中国が「人民民主主義」を定着させるために、人生設計をことごとく政府が行うという荒唐無稽な「人生総量規制」をやり始めた、と昨日書いた。「子育て」や「家庭教育」に口出しし始めたと聞くと、「修身斉家治国平天下」という儒教の看板を思い出す。と同時に、明治の「教育勅語」が説いた「……父母ニ幸ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ……」をイメージする。
どういうことか。江戸の頃の日本の習俗について、昨日取り上げた渡辺浩『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021年)は、面白い記述をしている。《これ(教育勅語)は、往々、儒教的教訓と解されている。しかし、それは疑わしい。……一切の道徳的行為を「皇運」「扶翼」の手段と見做していることが、既に奇異である。さらにここの徳目にも、新義や偏差が忍び込んでいる。》
と前振りをして、「夫婦相和シ」もその一つである、という。
《(『孟子』の「五輪」の教えの「夫婦」に関する全九条中に、夫婦和合を説いたものは無い。……何故であろうか》
と問いを立て、江戸時代の、17世紀初めの慶長の頃から18世紀後半までの23の文書や本を引用し、
《江戸時代の日本には「夫婦」といえば仲良く睦まじくあるべきものと説く習慣が、広範にそして長期間あったと言えそうである》
とまとめる。儒教の「夫婦有別」というのは、分け隔て有りでは無く、
《されば別とは区別の義にて、此男女は此夫婦、彼男女は彼夫婦と、二人ずつ区別正しく定まるという義なるべし》
と、明治3年の福沢諭吉の言葉を引用して解釈としている。
それまでの社会習俗の中に、「夜這い」や「雑魚寝」という性的に放縦な習わしがあり、また混浴など、性差による羞恥心を感じさせない姿が、訪れる外国人に衝撃を与えていた。1865年に来日したハインリッヒ・シュリーマンは、こう記している。
《「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にも触れることなく、彼らは衣服を身につけないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!》
渡辺は、こうした性的な放縦・開放性は庶民の間のことで有り、それは共同体的な枠組みのなかでそれなりの規範をつくっていたとみている。それに対し、武士身分においては画然とした規律として男女の別が有り、家を軸とした継承性が保たれて、それが武士という特権身分の証でもあったと解析している。
こうも言えようか。「教育勅語」は天皇制国家を正当化すべく儒教を援用したつもりであったろう。だが、その背景には、江戸以来の社会習俗を西欧に恥ずかしいと思う明治政府為政者(つまり江戸の武家身分)の、羞恥心が働いた。しかし庶民の方は、家業即ち家内労働の実情からいって、「夫婦相和シ」こそが最も実態を反映していたと言えたのであろう。だから「教育勅語」の記述の内実は、(今の私たちからみると)江戸の伝統的な社会習俗を語るに落ちたというところであろう。
はたして中国の子育てや家庭教育にまで及ぶ「人生総量規制」の事々は、中国人大衆の伝統的な習俗に足場を置いて「共産党の一党独裁」を正当化するのにつながっていくのであろうか。それとも、人民大衆の伝統的作法が働いて、面従腹背の道へきっぱりと進むのであろうか。中国人民の習俗が(私には)わかっていないから、どちらともいえないが、習近平の統治が習俗を変えるのか、統治をすげ替えるところへ追い詰められるのか、興味津々で見ているのである。
中国のことは、さておく。上記の渡辺浩の記述が示すのは、善し悪しは別として、私たちの抱いている「一夫一婦制」や「恋愛婚」とか「純潔/処女」とか、「二夫にまみえず」という女性に対する道徳的な規制は、明治政府の創作による「道徳律」であり、キリスト教的な戒律に扶けられて定着したものとみせている。せいぜい150年の間に作り上げられた規範(幻想=イデオロギー)だという確認であった。
どうして日本は、こうも簡単に西欧化に傾いたのか。むろん「攘夷」が単なる国家権力を奪うときの旗印であったことは、わかる。江戸も明治もいずれの権力も、口先では「攘夷」といいはしたものの、その実、(長州を除いて)一度もそれを実行することなく、西欧文化の衝撃に打ちのめされたのは、なぜか。日本に先んじて同じように西欧の襲来を受けながらも変容を嫌い、あっけなく国土を好きなようにされてしまった清朝と、何処が違ったのであろうか。善し悪しは別として、日本の文化そのものが辺境文化であるという自覚が、そうさせたのではないか。中国は逆に、世界の中心である(はず)という国家の自覚的感触ゆえに、なかなか西欧化に向かえず、他方日本には、まるで自分たちが世界の隅っこで、頼りない文化文明を営んでいるという肩身の狭さの自覚があったから、それが素地となって、さっさと西欧化を受け入れたのではないか。そんなことを考えさせられたのであった。
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