2021年10月9日土曜日

身に迫る老いる形

「ご無沙汰……」と電話があった。(ああ、地震の心配してくれての電話やな)と思い、声を聞く。関西に住む叔母。94歳になる。以前にも,台風19号被害があったと報道された時にも「あんたのところは大丈夫だった?」と消息を尋ねる電話があった。あれは2年前の今頃のことであったか。

 叔母は、同い年のご亭主とほんとうに仲良く暮らしてきた。子どものいないこともあって、姪や甥が遊びに来ることを気さくに歓迎し、私たちも気兼ねなく、よく行き来をしていた。3年前だったかな、自宅でご亭主の面倒を見ることが叶わなくなり、二人でサ高住のようなところへ入所した。それと同時に、すぐ近くに住む孫姪を養女に入籍して、彼岸に旅立つ後の憂いを始末してもらえるようにしたと聞いていた。

 6人兄弟姉妹の長男であった私の父親の兄妹で存命なのは,叔母の二人。祖母は享年98であったから、ま、長寿の家系と言えそうだ。

 2014年2月に訪ねたときのことを、次のように記している。

 11日、上京する途上で、大阪に住む叔母の家を表敬訪問。岡山駅で駅弁を買っていって、一緒にお昼を食べようと連絡をしておいた。叔母は春巻きをつくり、ホタテの貝柱を取り寄せてつまみにしてくれ、さらに手作りのパウンドケーキを土産にもたせてくれた。昭和2生まれの86歳。お花の師匠もし、書道の作品も、まだ仕上げている。私は「徒然草」をかな書きした巻紙を、形見分けの時にもらう「予約」をした。これだけ動く気力をもっていれば、まだまだかくしゃくとしていると言える。叔父も若干の病をもちながら、おしゃべりに付き合う明晰な頭をもっている。これまでの海外旅行の写真を整理して、もう100冊以上の分冊になるというほど、モノゴトの整理と整頓に、今でも心配りをしている。子どもがいないとはいえ、幸せな老後を送っていると言える。15年先にこれだけの生活をしているかどうか、いまからでも間に合うかなと、我が身を振り返っていた。

 また、2016年1月の訪問記録もあった。

 千里の叔母というのは、私の亡父の6人兄弟姉妹の妹。存命は末の妹と二人だけ。「15も年が離れていたから女学校のときの父兄会にお兄さんが来てくれてな、ちょび髭をはやしていたから、先生から、若いお父さんやなと言われた」と笑って話す。子どもがいないまま、夫婦とも米寿を迎えた。その叔父が脳梗塞で倒れて入院、目下リハビリ病院に入院している。叔母は歩くのに不自由であるが、その世話で忙しない。叔母も叔父も、顔艶は良く声に張りがある。やりとりもしっかりしている。「そりゃあ、早く家に帰りたいわ」と叔父は明るい。近所に住まう甥や姪やその子どもたちが、入れ代わり立ち代わり面倒を見に足を運んでくる。半世紀以上のお付き合いをする(高級住宅街の)ご近所さんも、何かというと手を貸してくれる、という。いわば、これまでの「かんけい」の総決算がなされているような日々に思える。

 2017年3月には、祖父の50回忌、「本家」を継いだ叔父の7回忌のときに高松市で、顔を合わせている。こう記す。

 最年長の叔母は今年90歳、大阪からやってきていました。同い年のご亭主も健在ですが、大きな移動が不自由なため、ご亭主を堺に住む私の弟夫婦がみている間に、大阪で開業している私の従弟夫婦が叔母を車に乗せて連れてきて、その日のうちに連れて帰るという算段をしていました。もう一人の叔母、86歳と久し振りに何やら話し込んでいるのが、ちょっとうらやましいようにみえました。そのもう一人の叔母夫婦もいろいろな患いに見舞われたのに、しっかりと回復して、スリムになっていました。86歳の叔母はお茶の師匠を90歳までは続けようと思うと、張りのある声を出していました。同い年のご亭主は胃を切除しているせいですっかり痩せて57kg、今年の運転免許が更新できれば90歳までは運転すると意気軒昂。この夫婦、去年には孫娘の案内でカンボジアのアンコールワットへ行ってきたと嬉しそうに話していました。この歳になって元気でいることがどんなに大変かと思うと、頭が下がります。

 その後にもう一回訪ねたはずだが、それがいつのことであったか、わからない。そのときは、堺に住む弟と一緒に訪れ、2014年に「予約」した「徒然草」のかな書き巻物を頂戴してきた。いま私の手元にある。

 さて、本題は、電話のこと。

 声がしゃがれている。2年前に電話があった時は、声に張りがあり、とても90代とは思えなかった。

「どこか調子が悪いん?」

「そうよ。どこもここも。歩くのがしんどくてな、食堂まで行くのに、歩行補助器をつかっても、時間がかかるわ」

 と話がはじまり、近況の話になる。

「(部屋に一緒にいるオジさんは)退院以来歩けないし、誤嚥するっていわれて、すりつぶしたものをたべさせてもらってる。すぐに横になってしまって、歩けないんよ。」

「なさけないわぁ。筆ももてんようになってしもた」 

「眼がみえんようになってな。TVもな、文字も人の顔もぼんやりしてしもうて」

 と愚痴をこぼす。そのうちに

「はやくお迎えが来てほしいけど、オジさんがいる間は頑張らないといかんしな」

 と、自分の立ち位置を意識している。話の脈絡も、縁戚関係の人の名前もきちんとしている。

 あれこれ話しているうちに、部屋の鍵が盗まれ、姪っ子にあげようと思っていた宝飾品がなくなり、冷蔵庫に入れておいた(甥っ子が送ってくれた)葡萄が,この施設の職員に取られてしまったという。さらにそれを施設長に訴えても(証拠がないと)取り合ってもらえないし、盗っていった本人にいうけど、笑ってごまかしてしまうと言い始めた。

「昨日の地震ですが……」

 と、こちらから話を切り替えると、

「そやそや、どうだったん? そう、それはよかった」

 と気を取り直したように,声のトーンが変わり、昔の叔母に戻ったようであった。

 あんなに聡明で、しっかりしていた叔母が、まさか惚け始めたとは思えないが、話の運びからすると、その施設では殆ど認知症を発症しているように扱われているのかもしれない。と同時に、歳をとるって、こういうことよと、16年の年の差を知らせてくれているとも思える。そういえば先日のseminarで認知症を十年病んだ奥様を亡くした友人が、認知症は原因も分からないし治療法もない、だれがなっても不思議でないと力説していたのを思い出した。

 いや、認知症だけではない。眼が衰え、耳が遠くなり、足腰が弱り、歩行が困難となって介助なしでは行きたいところへいけないとなるのは、長生きすれば避けようがない。その事態が,16年後に待ち受けている。そう思うと、叔母の近況は他人事ではなく我がことであった。いかに元気なうちに死ねるか。意のままにならぬ大きなモンダイが浮上してきた。

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