昨朝(10/4)の朝日新聞「折々のことば」。《「何も考えずに楽な姿勢をとれること」は、健康な人間が持つありがたい機能なのである。 山本健人》をとりあげ、鷲田清一はこう続ける。
《人は自分の全身を見ることができなくても、その容量(ボリューム)は熟知していて、それを動かしたり横たえたりする時も、無意識にいろんな関節や筋肉を操っていると外科医は言う。体はかなり重い物体でもあるのに、眠っているあいだも絶えず寝返りを打って、床ずれしないようにしている。体が黙って判断し動いてくれるから、人は別のことにも集中できる。》
まさにこの「ことば」を実感する事態が、この半年の私であった。つねに体の不如意が気にかかる。首筋が痛む。肩甲骨が硬く張る。腕が重い。肩と腕の付け根にビリビリと痛みが走る。右腕が曲がらない,上がらない、伸ばせない。動かせない。歩くとすぐに草臥れる。こうしたことが、絶えず身に堪え、意識から外れない。「楽」なんて何だったか,忘れてしまっていた。
半年のリハビリで、それが少しずつほぐれてきている。と同時に、その部分の不自由を忘れていることが多くなった。それは順調な恢復を意味していて、ありがたいことと思っている。
でも、こういうのを「楽」っていうの? とまず思い、山本も鷲田も、この表現やコメントは、ちょっと違うんじゃないか。そんな感じが頭の隅を掠めた。何が違うんだろう?
山本の「ことば」は限定的である。「健康な人間が持つありがたい機能」とある。この「限定」も、「機能」としていることを指している。いかにも外科医という風情だ。
鷲田はそれをさらに、「別のことに集中できる」と機能性の側面でみて、人間全体の活動に押し広げて「健康な人間のモデル」に変換している。臨床哲学者って風情といえばいえるが、この二人の見て取り方に、もう一言葉を挟まないと、「健康な人間」と「不健康な/病んでいる/障碍のある人間」との差別に至る分岐点に立つような気がする。
この半年の、私が病んでいる実感からすると、山本の表現は「実感」である。だが、「楽」かどうかは「無意識の体の動き」であると「意識すること」によってみてとれる、とことばを紡がないとならないのではないか。
この半年のリハビリに通っている「私の不都合な体」の実感は、「楽」に動くかどうかが目安であった。寝られるかどうか、起きた時に肩甲骨や肩の付け根、首筋に痛みが残っているかどうか。右肩や腕が、どこまで曲がるか曲がらないか、痛みはあるかないか。そういうことを一つひとつ、実感させられて、つまり意識することによって、恢復しているとかいないとかを見て取ってきた。リハビリを受けた夜には心地よい眠りに就いたのに、夜中に目覚めたり、朝起きてみると、背中がビーンと張って肩の付け根に痛みが走る。上を向いて寝るのが一番いいはずだが、気がつくと、右肩を下にして負荷を掛けていたり、左側に向いて寝ていたりする。ああ、これは私のクセなのだと分かるまでにずいぶんと時間がかかった。
無意識の身の動き、つまり自然体を「健康な体」と考えている。だが、それを標準と思っているのは「不都合が生じてから」になる。そのとき、元に戻そうと考えるのが「自然」ではあるが、私の体自体は、事々に、歳々に変わっていっている。元に戻そうという思念と、元に戻らない体の現実とをどう調整するのが「わが身の自然体」なのか。「不都合」に眼が行くと、変わる己が身の衰微、故障が受け入れがたくなる。むしろ,無意識に体が動いていない、つまり自然体に不都合が生じていると分かるのを、「健康」のバロメータと受け止めるようになると、わが身の状態が良くみてとれる。
そういえば、この半年の間に、お酒の飲み方が変わった。飲みたいから飲むというよりも、飲みたいと思うし飲めるのは大量がいい。体不調であると、飲みたいと思わないし飲んでもおいしくない。そう受け止めるようになって、依存的な飲み方を離脱することになった。
「楽」ということも、うまくいっているから意識しないでかまわないという意味なら、それでいいのだが、歳をとって変わりゆくわが身を意識しないでいると、危うい場面に出くわすことがしばしばになる。わが身の衰微の仕方に意識を向けているからこそ、心持ちも用心し、無理をしない。体の限界辺りを動いている時には、それを意識していないと、4月の私のような事故に出逢う。「楽」に過ごすように努めることが、「健康な人間」のありようといえるようになる。これって、冒頭のことばにいう「楽」と同じ用法をしているのだろうか。
以上についても、自分について考えている間は、差異だけが浮かび上がって、変化を見て取ることになる。だが、他者を交えてその比較をするようになると、病者とか障碍者と「健康な人間」の差異となって、差別への起点になる。わが身を見ている時は「差異」,他者を交えると「差別」になるというのは、自己と他者の間に社会関係が浮かぶからである。その社会関係を交えた存在が「わたし」という実在であり、わが身だけの「差異」を取りだして外科医が云々する時には、すでに社会関係的な位置づけが前提になっているから、無意識の体の動きだけにことばを集中することができている。
でもじつは私にとっては、体(それ自体)が、「わたし」,つまり社会関係を含む実存なのだ。「健康な人間」を「機能」で表現すればそう言えるかもしれないが、どうして「機能」に限定するのよと感じている。つまり違和感は「健康な人間」という概念が、社会関係において設えられていることを明かしている。「わたし」は「健康な人間のある状態」を意味している。「わたし」は私自身を社会関係においてしか、見えてこない。
歳をとると、健康である体も、使い古びてへたってくる。(いつ知らず)寝返りを打つように、草臥れたら休め、急がずゆったりしろ、そうからだが反応している。それは「機能」なのかというと、そうではなく身のすべてだ。その身の反応には、その人の歩んできた人生のすべてが堆積している。機能というより、心の習慣を含む「身の習慣」が込められている。しかもその体は年々歳々変容する。無意識の動きというのは、そういう意味では、その人そのもの、肉体も魂も渾然一体となった「身」そのもの、一部だけを切り取って貼りつけて見せるものではない。
これは(たぶん)「病気」をどう捉えるかということにも通じている。障碍者とは何かということにも関係している。この外科医にように機能面だけで見ていると、「人間」の幅を狭く捉えてしまうのではないか。それは「健康な人間のモデルイメージ」から外れる人を「病人」にし、「障害者」にしてしまうことでもある。「身の習慣」の染みこみ具合によって、「黙って動いてくれる体」はつくられる。それは文化的な概念であり、社会的な実存である。「健康/不健康」の分かれ目も、そう簡単に仕分けできるものではない
0 件のコメント:
コメントを投稿