2021年10月20日水曜日

願望と抑制

 人の世の活動エネルギーは願望に由来する。好奇心も欲望も祈りも探索も、願望が形を変えたもの。だが、前向きに突き出すエネルギーだけでは、コトはならない。過去から現在に至るたくさんの人々の多様な願望が絡み合うから、持続的に、周囲に配慮し、協調的に抑制したり、別の道を通って目的に向かうようにルートを譲ることもある。こうした願望と抑制の絡まり合いの調整装置が、人それぞれの中と社会関係の各所に設けられ、自律的に運べない人には、社会装置が作動して、ブレーキを掛け、あるいは、市場原理を用いて誘い込むように活動している。

 その関係に踏み込み、そこに流れる風や水のぶつかり合って渦を巻き、相乗して奔流となる方向を見定めていくのが物語であると見るところに、人の世の文法を読み取る。その文法もまた、生々流転、とどまりたるためしなく、変わり移ろう。

 それが作家の役目というように、基底部分の人の願望と抑制をみてとり、数多のそれが関わり合って紡ぎ出す文法を物語としてすくい取り、私たちに提示してみせる。その名手の一人、宮部みゆきの『悲嘆の門(上)』(毎日新聞社、2015年)を、今読み終わった。これから下巻にかかる。

 宮部みゆきは、言葉の象徴的表現に長けていて、目に見えないものが世の中を動かしていることを、上手に目に見えるかのように文章に紡ぎ出す。おやっ? と思う不可思議というか、ファンタジックというか、まさか現実にはないよねと感じるような場面には、かならず、その事象の象徴するモノゴトが埋め込まれている。その構造的なメカニズムが、いつもかっちりと整えられている(ことが読み進むにつれてわかってくる)から、おやっ? と思ったことを保留するというか、それを棚上げにしつつ、物語を追う。そうして、しばらく読んでから後に、そうか、これだったかと棚上げしておいてモノゴトが、ジグソーパズルのピースのように上手くはまるのを感じる。その、わが身の裡の日常感覚とわだかまりなく接続していて、なおかつ非日常の物語に身を預けている快感。それを感じるために、宮部みゆきを読む。そういう味わいを、今回も覚えつつ、読んでいる。

 言葉の初源から現在に至るまでの、人の世の媒介項としてのお役目をしっかり押さえて、その移ろいと現在地を浮かび上がらせるのに、ちょっとオカルト的に見える場面を挿入することで物語を駆動し、なおかつ象徴性を込めることによって、平凡な私たちの日常感覚との地平を接合して、違和感を取り払いながら、共感性を醸し出す手法には、舌を巻きつつ、わが身の裡をのぞき込むようなスリルを感じている。

 こう書いたからといって、この小説が何をどう展開しているのかわからない(と思うが)。そこはそれ、読む人の娯しみを奪わないためにも、必要な作法だと受け止めてもらいたい。図書館の書架でふと出逢って見つけた一冊である。さて、今日これから図書館へ足を運んで、「下巻」を借り出さなければならない。図書館へ向かう「願望」を手に入れただけで、はや私は、今日一日を過ごすエネルギーを得た感触を喜んでいる。

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