情報化時代になって、日々のニュースも、各メディアの発信するのを集約して短くしたニュースサイトが多くなった。social networking service というより、short news service の趣がある。ちょうど新聞の見出しを追うような気分で見ている。
TVなどの報道番組も、似たり寄ったりの中味だったり,ときにはどこのチャンネルに合わせても、皆同じ記者会見を見せていたりすると、TV自体を消してしまう。いやになるのだ。そういうとき、short news serviceの方のSNSが、具合がいい。
新聞を読むのも、ニュースは見出しだけという風になる。踏み込んだ関心は、どこかに消し飛んでいる。ことに政治の動向などは、聞くまでもないという気分になっている。ニュースならば、せいぜい海外の動きに関すること。文化情報や人々の様子を報じる企画に関心が傾き、それらは詳細も読むが、あとは見出しをざあっと眺めるだけという己の傾向に気づいている。忙しいわけではなく、ほかのことはどうでも良くなっている。
こういう「傾き」に気づくと、新聞を読まないとかTVを観ない若者が増えているというのが、我がことのように感じられるようになる。と同時に、これが続くと、「わたし」の情報形成が或る「片寄り」を持つようになると思う。
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(1)まず、モノゴトが手短に簡略化される。因果関係もショートカット。そのデキゴトとワタシとの関係がパッと思い浮かんで、ちょっとした印象を残して次へ移る。これはセカイが簡略化されることに等しい。
(2)自身の抱くセカイが簡略化されるってことは、だが、全部が全部簡略になるわけではない。深い関心を持っているところについては、細かく情報を収集する。あるいは、強く関心を持った時に検索すれば、子細を覗くことができるのが、SNSの得意技である。その我が関心の「傾き」を意識していないと、人を見誤るようにもなる。同じデキゴトについてしゃべっていても、まるで重心の置き方が異なっていたりする。それは捉え方の深みに及んでいて、何しゃべってんのコイツって思うほどにすれ違ったりする。でも調子を合わせたりすると、交わされる言葉は深みの浅い方にそろうようになるから、コミュニケーションが薄く広くなる。つまらなくなる。
(3)それじゃあつまらないから、関心の深さを近づけようとすると、論理とことばを重ねなければならない。それは二重焦点になっている立体画像を、上手に焦点を近づけ合わせて,くっきりと見えるように調整することばをつかう。うまく焦点を合わせるには、じつは相手もそのように焦点を合わせる作用に動いていなくてはならないから、ただ単に交わされることばだけでなく、ことばのトーンや顔つき、所作・振る舞いも動員することになる。食事を取りながらとか、お酒を飲んでいるとかいった、場面も,むろん影響する。1対1か、複数の集まりかも,深みに入るには運びが異なる。二重焦点が三重、四重になると、ことばの綱引きが行われる。発言力のあるやつが主導権を取る。そこを軸として、ほかの人たちが焦点を合わせるように,話は展開するのが好ましい。だんだん,その集まりは気心のしれた「仲間同士」になる。そうでないと、気遣いが煩わしい。多様な人が集まると、思惑も絡まる。交わされる話の焦点はぼけ、深みは削がれていく。不特定の人が集まると、話は単純明快な方が良いというのは、その通りだ。複雑だと、外れてしまう。
(4)SNSはたいてい、一人で観ている。そこへ(4)で述べたように「仲間内」の集いとなり、相共感共鳴することばが行き交う。よほど自問自答が習いになっていないと、自分の「傾き」に気がつかない。気がつかなくても、その「情報」に接して感覚や感情は動員されるから、悲憤慷慨したり、馬鹿にしたり差別的な言辞を弄したりするのは、身の自然として発動される。ヘイトスピーチを繰り出したり、意を同じうするものの発言をコピペしたりして拡散するというのは、とどのつまり自分の憂さ晴らしにすぎない。これも発言の自由と識者はいうかもしれない。だが発言の自由の行使は、社会的な影響、つまり害を為すことであるから、当然責任をともなう。だが、自問自答もできない人たちに,責任を自覚しろっていっても、詮無いこと。匿名で、瞬発的に繰り出される振る舞いは、垂れ流しなのだ。コミュニケーションが成り立っていない。
(5)新聞は(ま、大手を想定してるが)読者大衆を啓蒙していると思っているから、垂れ流しってわけにはいかない。それに見合う分、読者・視聴者であるこちらもそこそこ信頼を置く。逆にだから、一つひとつを取り上げて揚げつらい、批評することもする。ところがSNSは、啓蒙というよりは自己表白である。むろん、書いている当人は啓蒙するに値することを述べていると思っているかもしれないが、それこそ「表現の仕方」によるのであって、ただ単に、そう言っているだけに終わる。つまり「権威」の備わる社会性がSNSではフラットになる。面白い(と私が思う)のは、世間的な肩書きをつけていても、あるいはTVなどでよく見る著名人であっても、SNSに現れると、たちまちフラットになってみえる。これは私のクセなのだろうかと反省的に考えたりはするが、論理とか表現に組み込まれていないと、なんだコイツ,つまんねえヤツだなあと見えてしまう。つい先日、どこかのホテルのフロントで喚き散らしている「不動産会社の社長」を名乗る男の画像が流れた。世界的に名の知られた不動産会社のようだが、ホテルマンの処遇がセレブに対するそれではなかったと怒って文句を言っている「ホテルマン風情が……」と叫んでいて、つい、「何さ、フドーサン屋風情が……」と画面に向かって罵ってやった。いや、大学教授を名乗るラジオのパーソナリティにも同じように感じることがあるから、世の中全体が情報化社会のSNSによって、憂さ晴らし文化へ大きく傾いていっているのかもしれない。
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情報大衆化社会のもたらした「憂さ晴らし文化」は、しかし、あってもなくてもいい情報の広場というわけではない。憂さ晴らしということ自体が、大いに意味を持つ社会関係に根を持つ。「憂さ晴らし」をするのが、格差とか差別とか閉塞とか、鬱屈がたまる現実社会に身を置く人たちであってみれば、憂さ晴らしは、自己確認の手立てでさえある。SNSも現実であるし、それによって交わされる「情報社会」も現実である。とすると、トランプ支持者のように、街に繰り出して大勢で意気投合するっていうのは、まさしく自己確認としての「リア充」にほかならない。いま日本の若者たちが,アメリカの共和党支持者のような「リア充」に直面してるのかどうかはわからないが、間違いなくそちらの方へ向いて歩いていると感じる。
これを、科学技術の発展とばかり喜んでいないで、アナログ時代の良さを手放すなと(若者たちに向かって)声高に叫べるのは、いま高齢者になっている私たちだけではないか。そう思うと、何だかすんなりと棺桶の蓋を閉じるわけにはいかないなあと思うのですが・・・。
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