図書館の書架に「今日返却された本」という棚がある。まだ整理しきれないうちにも、借りたい人がいるだろうと気遣って設けられた棚。何十冊と並んでいる時もあるし、ほんの数冊が片隅に収まっている時もある。どんな本を読む人が、この図書館に出入りしているのだろうと推しはかるように、まず覗く。
知っている名前を見つけた。宮下奈都『綠の庭で寝ころんで』(実業之日本社、2017年)。何年前になるか、この作家の小説を読んで好ましく思ったが、すっかり忘れていた。エッセイ集。表題のエッセイは、彼女が暮らす地元新聞社発行の情報誌に2年ほどの間、連載されたもの。「綠に庭の子どもたち」と題した、子どもをテーマにしたエッセイとして、依頼を受けていたらしい。
ワケは知らないが、中学生2人と小学生1人の子どもを連れ、北海道の「晩ご飯の買い物にも、ノート一冊買うのにもクルマで40分以上かけて山を下りなければならない」土地に暮らす日々からはじまる。小学校と中学校が一つになっているほど、子どもの数も少ない集落。子どもたちの立ち居振る舞いや言葉が新鮮に拾われ、それを作家の感性が上手く包む。「綠の庭の子どもたち」という連載エッセイのタイトルが、暮らしている風景とともに異彩を放つように新鮮である。しかし「綠の庭」というのは、トムラウシ山の麓というよりも母親だなと思う。この母にしてこの子たちありという感触。
作家としての思いもときどき、行間をよぎる。作家がホテルに閉じ込められて執筆に追われる「缶詰に憧れる」とか、思い浮かんだストーリーを、ほんのちょっとした家の中のデキゴトに気を向けた拍子に「はて、なんだったっけ?」と忘失してしまうことなど、創作と並行するのはムツカシイだろうなと感じさせる。そうして、「綠に庭」であることへ心持ちを傾ける自然体が好ましく響く。
その後、長男を高校へ入れるために福井に戻って、地元誌にエッセイを連載するのだが、当の子どもが暮らしているところへ、母親作家の「こどもたち」を登場させるのは、何ともムツカシイはず。だがそれが、こどもたちや彼らを取り囲む人々の心持ちによって柔らかく包まれ、作家はそれを幸せと感じる。ここでの「綠の森」は、柔らかに子どもたちを包む福井の土地と人々を指していると感じられる。
「綠の庭」も「綠の森」も、もっと言葉を換えていえば、ヒトの暮らしを上手く育む環境である。それは物理的景観・環境ばかりでなく、そこに暮らす人々であり、その人たちの関係が作り出す社会的オーラである。それこそが子どもたちを育てる。「綠」に任せればいいじゃないかという達観が、いずれこの作家の落ち着きどころになるような気配が随所に見られる。
私の子ども世代の作家である。子を産み育てるのに、どれほどの綠を育み、どれほどの豊かさを蓄えてきたか。しかもこのエッセイの行間には、とうてい男の及ぶ業ではないと思われる感性と懐の深さが感じられる。
近頃のジェンダー論では、女もすなる子育てというものを男もしてみようと奨励する表現にしばしば出くわすが、果たしてそれで上手くできるだろうか。機能的なところはできるにちがいない。でも、なにか肝心要なところが抜け落ちてしまうんじゃないかと戸惑いがついて回る。そう思うと、簡単に作業分業的にジェンダー論をやりとりするわけには行かない。保留にするところが、まだずいぶんたくさん残っていると思わないではいられない。
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