おっ、もう5時か。始発電車が通っているような音に目が覚めた。枕元の目覚まし時計を見ると、まだ3時半。激しい雨音が自転車置き場の屋根をたたいている。そうか、台風がやってくるといっていたか。
今日は十月一日。衣替え。仕事をしていた頃は、この季節の変わり目を文字通り「衣服を替える日」として意識していました。若い人たちに伝統を伝承する仕事であったということもありましたが、ついぞそのように考えてはいませんでした。まさしく私も、若かったんですね。
TVの番組も切り替わっています。そういう「きりをつける日」を持つことは、モノゴトを丹念に持続するためにも欠かせないことだと実感しています。もし「きりをつける」ということがなかったら、マンネリズムを続けているということさえも、消えてしまいます。
なにがしかのことを続けることによって、単に(習性で)続けている意識から「自らの意思」になっていきます。それは「意味を捉える」ことでもあり、自ら持続する志を「意思する」ことだからです。
もちろん「ハレとケ」の対比から、メンタルな浄化作用をしていると見なすこともできます。だがそう考えることは、ただ単に心理主義的に憂さを晴らす効用にしか目にとめていないように思えます。むしろ、それまでの(習性の)私は何であったのか、このままでいいのか、これからの先を切り開くことはどういう意味を持つのかと自問自答して「自律」する機会であるわけですね。
ところが,ことばや振る舞いという伝統的なモノゴトを受け継ぎながら、それを否定するのが「自律の志」と考えるのが「若者」の有り様でもありました。そのとき、自分が伝統的なものを継承することによって自己形成していながら、それを否定するという逆説的なスタンスを取っている。それに気づくことが一人前になることであり、その矛盾した自己を「わたし」と意識することから,自己吟味が始まり、「自律」へ至る。でもそれは、それなりに歳をとらなければ、そして、自らの生きてきた形跡を対象化して振り返ることをしなければ、手に入れられないことと、今だから言えるように思っています。
こう書いている間に、朝食を取り、昨日録画したTVをみていると、町山智宏というアメリカ在住のTVキャスターが、19世紀のアメリカ移民が暮らしていたアパートを紹介しつつ、「殆ど無一文でアメリカに渡ってきた彼らが、二十年ほどの間に財をなして、一戸建ての家を持つ暮らしができた。それがアメリカンドリームであった」と話していて、一つ気づいたことがあります。そういえば私たちも、1950年代の後半に中学を卒業して1970年代の終わり頃には、自動車生産でアメリカを追い越す勢いを手に入れていました。私的にいえば、中学卒業の頃には街頭TVを見ていた田舎の貧乏くさい子どもが、20年後には我が家を構え車に乗って通勤する暮らしをしていたのです。そうなんだ。20年という月日は、近代的産業社会の進展途上にあっては、ドリーミーな時期でした。それが成し遂げられて後もそれが続くかどうかは、じつはわからない。わからないけれども、「きりをつける」ことができないと、それまでと、これからとの意味を問うこともなく、いつまでも「夢を再び」と追い求める仕儀になってしまう。バブル崩壊後の日本の姿はそうではなかったか。そう思えてきたのです。
そうしてやっと、コロナウィルスの襲来によって,否応なく「きりをつけざるを得ない」事態に追い込まれている。オリンピックも終わった。宰相も交代する。緊急事態宣言も解除する。それを「きりをつける日」として,我がこととして捉えることができるかどうか。
いや、それでも夢見ることが叶った私たちは、特異な時代だったと思い出に耽ることができるかもしれません。でも、我が子や孫の時代はどうなるのか。そのためにも、自問自答をしっかりとしておかねばならない。その正念場に立っていると感じています。
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