2021年10月30日土曜日

資本市場の国家によるコントロール

 中国の企業・恒大集団の行き詰まりを、中国政府がどうコントロールできるか。世界の経済関係者の、目下の最大関心事となっている。33兆円という負債額がデフォルトになった場合に世界経済に及ぼす不況の波の大きさに、アメリカ政府も、しっかりコントロールする責任は中国政府にあると呼びかけている。リーマン・ショックのことなどを棚に上げてよく言うよと思うが、上り詰めた先で弾けるのは、暴走を止めるためには致し方のないこと。そういう調整の方法を備えているのが、自由な市場経済である。ということは、中国がもし、この苦境を、それとは違う方法で乗り越えることができたら、まさしく「国家独占資本主義」の真骨頂ということになる。中国にとっては、専制主義の正念場。はたしてコントロールは上手くいくだろうか。

 1990年頃の日本の不動産バブルを思い出す。ジャパン・アズ・ナンバーワンの活況でじゃばじゃばと金が市場に溢れていた。マンハッタンを買い占められるんじゃないかとアメリカではジャパン・バッシングが横行し、日本は有頂天になっていた。賢い経済学者は、こういうときこそ人を育成するために投資するのがいいと力説していたが、ごく一部の企業がそれを聞き入れて、研究施設に投資をしただけではなかったか。大半の金を持っていた企業や投資家は耳を貸さなかった。そのあげくが、「失われた**十年」であった。

 中国政府は、日本のバブル崩壊を教訓に(恒大集団の負債暴発を緩やかにさせようかと)懸命に今、手を打っている。果たしてこれをうまく乗り切れるかどうか。そこに、一党独裁体制を敷く中国政府の専制統治体制が、人類史的な普遍性を持つことになるのかどうかの、正念場がある。

 そんなことを考えながら、渡辺浩『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021年)を読んでいたら、渡辺はトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を引用して、出自に関係なく統治機構に参与できるアメリカの体制に感心し、これこそ「デモクラシー」と褒めそやしているとあった。とすると、世襲議員が跋扈する(今の日本の)政治体制は民主主義が崩壊していっている姿と言えるのかもしれないと、私の観念を一時、棚上げしたくもなっている。

 そう考えてみると、中国は「科挙」に始まり、たしかに出自に関係なく統治機構に参与できる体制を、昔から取ってきたとも言える。中華人民共和国になってからの中国は、出自をかき混ぜるやり方を(文化大革命も頂点として)とってきた。今、出自は「金銭」に取って代わる時代となっていて、それがバブルの暴走と恒大集団の破綻とに結びついているから、専制統治機構の「人民民主主義」の真価が問われる場面に直面しているとも言える。これに失敗したら、「自由民主主義」が腐りきっていても、ほらっ、やっぱり「人民民主主義はだめだったじゃないか」とトクヴィルにいわせることになるか。

 習近平政権は、コロナ禍もあって国内需要を喚起しようと舵を切っている。中流を育てるという看板を口にする。驚くほどの収益を手にしている俳優や芸術家などを、脱税や非行を理由に、彼らの主舞台から永久追放するような措置を次々と打ち出して、これはこれで、大衆の怨嗟の的になることがいかに「ひどいこと」かと倫理的な振る舞いにかこつけて演出していると見える。要するに、人民大衆の暮らしに溜める鬱屈が暴発しないように懸命である。

 子育てや家庭教育、学習の有り様まで、ことごとく政府に指図される暮らし方もまた、別様の鬱屈を溜めることになろうから、たぶん習近平政府の思うようには事は運ばないであろうし、総中流目標路線がもたらす、上位層への実際的負荷が加重になればなるほど、そちらの方の暴発も心配しなければならなくなろう。じっさい、「ダイヤモンドオンライン」の記事では、「不動産税」の創設や恒大集団への対処それ自体が、「権力闘争の様相」として解析されていて、(軍を含めた)コントロールが問われる事態に近づいているとあった。

 人民民主主義も、今進行しているまるごとの統治となると、人生設計をことごとく政府が行うという荒唐無稽な「人生総量規制」をやるしかなくなる。その一部規制だけでも、ソビエトがどのような道をたどったか、すでにお手本がある。チベット族やウイグル族の、文化総掛かり革命を試みている中国政府だが、今度は13億人民の総量規制とあっては、目が行き届かなくなって、武力的規制という臨界点に行き着くのではないか。そればかりか、その内政的臨界点の沸点を避けるために、台湾や日本(に駐留する軍事基地)に対する対外的武力行使へと踏み切るのではないか。

 そんなことを、過剰な懸念といっていられるのかどうか。お隣の私たちにとっても中国の内政が、対岸の火事といっていられない地点に来ているように感じる。決して好ましいとは思っていないが、「人民民主主義」がそれなりに緩やかに「状況」の緊張をほぐして、解消できる方向へと向かってほしいと、願わないではいられない。

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