった。255ページから270ページがすっかり欠けている。おやおや、こんなこともあるのだと、うれしくなった。
全20巻の第6巻の一角。奥付を見ると、「第一版第二刷、昭和51年刊」とある。たぶん刊行されてからそう時を待たず購入したと思うから、45年目にしての「発見」である。「これまでそのあたりを引かなかったのね」とカミサンはいう。そうだね。ご無沙汰していた証のようなことだね。ごめんね、大辞典さま。
うれしさを収めておこうと、葉書を書いた。
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前略
いつもながら辞書編纂の舟を編むお仕事、ご苦労様です。
こんなことがあったのかと驚き、お知らせします。
貴社出版の『日本国語大辞典』(第一版第二刷、昭和51年刊)の、p255~p270が、丸々欠落しておりました。
出版当時に購入したものですのに、一度もこの部分を引くことがなかったからでしょう、「きりをつける」の由来をどう書いてあるか調べようとしてひいたところ、「落丁」をみつけました。今更どうということもありませんが、ちょっと驚き、またちょっとうれしくなって,お知らせする次第です。
購入したときよりも、歳をとって(傘寿近くになって)からの方が、辞書のお世話になることが多く、有り難く思っております。ほんとうにいい辞書です。
紙媒体がなかなか苦しいご時世でしょうが、ご健闘を祈ります。 草々
辞書編纂出版の皆様方
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書きながら、舟を編むというご苦労を編纂者がしているとしたら、その成果を手にした者は「辞書を読む」くらいのお返しをしないと見合わないんじゃないかと、反省の思いが湧いてきた。学生の頃から「辞書」には馴染んできたが、ついぞ「読んでいる」とは思わなかった。辞書編纂者のご苦労を、アイヌ語の採取でご苦労された金田一京助さんのことや「舟を編む」という小説で知って、それでも「読む」という思いにならなかったのを、大変申し訳ない向き合い方であったと,今更ながら思った。
でもひょっとしたら、そのように手元に置いて親しんだ「辞書」だから、なんとなく「我が外部頭脳」という感触が身に染みこんでいて、「読む」というほど疎遠だとは感じていないのかもしれない、と別の「わたし」がちょっと違和感を醸してもいる。
そうか。そういう面からみると、「うれしい発見」というのは、わが身の輪郭を外部から見つけたような「発見」なんだとも思う。45年ぶりのわが身の発見、ってところか。
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