今朝、最後のツルムラサキのおひたしをいただいた。ツルムラサキを湯がいて細切りの塩昆布と和えただけのものだが、水分をよく含み、クセのない味がご飯に良く合う。
今年最初のツルムラサキがいつであったか、はっきりと覚えていない。だが6月頃だったろうか。カミサンに聞くと、
「そう、いつもなら植える時期なんだけど、勝手に生えてきてね」
と笑う。かつては、我が家の狭い庭に畝をつくって植えていたもの。それが種となり地に落ち、いつしか漉き込まれて、自生するようになった。ミツバも、シソも、いまは時期になると自生してくる。何処に何と、秩序だっていない。植える細葱などとも混じり合って、庭がわんさと自生する植物に乗ったられたように賑やかになる。
その中に、ツルムラサキがひょろひょろと茎を伸ばし、そちらこちらに顔を出していた。そのひと茎ずつを取り払って湯がいたのが食卓に上がる。それが6月から今朝まで、4ヶ月ほども続いたのだから、自然の力強さは、すごいと思う。カミサンは、
「わたしの元気の素は、これよ」
といって、毎日、出歩いてきた。ありがたいことだ。
去年はシソの葉を炒めて、梅干しや味噌を絡めた。だがちょっと塩分過多になったかと気遣い、今年は野菜炒めや焼きそばなどの具に切り刻んで入れたが、それで片付くようなシソではなかった。大量に実をつけ、種となり、いまは地面に漉き込まれて来年を待つようだ。
今ひとつ、蜜柑が成るのをまっている。私の古い友人が、古希祝いとして2年前に苗をくれた。それが去年は小さな実をつけたが、風に揺さぶられたか、虫に食いつかれたか、ポロリと落ちてしまっていた。ところが今年、四つも実をつけている。いまも青々として大きくなり、幹に支柱を当ててやらねばならないほど、垂れ下がっている。たわわって、こういうのをいうのだと感慨深いことであった。ところが、よその家の蜜柑は、もう色づきが変わって黄色くなっているのに、家のそれは、少し青色が薄味がかっているが、いまだ青い。黄色くなったら、古い友に一つやろうと思っているのだが、思うようにいかない。
古い友は、目下、青息吐息、生きているのが精一杯という風情で毎日を過ごし、月に一回、手紙のやりとりをしている。色が変わったらやるから、それまでは生きていろよと、励ましている。その都度、長文の手紙が届く。ああまだ、これを書けるだけの元気があるなと安堵する。年寄りの黒山羊さんと白山羊さんってところだ。
我が家の狭い庭は、カミサンが手入れをして、すっかり様子を変え、冬野菜の種をくわえ込んで、静かにしている。雨が降る。
「あっ、もう芽を出している」
とカミサンの声が聞こえる。冬も、また来年も、食べられるか。こちらも、持ちこたえねばなあと、ちょっぴり自分を激励する。
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