2021年11月30日火曜日

現実をどう見るか

 今日(11/30)の朝日新聞「取材後記」は《放置する政治家「資格」疑う》と見出しをつけて、憲法の規定を守ろうとしない内閣への苛立ちを、次のように記している。

 帝国憲法改正委員会審議中の1946年、《憲法担当大臣であった金森徳次郎の答弁は明快だった。政府や国会で活動する人は「政治道徳の根拠ともなるべき人々」であり、制裁規定をおくまでのことはない、と。……しかし現在のこの国の政治家たちの姿を見ると、金森の見通しは実に甘かったというほかない》という。

 臨時国会の召集を求められたのに、「憲法の規定に反して」それに応じないことを元最高裁判事の言葉を援用して非難しているのだが、それはそれでいいとしても、どうして「資格を疑う」という言葉になるのかが、よくわからない。金森徳次郎がいうように「政治道徳の根拠となるべき人々」が政治家の資格を有するというのなら、何処にその規定があるのかきっちりと明示しておかねばならない。75年も前の単なる「担当大臣」の答弁である。それを国会議員の「資格」とみるからには、金森もまた、その根拠を明示しておかねばならない。と同時に、それを引用して改めて国会議員の「資格」を論じるのなら、この論者(編集委員・豊秀一)もまた、改めてその根拠を明らかにしなければ、「実に甘かったというほかない」といわれてしまうよ。

 何が問題か。発言者の発言の裏側には、その方の理念とか観念とか思い込みとかそれまでに歩んできた総過程の文化が横たわっている。その一端だけをご都合主義的に採用して、ご自分の主張を展開するのは、これまた単なる「非難」であって、現実認識としても共有されないし、論理的な展開の足がかりにもならない。

 では、どちらが「現実」に近いか。あきらかに「資格」を疑われる政治家の存在が現実的である。金森徳次郎の思い描いた「政治道徳の根拠となるべき人々」とは、国会が規定する法律が政治道徳の根拠となり、いずれは国民道徳の規範となることを期待したのであろう。よく、タテマエとホンネと対比されるが、現実的な方がホンネ。とすると実際に生きている庶民大衆は、どちらに重きを置いて身の裡に取り込み生きていく指針とするか。言わずともわかろう。

 国家が法律で決めたものが、どういうあしらいを受けるかを、日々国民は、世の中のいろんな出来事を見つめながら、注視しているともいえる。だから国会議員がみっともないことをして言い訳をしたり、文書を改竄したり、変な言葉の用法を閣議決定して宰相を擁護したりすると、そうかそういうことかと国民の「世界観」を手直しして、生きていくのに役立てる。それらの積み重ねが、庶民大衆の「情報・認識・行動指針」となって、集団的無意識として社会を覆うようになる。金森が甘かったというよりも、ホンネを見極めて法をつくらねば、抜け道を探ってザル法にしてしまうと人間認識が、欠けていたのだ。性善説だとよく言われるが、そうではない。人間を性悪説で決めつけるのも、一方的である。そういう見極めではなく、人の日常的な振る舞いと、外からの「規制」がどのような「かんけい」で動いているかを見極めて、そのときどきに最適な対応策を講じなければ、憲法ばかりでなく法律もまた、ただのお飾りに堕してしまう。

 今や政治がそのようなお飾りに過ぎないと思えるのは、庶民大衆の見誤りなのだろうか。

2021年11月29日月曜日

第二期・第14回seminarご報告(1)ジェンダーは文化の棚卸し

 今回の講師はミドリさん。「ジェンダーについて考えてみましょう」とタイトルを振ったA4版5頁のプリントを用意。その1ページ目に10項目に亘る今日の話題の表題が掲げられ、今日のステップを示して、途中で脱線しないように全体像を示している。

(1)ジェンダーとは?

(2)ジェンダー・ギャップとは?

(3)ジェンダーレス、ジェンダーフリー、ジェンダーバイアス

(4)LGBTQ+

(5)日本史の中の性差

(6)SDGs*ジェンダーの平等を実現しよう。

(7)性的マイノリティの人たち NY Pride parade

(8)レディーファースト

(9)天皇制とジェンダー

(10)宗教とジェンダー

(11)MY conclusion


 生物学的な「性/sex」に、社会的・文化的な「性差」が加えられて「ジェンダー/性的役割」が生まれてくると話しが始まる。

 インドの女児の(故に)堕胎された数を1994年~2014年の統計を示して例示する。インドではダウリと呼ぶ(女児の)結婚時の持参金が負担となって、男児の出生が歓迎され、女児が忌避されている実態を取り上げる。中国でも一人っ子政策が行われていたときには同じような事態が起きていたから、男系のイエ制度、職業・資産の相続がなぜ行われるようになったのかが問われていると、私自身の関心へ心持ちは向かいかける。

  話を聞いていて、身の裡にふつふつと疑問が湧いてくるのを感じる。なんだろう、この「わからなさ」の違和感は? 「生物学的な性」と「社会的・文化的な性的役割の区別/性差」とは、「ジェンダーの平等を実現しよう」いう言葉でくくれるほど単純なことなのだろうか。いや、別様にいえば、そこでいう「平等」ってなんだ?

                                      *

 私はまず、J・M・クッツェー『モラルの話』を思い出した。ノーベル文学賞作家の小説だ。う~んと唸るような所収短編のひとつが「犬」。

 通りかかる彼女に激しく吠え掛かる「猛犬」。勤めの往き帰りに、毎日二度、吠え掛かる。ジャーマン・シェパードかロットワイラーの大型犬。恐怖の色を浮かべる人に吠え掛かって支配欲を満足させているのか、あるいは、雄犬が雌人を見分けて支配欲を満たそうとしているのかと、彼女の想念は広まる。行き着いた先にアウグスティヌスが登場する。

 アウグスティヌスは、我々が堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言っているそうだ。

「とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」

 彼女はじぶんの「屈辱的な恐怖の臭い」を出さないために自制力をもてるか、と自分を励ます。だが、今日も駄目だ。そこで彼女は勇をふるって「猛犬注意」と張り紙を出している家の玄関の扉を叩いて、「なんとかしてくれ」と頼む。出てきた老夫婦は「いい番犬です」と言って取り合わない。

 以上のような話。私は「女性」の生来的な「恐怖」と受けとっている。

「かんけい」によって生じていることを「身体制御」という実体に持ち込んで「堕落した生き物」と規定するアウグスティヌスを「いい番犬」と名づけているようにも読み取れる。

何でこれを思い出したのか。私もアウグスティヌス同様に「堕落した生き物」と自己認識するからだ。

 もう一つの、どこかで見た詩へと連想が飛んだ。家へ帰って拾ってみたら、次のような断片だった。誰かがどこかで引用していたペルシャの詩人シーラーズのサアディの作品。

    アーダム(キリスト教のアダム)の息子たちは、一つの体の手であり足であり、

    彼らは同じ精髄からつくられている。

    どれか一つの部分が痛みに苦しむと、

    ほかの部分も辛い緊張にさいなまれる。

    人々の苦しみに無頓着なあなたは、

    人の名に値しない。

 神の創造物である人間が、互いの共感性をどこかへ置き忘れて、「人を殺すのはなぜいけないのですか」と問う若者を生み出し、それに応えられないで立ち往生する大人の一人だとわが身を見つめ直す。ここも、わが身に覚えのあることを、訴えがなければ痛みとして感知しないセンスが、ベースを為している。

 ジェンダーの問題は、身に染みこんで刻まれてきている社会的気配だから、改めて考えてみないとわからない。

 しかも、社会的・文化的な性差が、自然発生的に形づくられてきたとすると、生物学的な性と切り離せない合理性があったはずだ。それを、「古い性差別観念だ」と切り捨ててしまえるのか。私たちが身を以て(社会的、集団的に)たどってきた道を、現代の合理性の観念で切り棄てることはできるのか。そんな思いがふつふつと湧き起こってきたのだった。

 seminarの開催案内に記した「まえふり」があったから、先のオリンピック・パラリンピックの組織委員会の森喜朗会長の「女性蔑視」発言を、会長を辞任するほどのことかとみている私の書いた一節がミドリさんの俎上に上った。ミドリさんは非難するでもなく、淡々と私の発言を取り上げ、あたかも森喜朗と同じ「古い時代のオジさん」と見ているようなあしらいであった。ちょっとそこへ立ち寄ってみようか。

 森発言を私は、下手なジョークと受け止めていた。というのも、誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話し、それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていたことを思い出していた。そのとき私は、ふ~んそんなものかと、私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して聞き流してたのだが、これも森喜朗と同じ女性蔑視発言なのだろうか。

「一人(女性が)発言すると私も発言しないではいられないというふうに女性は発言する(ので会議が長引く)」という趣旨の森発言は、会長という彼の立場からすると、どんなことをそこで言っておこうとおくまいと決定事態が変わりはしないのに、言わいでなるものかと発言するのを皮肉ったのだろうか。ま、その程度の森流合理性があったろうかと感知したわけであった。

 だから、同席した他の委員も(森会長の功績に照らしてか?)咎めなかったのかもしれない。それがメディアに取り上げられ、森喜朗は何が問題なのかわからない風情で「謝罪」し収まったかにみえたのに、外国人特派員がそれを報道し、海外メディアが大きく報道して騒ぎになり、海外では(それではオリンピックに参加しない)とまで言うアスリートもいて、会長辞任にまで発展した。でもこの辞任劇の何処に、「女性蔑視」解消に関する日本の文化的な進展があったろうか。言われてみれば「女性蔑視」であったという追認はあったろうが、昔の古いセンスのオジさんの発言に何を目くじら立ててんのよと笑い飛ばすくらいが、日本のフェミニストの受け止め方ではなかったろうか。

 いや、欧米メディアの「女性蔑視」を過剰反応といいたいのではない。そうではなくて、相変わらず日本のメディアも、組織委員会も、海外欧米からの圧力に弱かっただけじゃないのかと、自己の文化センスに定見のない政治家やメディアの現在を思ったのであった。

 ジェンダー・ギャップを取り上げるとき、男女間の社会的な役割意識をギャップと言っているのか。それとも欧米と日本の文化的な差異の大きさが「ギャップ」といっているのか。この両者を取り上げる必要があろう。そしてさらに、欧米と日本の文化的な差異を、一つの基準で「ジェンダーギャップ/性差別」として論じるのは、いかにグローバル化の時代とは言え、文化の多様性に差し支えが生じるのではないか。

「ジェンダーギャップ指数」が日本は、アンゴラに次いで120位と言われても、男言葉/女言葉があったり敬語が三層(尊敬語、謙譲語、丁寧語)に入り組む日本語と単純明快で機能性に富んだ英語とが比較されて「女性の地位が低い」といわれているようで、それって、何を女性尊重と言っているのかさえわからなくなる。

 いやそもそも「女性尊重」って言葉さえ、「女性を(保護する対象として)軽視する」発言と捉えられかねない風情さえ漂う。私の身に染みこんだ文化とともに潜在している「性差」を一つひとつ拾い上げて、考えてみるしかないか。まるで私が経てきた文化の総棚卸しみたいだと、改めて思っている。

2021年11月28日日曜日

seminar実施しました

 昨日(11/27)、36会seminarを実施しました。新橋の「ももてなし家」は、9月よりもさらに人が集まっており、一階の店内を見て回るのは夕方の電車の中よりも混雑していました。それがいいことかどうかわかりませんが、確実に「人流」は恢復しています。

 seminarにいつも顔を出す「常連」が、全員そろうことになっていました。

 開会の30分ほど前から集まり初め、てんでにおしゃべりが始まります。2ヶ月ぶりの方もいれば、4ヶ月ぶりという方もいます。seminarがある毎に映画を見てからやってくるというフミノさんにも、1月のseminar後の新年会にバイオリンの演奏を披露してもらうことになりました。新年会は、幹事役のミヤケさんが実施を決め、後日皆さんに案内を出すことにしています。

 9月に入院していたマンちゃんもお内儀と一緒にやって来ることになっていましたが、まだ顔を見せていません。いつも連絡を取っているミスズさんが、皆さんに聞かれて、どうしたんだろうと心配しています。電話をしたら、まだ家に居ました。2時から開始と思っていたといい、家を出てくることになりました。

 1時間ほど遅れて二人がやってきました。マンちゃんは、歩くのもおぼつかない風情ですが、皆さんの顔を見るためにやってきたと口にします。会食になって、他の皆さんと同じものを注文し、生ビールも少しずつ飲んでいましたから、ずいぶん恢復しています。ちょっと咳き込んだりしますが、フジワラのトシさんと話し込んでいましたし、店番にも午後から顔を出して、片付けもお内儀としているとのこと。数え傘寿の壁に挑んでいる最中という感じですね。

 さてseminarは、ミドリさんを講師にして「ジェンだーって何? 日本人はジェンダー・ギャップを埋められるか?」をお題にして始まりました。事務局の「次第」には、次のように「まえせつ」が書かれています。

《生物学的な「性別sex」に対して、人間は社会的にも、文化的にもいろいろな衣装を着せてきました。男らしさ、女らしさ、男の役割、女の役割という衣装。それが「ジェンダー/gender」です。

 文化的にいえば、男言葉、女言葉があります。服装もそうです。立ち居振る舞いに至っては、男女の優劣が如実に現れます。三歩下がって男を立てるという大和撫子の理想型も、文化的につくられていった素養です。

 制度的にいえば、男系/女系という職業・資産の継承権の系譜も問題になります。家計の財布をだれが握っているかというのも(社会的に)男女が影響しているとすると、それもジェンダーです。イエ制度や夫婦同姓か別姓かも、関係してきます。

 それが男と女の関係となると、もっといろいろな既成観念がかぶせられて、私たちの感じ方や考え方を支配している言えます。その齟齬から来る軋みを、ジェンダー・ギャップと呼んでいます。齟齬は取り払うことができるのでしょうか。

 でも、どのような場面でどのようなモンダイをめぐって取り交わされるかによって、齟齬の質も範囲も広がっていきます。先のオリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言も、そうでした。また、子育てをどうして女がやらなくてはならないのか。イクメンという言葉も起ち上がりました。男と女の生理的違いがもたらす社会的、文化的な差異は、しかし、時と場合によって、身のこなしとして私たちはくぐり抜けてきました。時代的な文化の流動・変化によって、かつては何でもなかったことが、大きく問題になってきています。世相の変化です。

 他方で今の私たちは、歳を重ねてきたことによって、ジェンダー・ギャップよりも、フィジカル・ギャップの方が暮らしに大きく作用するようになりました。同時に、古いままのジェンダー・ギャップを身につけていて、どうしてあの程度の発言で森会長が辞任することになるのか。ちょっとわからなくなっていましたね。国内的には一時収まったかに見えた発言の波及でしたのに、、国際的な非難が轟轟と響き渡るように伝えられ、国際世論に押されて会長辞任となったのですが、そのインターナショナル・ギャップがどうして生じたのか。それが副題の「日本人はジェンダーギャップを埋められるか?」という問いになっているのかもしれません。彼女の経験豊富なアメリカ文化との対比が縦横にめぐらされて、面白い切り口になると期待しています。》 

  さあ、どうなったか。そのご報告は、また改めてすることにしましょう。

 seminar後の会食は、「アルコール解禁」とあって、勢いづいたのはミヤケさん。ハイボールから初め、岡山・宮下酒造の地ビール「独歩」、同じく宮下酒造の「極聖・雄町・大吟醸」と飲む順番を考えて注文し、ハイボールの届くまで、手をつけずに待っているという律儀さでした。マンちゃんの恢復を祝って乾杯し、まず何より再びこうして顔を合わせることができるのを言祝いでいる気配に満ちていました。

2021年11月27日土曜日

多様性を認めるだけでは落ち着かない

 今日(11/27)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」は、「何にでも執着する自分がいやになります」という10代の女性、大学生の相談。ドラマをみても自分の好みに合わないとすぐに見捨てる。それが高評価を得ていると知ると、自分が非難されているような気がして気に入らない。苛立つ。自分が好きな作品のときは、自分とその作品との境界が曖昧になり、それに対する世間の評価を自分への評価と受けとってしまう。批判されると傷ついてしまう、という相談。

 それに対して美輪明宏は「他人の感想なんて千差万別。割り切るしかありません。人間にはいろんな価値観があるのは当然です」と応じて、見出しも《哲学を学び、多様性を認めましょう》とまとめている。

 だが、そうか?

 多様性を認めるというのが「人生いろいろ」という他者承認だとすると、この相談者の「自己嫌悪」は少しも片付かない。「世間の高評価」を受け容れられないのは、「自分の評価」が相対化されないからだ。では、自信たっぷりなのかというと、そうではない。はたして「自分の評価」は正しいのかと不安になっている。つまりこの相談者は、自分(の評価)を世界に位置づけることができないことに苛立っているのだ。

 となると道筋はひとつ。なぜ、自分はこの作品を気に食わないのか、どうして私は、こちらの作品がいいと思っているのか、そう問いを立てて自問自答して、自画像を描いていくしかない。他の人たちとか世間の評価は、自画像を描くときに踏み台になる媒介物だ。彼ら、彼女ら(評論家)は、何処をどう見て評価しているのか、その点を自分はどうして認められないのか。

 かつて西欧では、趣味と色合いは批評の対象にしてはならないという(紳士淑女の)世間相場があったそうだ。それをぶち壊したのが、フランスの社会学者・ピエール・ブルデューだとどこかで読んだ覚えがある。ブルデューは、趣味も色合いに対する好みも、生育歴中の環境によって埋め込まれ、無意識の自分の好みとして沈潜している社会的な継承性を持っていることと見て取った(『ディスタンクシオン』)。

 つまり相談者の感性や感覚、あるいは好みの傾き、ときには思考の傾きも、無意識のうちに育まれ、あるいは習い性となって無意識層に沈潜している社会的な関係の結晶なのだ。だから、自画像を描くというのは、自らの感性や感覚、好みの根拠を自らに問いただし、意識層に浮かび上がらせることに他ならない。そうしたときにはじめて、自分の選好がどういう社会的な継承性の産物であるかをみてとり、相対化することができる。

 多様性を認めるというのは、(好みやセンスは)人それぞれよということなのだが、そう言って終わりにすると、「関わりの糸口」は断たれてしまう。糸口をつなぐのは、それぞれが背負っている社会性を、我がことと対照させて位置づけていくことだ。一つにまとめる必要があるのは、その好みやセンスによって共有している場が決定されてしまうときだが、ふだんの暮らしの中でそれは、そう多くはない。

 じゃあ、関係ないって済ませてしまえるんじゃないか。そうなんだ。我関せず焉と感知しないのが社会的な作法になっていたりするから、社会的な振る舞いとしては知らぬ顔の半兵衛を決め込むのがいい場合もないわけではない。だが、自画像を描くというのであれば、我関する縁と考えて、自分の身の内の共振する部分を拾い出してみることも、面白い振る舞いとなる。

 これが哲学するってことだと、私は考えている。美輪明宏は、「哲学を学べ」といっているが、哲学者の哲学した結果を勉強しても、よほど通暁しないと自分との接点を見いだすことはできない。それよりは、自ら哲学することだ。世間の評価と照らし合わせて自分の評価を際立たせ、その根拠を問うとき、自ずから社会の規範や常識のベースになっている感性や感覚が身の内から湧き起こり、その根拠へと迫ってくる。

 おっ、これだと一度つかんでも、しばらくすると、それもまた(そうかな?)という自問自答に包まれることもある。それでいいのだと思う。「自分」ということ自体が、一つに固定的に捉えられることではなく、行雲流水の如くつねに移り変わっている。そういう移り変わりをものともしない自画像が描き出されたとき、だれが何と言おうと、あるいは何も言わなくとも、私は「わたし」だという動態的確信を手に入れることができる。

2021年11月26日金曜日

石油の備蓄放出だって?

 ガソリンの値段が上がっていることは、車に乗っていれば、ピリピリと感じる。でも、温暖化を防止する手立てを講ずるには、最適な環境ではないか、とも思う。つまり、ガソリンや石油製品が値上がりする。それらの利用を(やむを得ずであれ)控える。石油の採掘元のOPECは、産出量を減らして値を上げ、国家の財産の失くなるのをできるだけ先延ばししたいのだから、温暖化防止とちょうど見合っているじゃないか。

 そう言えば思い出したが、1970年代のオイルショックの頃は、「このまま石油を使い続ければ、(石油は)あと何年持つか」を数値で出していた。30年で枯渇するといっていたが、それから50年経っても同じ騒ぎをしている。石油の値が上がったことで、採算の合わないとみていた採掘が行われるようになったと理解していた。また、それでも石油がとれなくなったときを考え、シェールガスという新手の化石燃料を作り出してきたのだった。

 半世紀前と違うのは、温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようという要素が加わったからだ。それを主導しているのはヨーロッパ。フランスは原子力にドイツは再生エネルギーに舵を切っている。

 だが、後発の中国やロシア、インドなどは、欧米の先進国がCOPを通じて温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようというのは、先進国の身勝手。自分たちは先に存分に化石燃料を使っておいて、あとから追いかけている国に使うなというのは、勝手すぎるじゃないかと批判している。それをCOPの会議では、先進国が化石燃料からの転換を図る技術を後発の途上国に無償で提供しろと(先進国に)迫ったが、まとまらなかった。

 先進国でも、トランプのように「温暖化の危機」はフェイクだとCOPからの離脱を掲げたりしたから、ますます先行きは不透明になっていた。バイデンが登場して、息を吹き返し、どうやら次の一歩へ踏み出そうとしている矢先、石油の値上げがやってきたというわけだ。バイデンが呼びかけて、備蓄分を放出しようと呼びかけ、日本も追随することになった。しかしそれも、バイデンのアメリカ中間選挙向けの弥縫策と揶揄される程度の効果しかあるまいと、各地のエコノミストは冷笑している。

 そりゃあそうだ。OPECに対抗して石油を放出するくらいなら、イランに対する経済制裁を解除すれば、イランは石油を輸出するし、OPECも減産=値上げをやっていることができなくなる。これは以前、第二次オイルショックの時に打った手と同じ、そのときも大産油国イランが貢献している。

 逆にCOPの立場に立つと、OPECの減産=値上げは、国際会議の合意に苦労するより先立つべき政策である。むろん石油を止めても石炭がある、天然ガスがあるから、そう簡単に世界全部がCO₂削減に向かうわけではないが、自動車や航空機、船舶という最大の輸送手段の削減に、これほど有効な手はないと。だが欧米も工業諸国も、そうは動かない。

 そう考えていて一つ思いつくこと。庶民大衆は、ガソリンが高くて手が届かなくなると、車を捨てる。電車やバウに切り替える。自転車に乗る。歩く。遠出をしなくなる。つまり、「状況」に適応するしか、生きていく方途はない。それはたぶん、あちらへ行きたいこちらで遊びたいという心裡の「欲望」を押さえることへ向かう。

「欲望を止めろ」というのではない。これまでの、お金を使う商業主義的誘惑に向かう「欲望」から、自らの体を使って移動し、気候気温に適応し、興味関心を満たす方途を探り、そのための環境(たとえば図書館とか映画館とか演劇場とか博物館など)を整えていく「欲望」に切り替えていく。商業主義的消費から自律的な遊びへと向かう文化的な転換を図るのが、一番賢明ではないか。

 つまりこうも言えようか。バイデン政権を初め、各国の政治指導者が採る政策は、商工業第一主義の資本家社会的な暮らし方への誘惑であり、私たちの日々の暮らしを堅くそれに結びつける方策ばかりに満ちている、と。私たち庶民大衆は、その誘惑からぼちぼち離脱して、自らの心裡を満たす暮らし方を真剣に考える時が来ているのではないか。

 そう考えてみると、石油のことはほんの一つの発端だったとわかる。コロナウィルスがそもそも、私たちの反省を迫っていたことは、資本家社会的な(商業主義的な)物量と宣伝の溢れる生活ではなく、静かに佇まいを整え、ときどき内心を見つめながら、人と人との関係を穏やかに保っていく暮らし方ではなかったか。

 ガソリンが高くなっても、困ることはない。庶民大衆の暮らし方の知恵は、どうあっても生きていく力を持っている。あの戦争までやって、なおいま、こうやって生きてきているのだから。

2021年11月25日木曜日

政治家はコーディネータ

 運動としての民主主義を掲げる政治家は、「かくあるべし」という具体政策イメージを持たない方が良い。

 えっ? じゃあ、彼は政治家として何をするんだ?

 庶民大衆の皆さんの意見や不満や要求が、出せるように、ネットワークと運動を組織する。皆さんのそれらは、多様であるから、その数だけネットワークは重層し、運動は多岐に亘る。一人で組織するというわけには行かない。政治家は、庶民大衆のそれらを政治的次元に引き上げる。

 引き上げるというと、政治的次元が「上」に見えるかもしれないが、そうではない。次元を変える。むろん、素のままの「課題」を除かずに、それらの違いをある程度概括して、三つか四つの差異的政策にまとめることになる。それについて、徹底的な討議をする。形式的な討議ではない。支持する政策の、短期的、長期的に結果すること、対立する政策のもたらすこと、政策を具体的に遂行するに当たっての困難と課題など、一つひとつ掘り出して俎上にあげ、吟味して決定に持ち込む。そのとき、反対意見、少数意見、特異な意見を一つひとつ丁寧に位置づけて、重ね合わせ、譲り合っていく。なぜそうするかをひとつひとつ解きほぐし、明快にしていく。それが「討議」である。

 この「討議」には、庶民大衆の(それまでの人生で経てきた)あらゆる出来事が醸した思い込みや流言飛語や認識の違いや意識していないことが浮かび上がり、「にんげん」の諸相がぶつかり合いとして剥き出しになる。人々の差異である「諸相」を解きほぐし、政治的課題としての限定をつけて、互いの相互認識に持ち込んでいく必要がある。

 じつは、ここが政治家が取り仕切る一番の「課題」だ。そういう意味で政治家は、哲学者でなくてはならない。ここでいう「哲学」とは、人が生きるということの筋道を根柢から見て取る感性を持つことに始まる。つまり「にんげん」とは何か、人は今どう生きているか、いかに生きることをよしとするか、そういったことに向き合う感性が不可欠である。

 この点が、コーディネートの要だと思う。コーディネートする政治家も、意識しているかどうかは別として、「かくあるべし」という観念をもっている。だがそれを押しつけたり、我田引水のように運ぼうとすると、たちまち「不信」が湧いてくる。というか、そもそも「信頼を得ていない」ことが出発点にあるから、「信頼」が醸成されていかない。庶民大衆が主体であり、政治家はその主体を、集団的意思として起ち上げるコーディネートをしているのだから、自身の「かくあるべし」を押しつけるようであっては、務まらない。

 その間に、三つか四つの差異的政策が二つになったり、一つプラス三つほどの付属政策になったりすることができれば、そのようにして合意に達するようにする。その間に、優先順位をつけることもあろうし、次年度以降の課題として継続審議に持ち込むこともあるだろう。ときには、不満を抑え込んでしまうこともあるとみておかねばならない。民主主義とは、集団的決定の最終段階においては、抑圧を含むしかないことがある。

 それら政策立案のための資料収集を官僚たちに担当してもらうってことも、情報収集機関としての役所の務めだし、情報メディアも、この過程で活動してもらえるように活動の全過程を公開していくことが、ここで浮かび上がる。公務員が「国民全体への奉仕者」になる。政治家の「ご挨拶文」を書かされるよりは、よほどそちらの方に官僚たちのやる気がそそられると私は思う。彼らがエリートとしての矜持を「国民全体への奉仕者」ということにおくようになれば、彼らは長期的な視点と公平性と公正さと継続的なマンネリズムを長所に変えていくことができる。政治家からの一定の独立の根拠も築かれていく。

 安部=菅政治の欠点は、自ら感知している「情報」を秘匿して、あたかもその「情報」が自分の発信するべき特権的なことのように占有していたことにある。だが、情報化社会の広まりにつれて、「情報」は広く知れ渡るようになってしまった。それどころか、情報収集機関であったはずの役所がいつの間にか時代遅れの収集癖に凝り固まり、官僚というエリートが世俗の情報に追随するようになってしまった。地方政府からの基本情報すら、ファックスで送付し、改めてそれを入力して集積するという手間暇をかけ、その結果誤入力や欠落を招いている。いや、それらの入力を外部委託することによって、もはや役所が情報収集と発信の能力を失ってすらいる。その頂点に立って差配してきた政府首脳は、文字通り裸の王様であった。

 政府首脳に「権威」はいらない。「信頼」を得ることが第一だ。もちろん「信頼」の積み重ねが「権威」となることはいうまでもないが、情報を秘匿して小出しにすることによって手に入れる「けんい」って、すぐにボロが出る化粧のようなものだ。それを身につけている限り、庶民からの「信頼」は得られない。

 コロナ禍は、じつはそうした「信頼」を手に入れる最大のチャンスであった。コロナウィルスが襲来するとどうなるかわからないというのが、ほぼ全員の一致する感懐であった。どうしたらいいかわからないということは、どうやるかが「問われている」わけだから、衛生医療関係者の意見、社会関係の期待、経済活動の停滞と浮沈、何より暮らしにおける最低限、整えなければならないことを取り出して公開し、どう調整するか、何を優先するか、何が欠かせないかを丁寧に吟味しつつ、具体化を図る。数十の提案を三つ四つに絞り込み、その過程も明らかにしておくことで、その選択過程への「やむなし」という了承を取り付けることだって、そう難しいわけじゃあるまい。

 ところが政治家が、才覚力量に溢れ、旺盛な活動力で取り仕切って「俺に任せろ」的に振る舞えば振る舞うほど、庶民大衆は「お任せ」になり、政治の「公助」を主権者の権利の如くに消費してしまう。だって彼ら(政治家と官僚)は秘匿するほど「情報」をもっているんだろ? ならば、それ相応の具体的な結果を出せよ。口だけでサービスするような贅言は、もういらないよ。そう、不服不満は鬱屈し、投票にも行かないし、政治なんて知ったことかとそっぽを向くようになる。それを埋め合わせて、政治家の方へ向いてもらおうとすると、大枚の選挙資金を投入して明らかに不正な利益誘導をするようになる。そのような政治家の不始末は、数え切れないほど多い。野党がそれを追求していることも、庶民大衆からすると、与党をいじめて遊んでいるようにみえる。むろんそれで与党の不始末がどうなってもいいとは思わないが、政治家って、結局権力を握っていないと負け犬の遠吠えなのねって、認識が定着する。

 野党は、政治世界の枠組みを打ち破って、根柢から社会運動として動き始めなければならない。まず、庶民大衆を「主体」にすること。なってもらうこと。それをコーディネートするのが政治家の役割と心得て、「哲学」を提示してみせること。それが「信頼を築く」第一歩だと思う。

2021年11月24日水曜日

運動としての民主主義

 立憲民主党の党首選挙が行われている。朝日新聞はその候補の見解をわりと丁寧に伝えているが、私の耳には「相変わらず」に聞こえる。

 今回の衆院選で(事前の予想と食い違って)敗北したことを、議会制民主主義の枠内で捉えているから、政策提起をするとか、人々の意見に耳を傾けるとか、選挙のときの共産党との提携が良かったか悪かったかという次元でやりとりしている。そこを抜けないと、たぶん、だれが党首になっても野党の壁を切る崩すことにはならないだろうと私は思っている。というのも、今回選挙の焦点を、安部=菅政権にたいする批判として総括するのであれば、モリ・カケ問題やサクラの会の問題は、政治が人民主体ではなく政治か主体になっている象徴的な事象だということだ。

 普通の庶民からすると、もう国民主権などということは「お客様は神様」と商業主義が唱えるのと同じ、「投票してくれる人は神様」と持ち上げている贅言に過ぎないとわかっている。主体となった実感を味わったことなどないからだ。簡明にいえば、「主権者のために」を合い言葉に、政策を見繕って差し上げ、どうだこれでと、自慢顔をしてみせるのが、政党や選挙の手立て。つまり主権者って、単なる一票であり、一票でしかない。

 だが、この単なる一票の動きを動かすには、手間がかかる。マスとして動かすにはどうするか。SNSもマス・メディアも、世情を動かす立派なメディア。俺らを動員して新鮮さを演出する。他党をおとしめ自党を持ち上げるニュースを、フェイクであろうがなかろうが取り混ぜて流す。マス・メディアは「客観報道」とか「責任報道」と称して取り上げる。SNSは自画自賛ではないように見せかける装いもして、広がりを持たせる。

 それらの「報道」のトップを飾るようにするのは、一つのイベントを演出して盛り上げるようなこと。博報堂など大手企業の知恵を雇い入れ、裾野の「噂」から頂上「決戦」まで、ピンからキリまで、あれこれ織り交ぜての広報戦術を駆使して、人々の心を揺り動かし投票行動へと結びつける。オリンピックなどの壮大なイベントを企画立案して実施する経験に、社会心理学や人間行動学、流行の最先端をつかみ、コントロールする技術を用いて、人々の動きを操るように差配してきたのである。操られる側も、決して自らが選び取ったという確信の揺るがぬように組み立てられた「総選挙」というイベントの結果が、実はそうするべくしてそうなっているかたちで、仕組まれているとも言える。

 そういう社会に私たちは暮らしているのだ。陰謀論がはびこっていくのも、ごく自然なこと。人間工学を組み込んだサイバネティクスの社会、主体的にそうしていると思える情報社会が、日常、私たちの心中深く浸透しているのだ。国家を動かしている「主権」というのが、これほどの統計的な数値にすぎないというのは、戦後76年を経た結果である。

 数えで傘寿という、この歳になって思うのだが、いまの日本の民主主義を根柢から変えようとする方策は、法制度や形式的に整えられた民主主義ではなく、主権者を「政治の主体」とする具体的な実践である。政治って政治家が牛耳ってるアレでしょと傍観するものではなく(いま私はそうしているが)、自らが腰を起こして、足を運び、政策立案に(意見を聞かれ、意見を申し述べて)参画し、具体化の運びを実感できるほどに身近なものにすることだ。

 そのために政治家がいまやらなければならないことは、次のようになろうか。

(1)中央、地方を問わず政府が手に入れている「情報」を公開し、何が課題であるかを提示すること。

(2)人々から(1)の課題に関する諸提案を受けること。

(3)その諸提案を整理して、いくつかに絞り、それに関する諸意見を集約すること。

(4)最終的に絞った政策提案を、議会で、あるいは住民投票で、決定すること。

 そんなめんどくさいことはできないよという人は、みているだけになる。投票にも足を運ばない人がいるのだから、ある程度、そういう人がいるのも仕方がない。

 だが、加わろうにも、身体的、精神的に関わることができない人たちもいよう。そういう人たちには、障害となる諸条件をできるだけ取り除いて、参画するチャンスをつくるようにする。いや、政治課題だけではない。暮らしに関わるいろいろな障害を抱えて動きが着かない人は数多いる。そういう人たちが、何らかのサポートを得て、社会活動に参加できるようサポート体制を整えていくことも、「公助」あるいは「共助」としてすすめていけるようにする。そういう社会をつくろうという「運動」を、社会運動として起こしてもらいたいと思う。

 そのような、生活や社会活動の隅々からの取り組みが始まることによって、政治家への不信感や諦めを超えて、私たちの暮らしに必要な「かんけい」を作り上げていく。そういう期待をもてるように、一歩を踏み出してほしい。それこそが、安部=菅政権ばかりでなく、香港やウィグル自治区や台湾に対する中国政府の圧政的姿勢を批判し、何を護るために何を為すべきかを、真剣に我がこととして考える一歩が踏み出せる。

 日本の政治体制を「かくあるべし」と想定して、私たちにお説教する政治家は、もういらない。主権者の要求を聞き出して実現しようという政治も、いらない。共産党への不信感は、自民党の安部=菅政治への不信感と同じことだと私は考えている。つまり彼らは、自分たちのイメージに(日本の政治を)もっていきたくて、いろいろと手を尽くしている。耳に心地より響きは、いずれ地獄への道と同じだったと気づく。「主権者はお客様」「お客様は神様」という政治手法は、民主主義政体の最低のやり口。もう古いのだ。そういう時代を超えて次の民主主義社会をつくるには、私たちが主体として参画する運動する民主主義をつくることしかない。

 世界に蔓延っている専制的な政治センス、権力を振り回して秩序を維持し、餌を与えるように要求をお膳立てする政治センスは、無用である。私たち自身が主体であることを培える民主化運動を、社会運動としてはじめようではないか。

2021年11月23日火曜日

届き物

  熟した甘柿とサツマイモが届けられた。カミサンの兄からの贈り物。85歳を過ぎて兄は米作りをやめた。その田んぼ跡に杉ばかりを植えても風情が無いと思ったのか、サツマイモを植えたら、大量に収穫できた。そのお裾分けというわけ。甘柿は家の裏庭に生っているのが目について、穫ってくれた。いずれも段ボール箱にいっぱい。むろんカミサンは喜んで、電話で話している。

 カミサンは4人姉兄妹の末っ子。一人だけ大学まで行かせてもらった。他の兄姉は四国の山の村に居を構えて農業と林業、その他の仕事について、いずれも80代の人生を送っている。一番上の姉が元気であった頃は、蕨や薇や山葵が毎年届けられた。私が定年後、蕎麦打ちを覚えて打っていると知ってから、蕎麦が毎年のように送られてきた。蕎麦は収穫が大変だからとカミサンは遠い昔を見るように話していた。十五年近くも続いたが、2年前に脳梗塞に襲われて、農作業から手を引いた。

 もう一人の、一番歳の近い姉とは、姉兄の様子や縁者の消息を聞かせてもらって、一番気の置けない姉妹。餅米を送ってくれたり、自宅で集落の仲間とつくる地元料理のあれこれを詰め合わせて正月には届けてくれたりした。その姉も、ご亭主が入院したりすることがあり、気鬱な日々を送っているのか、やりとりが少しばかりちぐはぐするようになった。

 もちろん親の佇まいに変化があっても、わりと近くに暮らす甥っ子や姪っ子と通信がとれるから、姉兄の様子を聞くのに不都合はないが、コロナ禍とあって直に会うことができない。皆同じように歳をとることが、こういう行き来の変化をもたらすものかと、改めて気づいてため息をついている。

 熟し切った甘柿は、皮を剝いて食べるということができない。柿の頂点部分の、頭の蓋を取る用意丸く切り取り、匙を入れてクリームのように熟した実を掬いとって口に運ぶ。これはなかなか上手い手だ。柿の皮はそれなりにしっかりと固さを保っている。中の実は熟してグズグズになっているから、スプーンにうまくのる。朝食のデザートに最適。だがこれが、ひと月分ほどもある。

 米作りに力を尽くしてきた兄の、百姓仕事に残る思いは土を介するサツマイモにこもるが、芋掘りの大変さがどれほどのものか、見当もつかない。85歳を過ぎた体には、やはり過酷なのではなかろうか。

 元気でいること、安らかに過ごすことのなかに、自然を使って生きてきた生業が、やはり体という自然を使っていたという事実のあったことを、動態的に感じ取って生産物を頂戴しているのだと、ふかくふかく思う。それが姉兄妹の関係そのものなのだと、思い起こしている。

2021年11月22日月曜日

低血糖?

 昨日、散歩を兼ねて買い物に出た。カミサンと一緒に行き、私は荷物の運び屋。途中、植物の色合いの変わり具合や蜜柑や柿の実り、サザンカの花などを観ながら往復1万歩ほどを歩く。ところが往きの途次、ふ~っと肚の力が抜けて行くような気分に襲われる。(あっ、これって、低血糖だ)と思った。

 いつであったか、もう十五年以上前になるが、同年齢の友人たちと御岳山に行ったとき、御岳神社に上る階段の手前で、一人がしゃがみ込んでしまった。当人は「低血糖だ」という。糖尿病の彼は、ときどきこうした症状が出るらしい。同道していた奥様が飴だったかチョコだったっかを出して食べさせ、しばらく休んで恢復した。その後は、皆さんと一緒に歩いて何の不都合もなかった。

 そうか私にも、糖尿の気が出てきたかと思った。だがカミサンはすぐに昨日の私の食事を思い出し、カロリー不足よと言った。そう言われて気がついた。昨日のお昼は、「こんにゃくバイキング」であった。そして夜7時過ぎに帰宅して、カップラーメンを食べてお酒を飲んで済ませた。カミサンはお昼の後のコーヒーショップでクレープとクリームの大きな盛り合わせを食し、その残りを持ち帰って帰宅後の夕食にしたのであった。朝は、いつものように軽くヨーグルトとサツマイモを頂いたが、それがカロリー不足になっていたとは気がつかなかった。

 買い物先で、甘い栗の和風ケーキを買って口にし、ベンチでひと休みして元気が出てからリュックに買ったものを詰め込んで、歩いて帰った。

 こんなことは初めて。山歩きをしていた頃は、いつもリュックに飴かチョコか、行動食を入れていたが、いまそれは眼中になかった。歳をとると平地の散歩にも、そうした用心が必要だということのようだ。

2021年11月21日日曜日

普段が戻ってきたか

 先週中頃からの、動きを記しておく。

 11/17(水)、昨年までなら山へ行く日だったが、まだムリ。図書館へ期限の来た本を返却しに行く。「返却された本」の棚に、蓮実重彦『伯爵夫人』を見つけ手に取る。何年か前、芥川賞をもらって、蓮見がそれを鼻にもかけなかったという新聞記事を見たことがある。美学専門家の蓮見にとっては、芥川賞というのをただの投げ銭のようにみていたのか。ベンチに座って読む。

 なんだろう、これは。高齢者のエロスの残像を裡側から描き出そうとしたのだろうか。何とも醜悪というか、滑稽な場面が、男の視線で描き出されてくる。そればかりが延々と続く。1時間ほど読んでやめた。美学的なナニカがひょっとすると出てくるのかと思っていたが、そこまで我慢して読むほど、蓮見の美学に思い込みはない。蓮見が芥川賞を鼻にもかけなかったというのは、選好者の(元東大学長という)権威主義を笑ったのだろうか。

 新規の図書を何冊か借りて図書館を出た。足を伸ばしてco-opへ買い物に行く。お昼の食材を買い求め、ぶらぶらと帰途につく。これで1万歩ほど歩くことになったか。それだけ歩くと、なんとなく一日のお勤めを果たしたような気になる。午後をボーッとして過ごす。

 11/18(木)、8時に家を出て鍼灸に向かう。10時前にクリニックを出て北浦和駅へ出て、京浜東北線で新橋に向かう。新橋の旧友が先月入院手術を受け、退院したけれども声が出せない。電話をしても奥様を介して、通訳をするように会話をしていた。でも店番には出ていると、別の友人から聞いたので、訪ねたわけだ。まだ来ていなかった。奥様と姪御さんが店番をしていて、様子を話してくれる。月末の27日のseminarには顔を出すというから、そこそこ元気だとみてとる。

 新橋から有楽町まで歩いて、やはり旧知の友人Tの個展を観に行く。退職して油絵を学び、ここ15年ほど個展を開いている。毎月1点描いて、12点飾るのが通例であったが、去年はコロナ禍もあって中止、今年を最後にするという。もう描かないのかと聞くと、そうではない。描くのはそれほどでもないが、個展を開くというのは、体力がいるというのだ。そんなものか。80歳を汐に、絵を通した世間との付き合いを切り上げるってワケだ。絵は、色の使い方が俄然明るくなった。彼の描く風景に、だんだん距離を置いた気持ちがこもるようになってきた。遠景にそっと思いを寄せる描き手の心持ちが浮かび上がって伝わってくるように感じる。それが明るくなったということは、ある種の「達観の境地」に到達したということか。結構なことだ。

 この日も1万5千歩を超えた。

 11/19(金)、カミサンをトラスト地に運び、車をおいて見沼自然公園へ散歩に出る。シロハラが飛ぶ。メジロやシジュウカラが木の実をついばんでいる。コゲラが虫を探しているのであろうか、木の幹をコツコツコツと叩いている。オオハクチョウが5羽、自然公園の池に浮かんでいる。2羽が大人、3羽がグレーがかった幼鳥。ご一家さまであろう。今秋の初見。1時間ほど歩いて車に戻り帰宅する。

 明日、前橋まで行く準備をいくつかする。ほぼ1万歩歩く。

 11/20(土)、早朝、前橋へ向かう。高速に乗ってから、今日が土曜日であることに気づいた。外環道もそうだが、関越道が渋滞している。ふだん土日には外出しない。若い人たちに道を譲るとカッコつけて話すが、渋滞で苛々するのがいやなのだ。ところが半年以上山へ行かなくなり、車にも遠距離乗らなくなっていたから、土日の混雑を忘れていた。考えていたより40分ほど遅れて合流地点に着いた。

 関西から来た知人に逢って、午後までの空いた時間に富岡製糸場にでも行こうかということになった。家のカミサンも同道しているから、私はもっぱら運転手に専念できる。

 富岡製糸場は、私も初めての訪問。世界遺産になったとかで、ずいぶんと力を入れて整備が進んでいる。日本初の近代工場とあって、開設に力を貸したフランス人の「功績」が浮かび上がる。工女の労働時間、休日や健康、寄宿に気遣う施設設備などが、建設当初の姿を(年々移り変わる者も含めて)残しておこうと、手入れをしている。フランス人が去ってからの労働時間の加重さなどは、「野麦峠」を思い起こさせた。絹の生産が1970年ころまで主力の一端であったというのは、日本の高度経済成長が軽工業から重工業へと移り変わっていく最後の花火のように思えた。また、富岡製糸場の最後の資本の担い手が片倉工業と知って、さいまた市大宮区の片倉跡地の再開発を思い起こして感慨深かった。

 知人の付き添ってきた息子の「面接」が終わるまで2時間以上もあるとわかって、お昼を食べることにした。富岡製糸場の近くにある「こんにゃくパーク」へ行くことにした。そういう「名所」を調べるのは、若い人はスマホでさかさかとやる。もちろん私もカミサンも初めてのこと。

 入口で長い列に並ぶ。代表者が人数登録をして、チケットをもらう。こんにゃくバイキングの無料券。列の先には、種々のこんにゃく料理が並び、それをトレイに載せてテーブルに座って、頂戴する。もちろん、バイキングだからお腹いっぱい頂いてもかまわない。それが無料なのだ。それがまた、おいしい。デザートも「こんにゃくゼリー」が用意され、それも何種もあって、飽きさせない。お昼がこれでじゃあ悪い。

「無料でいいのかしら」とカミサンは驚いている。むろん、テーブルから出口へ向かう場所には、こんにゃくを使った品々がこれでもかとばかり積み上げられ、目を誘う。安いことはいうまでもない。土産にと知人もカミサンも買い込み、もらった手提げ袋が破れそうになるほどになっていた。「パーク」と名付けるだけあって、子ども連れも若い人たちも、わんさと押し寄せていた。

 時間を見計らい、移動中に息子が口にする食べ物も少し手に入れて、待ち合わせ場所へ行く。「面接」が終わった息子は「いや、面接官が優しかったよ」と肩の力が抜けたように母親と話す。ああ、こういう話しを私は息子や娘としなかったなあと振り返る。高崎駅まで送りがてら、車の中での会話を耳にする。ここが受かったら、共通一次試験も受けて、一般受験者がどれほどの実力で合格してくるのか測ってみたいなどと軽口を叩くのも、いい兆候なのだろうか。

 その途次に、滑り止めの「合格」が知らされた。良かったねえ(浪人しなくて)と言祝ぐ。母子の安堵が言葉の端々に広がる。持ち本命(のこちら)がダメなら、自宅から通えるところになる。第二本命の受験が明日に控えているから、急ぎ帰るのだが、そこへも弾みがついた。

 高崎駅で降ろし、関越に乗って帰ってきた。久しぶりの夜の運転。行楽帰りの車の渋滞は、終わりかけのよう。車はいっぱい走っているが、時速60~100kmで止まることなく進む。家には7時半前に着いた。

 山を除けば、ふだんの日々が戻ってきたようであった。

2021年11月19日金曜日

ハビトゥス

 いま手元にピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』と『ディスタンクシオンⅡ』の2冊がある。「社会的判断力批判」とサブタイトルのついたこの本、じつはカミサンが図書館に予約して借り出したもの。えっ、どうして? と私は思った。ふだん「俗に塗れている」と自称しているカミサンが、どうしてこんな堅い本を読むんだ?

 聞くとブルデューというフランスの知識人が、自らの足下を掘り崩すような研究活動をした金字塔のような本だ、ぜひ読めと友人に奨められたという。

 知ってる?

 そりゃあ、知ってるさ。どこかに書き置いたことがあったはず。

 ブログをチェックしてみると、6年前の12月にブルデューの名が出てくる記事が3回あった。

「西欧を日本に橋渡しする気質」(12/20)で加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』(講談社選書メティエ、2015年)の読後感を記している。

「闘う人生ということ」(12/23)で映画「ヴィオレット」を見て、フランスの文学世界にデビューする出自による差異をボーボワールと対照させているのを見て、ブルデューに触れている。

 「「難民」はどう抵抗するか」(12/29)で「ハビトゥス」に触れている。

 カミサンは2冊の『ディスタンクシオン』の目次を眺めて、「これは歯がたたん」と投げ出した。その傍らに、岸政彦『100分de名著 ブルデュー・ディスタンクシオン 「私」の根拠を開示する』(NHK出版、2020年)がある。その友人が貸してくれたという。これが面白かった。岸政彦という方がどういう方か知らなかったが、私の息子の少し年上という感じの方。社会学者であり、文学にも手を出していくつか小説を書いているそうだ。

 何が面白かったのか。ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んだ衝撃とそれから受けた影響を「私」の裡側に触れて記しながら、ブルデューの提起した「ハビトゥス」や「趣味」がどのように社会構造に規定されてあるか、それがどのように「文化資本」として社会的に作用しているか、それをになっている主体である人が、どのようにそれを自らの選好として認知して、階級的な差異まで内面化しているかを述べている。それが社会秩序の保持に作用し、人々の主体幻想に力を添えているかと、「人生の社会学」に言及する。

 それと同時に、社会学が「現状を保持する学問」といわれていることにも目を配り、「ハビトゥス」が「他者の合理性を見る目」に影響して、多様な人がいるという大雑把な多様性の受容ではなく、人それぞれの合理性を理解することが安定的な社会関係を築く第一歩と確信していることを示している。

 まさにそう、と膝を打った。社会の現状に対して奮う力の無い私たちが、にもかかわらず片隅で社会的な「ハビトゥス」を培っていくために働いていることは、実は日々の一つひとつの挙措動作に拠るものだと考えている。それは、文字通り砂粒の一つひとつが、社会の主体として立ち現れる姿だと思わせた。

2021年11月18日木曜日

関心の傾き

 このところ、カミサンのお出かけが多くなった。鳥と植物観察のほかに、映画や歌舞伎が加わったからだ。これまでも月に1回は映画などに足を運んではいた。だが、1年ほど前から古い気心知れた友人が定年退職後の延長仕事を辞めて、映画や演劇、歌舞伎へのお誘いがあるようになった。つい先頃も「(月に)4回はムリよ」と電話で話している声を聞いた。私はその友人の顔を見たことがあるだけで、言葉を交わしたことはないが、会うと話が絶えないらしい。先日も帰ってきて、幕間におしゃべりしていたら、係員が来て「会話はお控え下さい」という紙の札を見せて「叱られた」と話していた。

 そのおしゃべりの一端で面白いことを聞いて、気にとまった。

《「町山智浩のアメリカの今を知るTV」に出てくる女優の藤谷文子って、何もしてないんだから出す必要がない》

 とその友人が言ったというのだ。へえ、面白い人だ。この人は、何を見聞きしているんだろう。

 もし彼女がいなければ、町山智浩のおしゃべりが止まってしまうと、まず私は思った。町山がTV視聴者向けに「アメリカの今」を、建国以来の径庭を交えて訪ね歩き、藤谷に話すように画像を交えてしゃべる。藤谷は、たしかに「ふんふん」と聞き耳を立て、「へえ、そう」と初めて聞いたように相槌を打ち、ときどき「そう言えば……」と身辺にあったことを付け加える。それが話の回天車のきっかけとなって町山智浩の「アメリカの今」が繰り出されてくる。対話って、そういうものだとも思う。

 では「藤谷はいらない」という友人は、何を見聞きしているのだろうか。町山智浩のまさしく「アメリカの今」のテーマをしっかりと捉え、まさしく現在のアメリカの情勢分析をするように受けとっているのであろう。彼女は厳しい、彼女のセンスは際立っていると、カミサンはいう。「俗に染まっている」と自らを笑うカミサンと違い、先鋭的な演劇を見つけてはそれを観に行く。ドキュメンタリー・タッチの映画にアンテナを立て、カミサンに声をかけている。つまり彼女は、「現在の世界の問題」に直に関心を向けているのだ。他のことに気を向けるほど「遊び」がないと、傍観的な人はいうかもしれないが、それはたぶん、「世界の問題」に集中していて、他の夾雑物が目に入らない。

 ではお前はどうなんだと別の「わたし」が問う。私はもっぱら、世界の傍観的な位置に立っている。何をするにも、手立てを持たない。ただただ、力のあるヒトが動かしている世界をみて、そうかなあとか、そうじゃないだろ、とか考えているに過ぎない。だから、夾雑物が目に入る。それどころか、ひょっとするとその夾雑物が、案外世界の駆動力の一端になっているんじゃないかとさえ、世界をみるようになっている。だから、「力のあるヒトが動かしている世界」というのも、実はその周りにうろちょろしている「夾雑物」があってこそ動いているんじゃないかと思わないでもないのだ。

 藤谷の相槌があってこそ町山智浩の「おしゃべり」の繰り出しがあるという方がいいかもしれない。まあ、傍観者的な位置にいるからこそ、そう見えるような気がする。関心の傾きは、次元を狭くしてしまうけれども、その分、先鋭な切っ先を世界に突き立てる力を内包する。その鋭い切っ先を、俗に染まったと自称するカミサンが肌で感じていると思うと、世界って面白いとあらためて感じているのである。

2021年11月17日水曜日

山の「要介護」から「要支援」へ

  おや? 雨になるのかなと心配させたお天気も、雲がとれて日差しが入るようになった昨日、田島ヶ原のサクラソウ自生地へ出かけた。カミサンが植物観察の案内をするというので、車で送り、私は秋が瀬公園の北の端まで往復を散歩した。

 久しぶりに山の会の方にも出逢った。4月に私が山で事故を起こしたとき、傍らにいて救助を要請し、入院するまで付き添ってくれた方。私が元気そうなのを見て、「あさって山の会の人たちと秩父へ行くことになっているけど、来ませんか」とのお誘い。「お弁当ももつから、手ぶらで来て」と付け加える。

 あははは。そう言われて気づいた。そうか、山にも介護度があったか、と。

 となると、4月の遭難時は、「介護度4」。救助してもらわねばならない状態にあった。

 入院して家に戻り、リハビリに通い始めるときは、「介護度3」。1時間ほど歩いてクリニックへ行くのに、カミサンがついてきた。じっさい、着くまでに何度か休んだ。肩が張り、腕が重くなって歩けなくなったのだった。

 7月くらいかな、かなり恢復し、日光白根山の中腹を4時間くらい歩いてみた。途中やはり肩が凝り、腕が重くなって休むことになったが、それでも4時間、何とか歩ききった。「介護度2」ってところかな。

 そうやって考えて見ると、今は「介護度1」の段階か。平地を歩く分には、5時間ほど歩ける。腕の付け根が張ることはあるが、リュックを持ち替えるなどすれば、何とか凌げるようになった。旅に出ても、荷を持つのに難儀することもなくなった。

 山の会に方にそう告げると、傍らにいたカミサンが「要支援よ」と一つ階梯の次元を変えた。そう言えばそうだ。ことに一昨日のリハビリから後、腕の付け根が楽になっている。今少しつかえる感触が残っているし、思うように後ろへ腕が回らない不都合はあるが、ま、日常生活には不便しない。後は歳のせいですよといえば、みんなそうだと思える程度になった。

 ほぼ恢復か。リハビリの回数も、減らしていいかもしれない。そんなことを思いながら、1時間50分の散歩を終えた。9kmの歩行、1万2千歩。汗もかかず、寒くもない。

2021年11月16日火曜日

「未完成」もいい味わい

 2年前、友人から古希祝いでもらった蜜柑の苗が、2年目の今年、実をつけた。ところが、なかなか蜜柑色にならない。青いまんま。その友人に話したら、「蜜柑成」だねと笑われた。その後、庭の隅でカミサンが見つけたのが2年前の蜜柑の苗についていた説明書き。「寒くなったら、室内に入れて下さい」と書いてあった。なんと、鉢植えのまんまで育てろってものだったのを、庭に植えてしまったのだ。十月の末、他の家の蜜柑は見事に色づいているのに、我が家のそれは、未だ青い。なんだか「私への皮肉みたい」と友人に伝えたら、笑われた次第。それが色づき始めた。みるみる蜜柑色になったが、未だ皮は固いままのように見えた。その皮に薄い茶色のかさぶたのようなものが付き始め、「寒さに弱い…早生みかん」とあったのを思いだした。

 昨日朝、穫り入れた。全部で四つあった。友人に一つ渡すことにして、友人の娘にも一つ持っていくことにする。電話をしたら、「いるよ」と元気そうな声。ほぼ毎月郵便でやりとりしているが、8月には「此岸にいるのが不思議」というくらい暑さに負けそうな葉書であった。それが、9月には6000字を超える手紙となり、10月には9000字にもなる長文の返信が来た。その分量を見ながら、元気になったなあと喜んでいた。顔を合わせるのは昨年の7月以来か?

 昔尋ねたことのある彼の家は、高層ビルに囲まれてすっかり場所がわからなくなっていた。車のnaviは「目的地に着きました。案内を終了します」といって沈黙してしまった。電話をすると、彼が通りに出てきて、細い路地に車を入れるように案内してくれた。路地は昔のまんまという風情。

 コーヒーを飲みながら、少し話をする。何と彼は、「小説」を書き上げ、冊子にし、すでに配布しようとしている。A4版1頁3段組で296頁にもなる。400字詰め原稿用紙にすると1600枚になったという。畢生の大作とご本人も《自称「小説」謹呈のご挨拶》のなかで述べているが、この「畢生」は「生涯にたった一編でもいい「小説」というものを書いてみたい」というほどの意味合いで、作者本人に、全く気負いはない。

《小生謂う所の「小説」は(テーマを持ち時代相に切り込むという)近代的なものとは無縁の、まあいずれ自分の思いつきに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく》と、ひたすら遠慮がちに卑下なさっている。しかしこの方、かつて、ドキュメンタリータッチのファンタジー作品で埼玉文芸賞を受賞するという実績を持っている。「声に出して読む小説」と賞賛の声を得たこともあって、その筆のタッチは音韻を踏まえて踊るようであり、(声に出して)読むことがすでにリズムやメロディを胸中に醸し出し、その言葉の踊り出しに酔っていただきたいと(言ってはいないが)謂わんばかりである。

 舞台は江戸、謂わば「戯作」とタイトルに加えるほど酔狂を極める「語り物」というわけである。いつものように寝ころんで読み始めようとしたが、重くて腕がすぐに痛くなり、机に置き、椅子にきっちり座って読むしか仕方がない。文字がびっしり。しかも漢字が軒を連ね、ふりがなをつけてあるから、いっそう頁の面積を埋めて重々しい。すぐに読み草臥れてしまって、ま、ゆっくり読もうと取り組みを改めることになった。

 そういうわけで、この「小説」の読後感は、ひと月もふた月も後になろうと思う。

 帰宅して、苗を下さった友人にも差し上げたので、我が家も蜜柑を食してみようと手に取った。実は、その味が恐ろしく、かの友人にも「もし酸っぱいようなら、レモンのようにつかってね」と口にした。皮を剝く。薄くしっかりとしている。何だか酸っぱそうな気配がしていたが、一袋口に入れる。う~ん、そこそこの甘さ。酸っぱくはない。まず蜜柑を食べているという感触がうれしかった。古希祝いの蜜柑を、数え傘寿の私とカミサンがいただいている。この調子なら、来年以降も、一つ二つは口に入るはず。そう言えば小学校の担任が我が母親の気持ちを静めようと「大器晩成ですから」と口にしたことを思い出した。文字通り「蜜柑性/未完成」の「わたし」にふさわしい。完結編もなしで彼岸に渡るというのも、友人のくれた「幸せな予言」に聞こえる。

2021年11月15日月曜日

尊王論者も姿を消したか

「小室真子さま、圭さんとNYへ」と報道されている。その少し前に、「圭さん、母親の代理で元婚約者に400万円を支払って解決」と、この4年間のもめ事にけりがついたと週刊誌が報道している。

 このモンダイについて私の見解は、すでに《人と「情報」》(9/28)で記しているので繰り返さないが、上記報道をみて、普段は天皇制が日本の根幹のようなことを主張している人たちも動いた形跡がない。なんだ彼らも、ただの「天皇制利用主義」者じゃないかと思った。昔なら、尊皇の思いを持っている篤志家が、4年前の早い段階で内密に圭さんの母親またはその元婚約者に400万円を渡してやって、さほど大事にしないで結婚できるように計らうってことをやっていたと思う。

 私は別に尊皇思想ってわけじゃなく、「主権者である国民」の一人として「象徴天皇」を担ぐ一万三千万分の一くらいの呵責を(この皇女に対して)感じるから、1億5千万円の支度金を持たせて「ご苦労さんでした」と送り出すことくらいしてやれよと話していたわけだ。それが「税金から(母親の借金を)支払うのか」などとつまらぬことをいう輩が、メディアも含めて、ゴタゴタに加担したのだと思っていた。

  尊皇思想の人の中には、民間のつまらぬ男と結婚することが許せないと思う方も(自分は民間にいるくせに)いるかもしれない。宮内庁に巣くう皇室絶対主義者はいざ知らず、今のご時世、結婚相手の民間人にいささかの悶着があったからといって、それが「皇族の品位」を汚すものという大時代的な「皇族純血論」を振り回すのは、ナイーブすぎるといわねばなるまい。

 それに、数多いるであろう尊皇主義の大金持ちたちは篤志家になる心持ちもないのか。このモンダイを内々に治めるほどの知恵も持ち合わせていないのか。綾瀬はるかという女優がコロナウィルスに感染したと報じられたとき、すぐに入院できたなんて「上級国民待遇じゃないか」と声がちょっと上がったけれども、たちまち消し止められ、その後そうした報道は一切聞かれなくなった。だれがどうしたか知らないが、見事じゃないか。そうやって、綾瀬はるかというセレブが護られていることが誰かの利得になるかどうかではなく、そういうつまらぬ「噂」に晒されることから彼女を護るのは、じつは、そういうつまらぬ噂(が蔓延すること)から社会を護ることにもなっていると私は思う。

 尊皇主義者が、じつはそういう世間の流言飛語から「皇族の品位」を護る力を振るわないで、どうして「国柄」とか「ネイションシップ」とか「民度」という社会の品位を護ることを、語れようか。

 バカだな、お前、国会議員がどんなことでどう振る舞っているか見てみろよ。奴らに品位があると思うかい? そいつらに「社会の品位」を護れっていうのは、猫に鰹節の番をさせるようなもんだ。

 そうか、逆に言うと、尊皇論者もすっかり大衆化しちゃって、「皇族の品位」なんて振る舞いを忘れている。護ってやるってコトも、宮内庁がやることと役割分担的に考えているのか。つまり、篤志家が「皇族の品位を護る」ために400万円をそっと支払ってやるってことさえ、だれも考えてやれないほど、この世は四民平等となり、金銭がすべてになっているってことか。

 う~ん、それも、つまんない世の中だなあ。

2021年11月14日日曜日

前向きに世界を見ること

  旅の行き帰りに、マルクス・ガブリエル『つながりすぎた世界の先に』(PHP新書、2021年)を読んだ。NHK特集などでこの哲学者のやりとりを見聞きして、ヘーゲル哲学を中心にドイツ観念論哲学を斬新な目で見て取る感触を感じて読み進めたことがあった。

 この本は、コロナウィルスに戦々恐々と対応してきている世界を、どう見ているか、この後どうしていく必要があるかを、日本のコーディネータ二人に誘われて、リモートでインタビューに応えたものを一冊にまとめた恰好の啓蒙書である。勿論学問的に啓蒙しようというものではなく、ガブリエル自身が、今世界で起こっていることを哲学しているプロセスが、言葉になって繰り出されている。軽々と読み進めた。

 軽く読めたのには、ワケがある。コロナが象徴的に意味するもの、米中の対立という構図をどう読み取るか、そこにおける日本(漢字をいう中国との共通項と隣国という立ち位置)の役割、ドイツとの第二次大戦後の世界における共通性、EUの対中国の立ち位置、トランプへの(わりと肯定的な)評価、メルケルへの賛辞、資本主義市場に対する具体的な向き合い方を繰り出して倫理資本主義を説き、「(暮らしの)質への転換」など、話が具体的である。

 ここ30年ほどの近代世界が推し進めてきたグローバリズムが、人の営みとして不適合を起こしていることを、コロナウィルスが明らかに示している、と根源的に提起する。もっとも根柢的と思われたのは、「無知の知」の強調。自分が知らないことを知っているという問いを発する起点からはじめ、応えを手にするときにやはり、知らない世界が広がっていることに気づくという、ある種応答の循環を思わせるような地平を踏まえている。そこが哲学の真骨頂よといわんばかりだ。固定的に物事を見るな、そう見て取る瞬間に、差別が生まれ、思念の中の序列が固定化されるといいたいようであった。

 実は、昨年のコロナウィルス禍の蔓延以来私自身、これって自然からの啓示ではないかと謂ってきたのと同じ感懐を、この哲学者が持っていることがわかり、ホッとしながら読んできた。彼は「日本人にはわかりやすいかもしれないが」と断って、こうした「自然が主体」となった世界の事象と位置づけている。一神教ではなかなか信じられないことだが、「神道や仏教ではごく普通のこととして受け容れられている」ことに注目している。それを、すぐに日本的と読んでいいかどうかはわからないが、私の持つ自然観とうまくマッチする。

 この本の感懐を考えるともなく思い巡らしながらTVをみていると、高齢化が進み限界集落のトップバッターと思われていた群馬県南牧村で行われた「TVシンポジウム」が放映されていた。高齢化率66.2%という全国一の村を、この先どうやったらいいかと、村長や村へ足を運ぶ巡回診療医や東大の名誉教授がシンポジスト。それに加えて、もうこれ以上やってけないんじゃないのと考えている72歳の村民、東京や埼玉県からやってきて定住しようと頑張っている若者二人を交え、ここ数年、人口移動がプラスになっていることをあかしながら、どう未来図を描くことができるかと言葉を交わす。他の件の試みなども紹介しながら話が進む。そのとき、「日本の試みは世界モデルですから」と奈良県を取材した番組制作者の言葉が重なる。ここでもまた、現に進行する高齢化と人口減少を見つめる目を、思い込みに拠らないで、具体的に現場を見て話を交わして、一つひとつ具体的に考えていく過程が、画面の裏側で行われていることが示されている。

 哲学的に考えるというのは、固定観念をひとまず取り払って、一つひとつ具体的に言葉を紡ぎ現実の振る舞いに還元して、実行に移していくことだ。言葉にすると、それはそうだと簡単に了解できることだが、自分の観念の固定観念となると、なかなか容易に身から剥がせない。それをたぶんマルクス・ガブリエルは哲学者を入れて言葉を交わしなさいと力説しているのだと思う。

 TVの番組を見ていると、それぞれ皆さんが哲学していると思う。「生き方を変える」と東大の名誉教授は口にするが、コロナウィルスに脅えて人口密集地で日々を送ることに夢中になっている若者にこそ、伝えたい言葉だと思った。量じゃないよ、質だよ。娯楽じゃないよ、静謐だよ。自分じゃないよ、環境だよ。そうした所に身を置き、具体的な振る舞いに目をやることが、現代社会のもたらす鬱積から身を解き放つ最初の一歩だと、気づく。

 もうこちとらは、どこかに身を移して暮らすような身分ではないから、口先だけで喋喋しているが、若い人たちは2,3年限界集落暮らしをしてから都会に戻ってきてもいいんじゃないか。そういうことに政府が補助金を出して、人生創生計画を起ち上げてもいいんじゃないか。そんな気がした。

2021年11月13日土曜日

遠征

 何年ぶりだろうか、関西へ足を運んできた。半世紀ほどのお付き合いのあった友人が昨年なくなり、その一周忌と納骨に呼ばれた。亡くなった折、神戸大学へ「献体」をした。葬儀はお骨が戻ってからということだったので、幸いにも出席できた。もし昨年であったら、大阪も東京も大騒ぎしていたから、出席できなかったに違いない。

 奥様と親族4人、故人の知人が私を入れて3人というひっそりとした儀式。場所も墓園。「**家之墓」と彫り込まれたお墓の前に式台を置き、納骨を済ませてから、お坊さんが読経する。わずか30分ほどで儀式は終わり、移動して会食となった。

 今年で数えの卒寿になる方だったから、東京の大学へ進んで以来、家族とは別れるように暮らしてきた人であった。私も踏み込んで彼の出自由来を聞こうとしなかったから、知らなかったが、姉と弟がいたはずだったけれども、顔を見せていない。訊くと、弟さんとは何やら険悪な関係があり、弁護士を通じて話をしているそうだ。親族というのは奥様の妹さんとその娘家族。福岡からワゴン車で駆けつけて、子どももなく独りになった奥様の世話をしている。妹さんは別として、その子ども家族は故人である伯父に会ったこともないと聞いて、ご挨拶代わりに私が48年に亘って故人を尊敬してきた要所をいくつかのエピソードでお話しした。と、姪御さんが「図書館のお手伝いをしているのですが、伯父の入れ込んでいたことも知らず、二日前、手に取って面白そうと思ったのが世阿弥や観阿弥の能に関する本だった」と偶然の出合いを言祝ぐように話をする。また私が故人から紹介されたフランスの哲学者の名前を聞かせてくれといって、ミシェル・フーコーとルネ・ジラールの名前を書き取っていた。

 そうした故人に関することは淡々とお話しできたのに、葬儀の「ご案内」を受けたことへの感謝と気を落とされないようにと奥様に言葉を添えようとした途端に、涙が出そうになってちょっと慌てた。

 葬儀の間は青空が見えて、日差しが熱いと感じるほどであったのに、会食へ移る頃から雨が落ち始めた。「主人のうれし涙ですね」と奥様は静かに口になさっていたが、寄り添ってから63年の月日がこみ上げてきていたのかもしれない。

 葬儀会食の後私は、堺に住む弟の家へ行った。去年行われた母の七回忌にコロナ禍で出席が叶わなかったから、お線香を上げようと足を運んだわけだが、やはりここ5年、顔を合わすことがなかった弟夫婦と言葉を交わすことが楽しみであった。夕食を頂戴しながら何時間おしゃべりしただろうか。焼酎のお湯割りを弟がつくってくれ、6杯までは覚えているが、何杯飲んだか覚えていない。朝方目を覚まして布団の中でうとうとと心地よくぼーっと過ごして、7時過ぎに起きた。雨の音がしていたと思ったが、朝食を終える頃には日差しが出てきた。金剛寺というお寺に行こうという。なんでも南朝の行在所にもなったという。そうか、高野山に近く南朝の熊野もすぐ近くなんだと思った。

 金剛寺は面白かった。わずか車で30分ほど走る。金剛山の山懐に入った感触。女人高野と聞く。女人禁制の高野山を取り囲むように女人高野が何カ所かもうおけられていて、その一つに南朝の天皇が御座所を定めていたというのだ。真言宗御室派の大本山と肩書きが付いている。こんなに大きなお寺とは思わなかったほど、広い敷地が、何区画かに分けられている。北朝のとらわれた天皇の御座所屋敷、南朝天皇の御座所屋敷と分けられてあり、国宝や重要文化財の大日如来像や不動明王や快慶の弟子が制作したという阿形像吽形像が楼門の両脇を固めている。一面のスギゴケが覆う庭園は、修復中の大玄関を囲う足場と多いが視界の邪魔ではあったが、色づき始めているモミジと相まってしっとりとした落ち着きを醸し出す。御座所の部屋は広く風通しが良い。寒かったろうなと思う。

 絵を描いている十人ほどのグループがいた。その視線の先は、御所の白壁とその向こうの庭に広がるモミジの色合いとが、なるほど目をとめるに値する景観を保っている。金堂の大日如来を見ているとちょうど読経が始まり、バリトンの響きのいい声がときどき打ち鳴らす鉦の音を交えてお堂全体に響き渡る。声が身に響き、染み渡って清められる感触を、南朝の天皇さんも味わっていただろうかと、700年ほど前に思いが飛ぶ。

 寺庭をゆっくり見回っていると雨が落ちてきた。駐車場の車に入る頃にははっきりとした雨粒が降りかかり、なんだか切り上げ時を知らせる雨だったなあと言葉を交わして笑った。

 12時半頃、軽いお昼をいただき、メトロの駅まで送ってもらって弟夫婦とは別れた。新大阪駅まで一本。混んでおらず、大阪のコロナの感染も気にならなかった。新幹線も空いていて、乗り込んで30分ほどは眠り込んでしまったが、そのあと本を読んで過ごした。富士山が8合目から上に雪をつけて、曇り空を背景に静かに屹立していた。上野東京ラインが混んではいたが、25分の電車も肩がぶつかるほどではなく、武蔵野線も6時頃のラッシュであったのに、歩くのに不都合を感じるほどではなかった。

 久々の面白い遠征だった。

2021年11月11日木曜日

不道徳だから倫理的であり得る

 伊藤亜沙『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020年)は面白い。人の五感の「触覚」がコミュニケーションのメディアとしてどのような働きをしているか、「触覚」を通じて人は何を受けとり、何を送り届けているか。それらを、目の見えない人のマラソンをリードする「紐」を通じて、分け入る。体育というのは、と発題して、「人の体に失礼でないように接する作法を学ぶ」と見極める。

 そうそう、それこそが「心の作法」だよと、私はうれしくなった。でも、「体育」が「心の作法」を教えるってのか? そう思うに違いない。「触覚」って「さわる」ことか? と思うかもしれない。著者は「ふれる」と「さわる」の違いから分け入り、「さわる」の一方向性にたいして、「ふれる」の双方向性を対置する。「さわる」が、触る対象物をモノとして見ているのに対して、「ふれる」は、ふれる対象からの「応答」を敏感に感知する所を組み込んでいる。

 実はそう単純分けていいのかどうか、読みながらちょっと戸惑う。施術者は「さわる」つもりであるのに、患者は「ふれられている」と受けとっている場合。「対象者」はモノなのだろうかヒトなのだろうか。そういう交通の齟齬は、郵便の誤配のように必ず発生している。実際に、リハビリの施術を受けているときには、先日も記したように、施術者がわたしの体の微妙な反応を指先で感じ取りながら経絡の要所を探り当てて、そこへ鍼を打つことをしている。これは、双方向のコミュニケーションと言えるのだろうか。モノとしてのわたしの体の(生理的な)反応は、わたしの「こころ」なのだろうか。コミュニケーションへの応答と言えるのだろうか。ちょっと違うんじゃないか。

 もう少し微妙な、人と人との間の(かんけいの)想定が必要なのじゃないかと、ちらりと思う。

 ともあれ、伊藤亜沙は、この「さわる」が呼び起こす身体的な反応の危うさを見逃さない。たとえば、リハビリのマッサージのような施術において「ふれる」ことが、性的な意味合いを帯びてしまうことに注目する。介護のときの「ふれる」行為が、性的行為のそれと重なり合ってくるとき、介助者と介助される人との「かんけい」はどうとらえられるのか。これは、じつに危ういが、だからこそと伊藤亜沙はいう。だからこそ、そこに「倫理的」である要素が介在する瞬間が生まれる、と。

 道徳を「普遍的な善」と規定し、倫理を「具体的なある状況においてどう振る舞うか」と規定する伊藤亜沙は、「不道徳だからこそ倫理的でありうる」と論題を提示する。それが面白い。

2021年11月10日水曜日

ふれる

 いまリハビリを終えて帰ってきた。体を傷めてリハビリを始め、半年が過ぎた。週に4回であったのも2回に変更した。もちろん初めの頃に較べて、体は楽になった。なにより肩や腕の痛みを感じないで2時間、4時間と歩けるようになった。

 相変わらずなのは、右肩の動き。腕を後ろへ回そうとすると、肩から先へはいかない。肘を折って、背へ手先を回すと、ちょうど掌の半ばが体についた所で、止まってしまう。同様に肘を折って肩先へ指先をつけようとしても、肩につかない。要するに、肩甲骨と腕の付け根にまつわる筋が硬くなって、動かなくなっている。その筋が耳の後ろを通って首の方へ絡まり、また背骨の少し右側に沿って腰の方へと連なっていて、それも痼(しこ)る。それ以外の部分は、おおよそ恢復したと言って良いであろう。

 未だ続く痼りが事故のせいなのか、それ以前からの頸髄神経の圧迫に拠るものなのかわからないが、4月の事故以降、固着してしまったようである。リハビリは、それを解すためにやっている。

 8月からは鍼灸を月2回取り入れ、マッサージもそれまで同様に行ってきた。一つ感嘆しているのは、鍼を打つとき、鍼灸師の人差し指と中指の指先が筋のナニカを探り、探り当てた所へ鍼を打つ。軽くトントントンと鍼が入り、ピクッときたところで止まる。その位置から指が、ナニカを探りながらずれていき、ほんの1cmほどのところでまた、探り当ててトントントンと鍼を打つ。そのようにして、数十本の鍼を打つのだが、その指先が探り当てるナニカの箇所が、ほぼ間違いなく私の痼る筋の要所を衝いていることに、私は感嘆している。

 いやそれが、実は鍼だけではない。マッサージというリハビリの時も、鍼を打つわけではないが、施療の初めに腕や首の動きをやってみて、とりかかる。やはり指先で要所を探り当てて、押さえたりつまんだりして、解していく。その押さえる所が、ことごとく痼っている所とつながっている。しかも押さえてしばらくすると、痼りがほぐれて、体が軽くなっているように感じるのだ。これって、なんだろうと、いつも思う。

 感嘆しているのは、施療士が探り当てているナニカが、間違いなく痼りの要所であること。彼または彼女の指先は、どうやってそれを探り当てているのであろうか。単に「さわる」というのではない。「ふれる」ことによって、私の体からの反応を感じ取っていると思われる。

 理屈を聞きたいと思って、鍼灸師に「鍼を打つって、体に何が作用してるの?」と訊いたことがある。「刺激を与え、そこへ血流が集中してくることによって動きが良くなることを期待している」と、説明があった。骨や筋がどう体を経巡っているかを熟知した上で、ただ「さわる」だけでわかるのだろうか。それとも、「さわられた」ことへの私の反応を感知する「ふれる」ことによって、探り当てているのであろうか。いつか訊いてみようと思っているが、なぜか微妙な領域にふれる質問のように感じて、未だためらっている。

 患者の体の感じる感触が、施療者の指先とのコミュニケーションによって応答し合っているのだとしたら、それは面白いことだと思いながら、いつもリハビリを受けている。(11/8)

サービス提供の一時中断

 昨日昼、記事を書いてアップしようとしたら、インターネットに接続できない。いろいろ手を尽くしている間に、思い出した。何日か前、接続サービス提供元から「2日間程工事のためサービス提供を中断します」と「お知らせ」チラシが投げ込まれていた。それには日時などが記されていたが、そうと思っただけで、すぐ忘れていた。それが今日だったというわけか。オレっていい加減だなあと改めて思う。

 電話が鳴る。「メールを送ったが、どうですか?」と問い合わせ。返事がないので、何かあったかと思ったようだ。「メールも見られない程のことがあったのか」というから、「いやじつは・・・」と説明する。お互い、歳はとっていても、メールを送って二日目ともなると返信が何のが心配になる。せっかちになっているという時代の速度感覚が身に染みているのと、身に何があっても不思議でない年齢という慮りもある。

 ただ、音信手段が一つでないから、音信不通が放っておかれることはないが、逆に電話やネットがなかったときは、郵便での問い合わせになる。その時間的な悠長さの身体感覚と今のせっかちな身体感覚では、「かんけい」の受け止め方が異なるに違いない。

 時間的な悠長さは「便りのないのはいい便り」という俚諺のように、受け止め方の側の想像力に任される所が多分にあった。その想像力が介在する分だけ、「かんけい」に「遊び」があったとは言えまいか。たとえ死んでしまっても、「遊び」の中で生き延びているというのも、「かんけい」を思いの中に委ねて保っているという意味で、現実と幻想との相互性をともにリアルそのものとして実感できていて、好ましく思う。お互いにそういう関係と思っていれば、何年別れていようと、会った瞬間に不在の間が埋まって、やあ元気でしたかと挨拶を交わすような気がする。

 長い別れの間に、「あなた」が身に備えることになったであろう他国の人や風物がもたらしたであろう事々も、「遊び」に加わって、相手に対する「恐れ/畏れ」として感じるようになる。それが、「あなた」に対するリスペクトとして、取り交わす「かんけい」の各所に滲み出してくる。それとはちょっとニュアンスの異なる「思い」が「あなた」から「わたし」に向けて差し向けられるであろうが、それもまた、「わたし」から発せられるリスペクトの気風に見合う敬意を含み持つというのが、私の体験的な実感である。

 郵便制度もなかったとか、庶民が便りを交わすことなど考えられなかった頃には、旅に出るということは永久の訣れと思って、別れの言葉を交わしたであろう。音信が取り交わされる社会システムが整うほど、「遊び」が保っていた「思いの丈」が消えていき、「わたし」がそう思うことと「あなた」がどう考えているかということが、距離を置かず、照らし合わされることになる。「わたし」が勝手にそう思っているが、「あなた」はそう考えていないかもしれないという齟齬が、「わたし」の思いの中に在処を占められなくなる。SNSが行き渡った社会に育った若者たちが、それに適応しようとしてせっかちになり、「返信」が来ないことに苛立ち、実は自分の「我欲」を相手に差し向けているだけに過ぎないのに、それに応答しないのは(無視したことであって)ケシカランといきりたつ。そんなふうに人間を変えてきていると、ストーカー事件などを耳にすると思ってしまう。(11/9)

                                      *

 いま(11/10、15:30)やっと通じた。カスタマーセンターに電話をして、操作を教えてもらった。モデムとルーターの電源を一度抜いて、もう一度差し込む。それだけで復旧した。たぶん、使い慣れている人は、すぐにそうするのであろう。そういわれてみると、これまでも何度か、そういうことをしてきたことを思い出した。なんともお恥ずかしい。訓練しがいがないのですね。先ずはこれを、アップします。

2021年11月7日日曜日

この夢――何を意味しているのか

 夜中に目が覚める。夢を見ていた。

 1990年代中頃のこと(らしい)。私が職場の人たちをまとめる要職に就いていて、強く主張していたことが、管理職によって拒絶され、ついに引っ込めることになった(らしい)。交渉から戻ってきた同僚が「記録」を見せ、それの最後には「行動と矛盾」と、私に向けた非難の言葉が記されている。この同僚は、20年も後に(長い疎遠のあと)山を一緒に登るようになり、ちょっとしたことから諍いになり、絶縁してしまった、私より一回り以上も年若い人だ。「記録」を読んでどうしようかと考えている所へ、もう一人の同僚が姿を現す。「まいったねえ、どうする?」と声をかける。その瞬間、「すぐに退職するよ、オレ」と言うと彼は「いいかも」と応じた。この「いいかも」さんと出会ったのは1992年。私より5歳くらい若かったが、立ち居振る舞いが絶大な信頼感を醸し、よく一緒に山を歩いていた。その後に大きな職場の構造転換問題があって、私がそのモンダイに関する先鋒を引き受けていたなあと思いだしたから、1990年代の半ば(らしい)と考えたわけだ。

  いや、それだけの夢。考えているうちに目が覚めて、何で今ごろ、あのモンダイを思い浮かべたのだろうと思案している。勿論そのとき私は、退職もしなかったし、転換した構造のもとで開拓的な仕事をしたと思っているし、「いいかも」さんも私と行を共にしたから、(そのモンダイへの対処にも、その後の関わり方にも)わだかまりがあったわけではない。そしてまた、その構造転換がその後(現場に残っていた人から話を聞くと)、なし崩しにされて、今やすっかり構造転換前と同じ職場になってしまっているとも知ったが、それが私に関係があると思ったこともない。すでにどうでもいいことと思っている。

                                      *

 今振り返ってみると、その構造転換を意識的に進めていく準備が、職場の人たちにはできていないと私は見ていた(と思う)。行政からそうせよと言われてきたから(仕方がない)と軽く思っただけじゃなかったか。その状況に楯突きたかったから、構造転換するとはどういうことかと、準備期間の2年の間、毎週のように「職場新聞」を発行し、論陣を張り論点を整理して提出した。そこで提示した問題が、準備を進める間に差し迫ったことととして目に見えてきて、それに対するいろんな角度からの声も、その「職場新聞」に掲載されるようになった。

 それが構造転換の問題から逸れて、あの人はそんなことを考えていたんだとか、コイツは学生の頃、そんなことをアルバイトでしていたんだとかまでオープンになり、「構造転換」ができて試行段階となり、本格始動するようになってからも、「職場のコミュニケーション」として持続することになった。つまり、構造転換の副産物として「コミュニケーション誌」が残ったのであった。2003年に私が定年退職して「職場新聞」は終了となったが、その後5年ほど経って「いいかも」さんと会ったとき彼が、「ああいう、コミュニケーション誌があるとないとでは、一緒に仕事をしているという関係性が違うね」と、思い出して話していたのが印象に残っている。

 よく労働組合の広報誌のように発行されている「職場新聞」はある。いや実際に私が発行していたのも、元はといえばその「広報誌」のようなものであった。それが、現実の構造転換がどう進捗するかという緊張関係を持ったとき、管理職を含めた職場の「会議」において、その「職場新聞」に掲載した私の論調が取り上げられ、私も「会議」において言い足りなかった所や関連して考えたことを取り上げて掲載するようにしていた。そういうモンダイ提起に耳を貸さず、事態が切迫してきたときには、管理職に対して「あなたの所にも(この新聞は)届いているんだろ、よく読めよ」と論難する人もいて、たんなる「広報誌」ではなく、ほぼ職場の「コミュニケーション誌」としての位置を得たのだと思っていた。

 最近、コミュニケーションに関する本を読んでいたら、所謂広報誌のようなのを「伝達的コミュニケーション」と呼び、取り交わす言葉となったときのことを「生成的コミュニケーション」と専門家たちが呼んでいると知った。つまり当時のわたしの「職場新聞」は、伝達的コミュニケーション誌としてスタートしたのが、成り行きもあって「生成的コミュニケーション」に変化していったのだと思った。そうなったとき初めて、「コミュニケーション」というやりとりが成立しているのだ、と。そして、そのやりとりこそが、実は肝心なことであって、そのメディアを通じて取り交わされる論題とか論議は、どうでもいいのだと(人の営みを考えてみると)言えるように思う。

 この「どうでもいい」という感懐は、その構造転換がその実を結ぶかどうかも、その現場を離れることとなったものにとっては「どうでもいい」ことと思うのと同じである。人と人との関わりに関しては、生成的コミュニケーション自体が意味を持つのであって、その動態的な作法が、どのように展開していったか、そこに、関わった人々の思いがどれほどに映し出され、取り交わされていく実感を伴ったかが、問われているのである。

 私たちの日々のことばでも、高見に立っているとか、上から目線とか非難されるのは、伝達的であるに過ぎないという批判なのだ。やりとりを通じて(最初の発信者も)変容していく姿を見せなければ、とうてい生成的コミュニケーションとはなり得ない。新聞もTVも、双方向と言うことを言うのであれば、やりとりを通じて「変われよ」という叫びを聞き届けなければならないのではないか。SNSというメディアが文字にしていることは、ことごとく、世の中に向けたそういう「叫び」だと思っている。

「じゃあ、すぐにでも退職するよ、オレ」というのは、すでに、そういう生成的コミュニケーションの「現場」を失っている無意識の、自戒の言葉なのかもしれない。

2021年11月6日土曜日

36会seminar 第二期・第14回seminarのご案内

 36会の皆々さま

 秋らしくなりました。コロナウィルス感染も何故か少なくなり、どうぞseminarの秋をお楽しみ下さいというようです。

 さて今回のseminar。第二期第14回は実施を予定しています。

 ご出席の人数確認が必要ですので、ご面倒でしょうが、参加のぜひをお知らせ下さい。


 と き:2021年11月27日(土)13:00~、15:00から会食

 ところ:新橋「ももてなし家」2階

 講 師:羽方綠さん

 お 題:ジェンダーって何? ――日本人はジェンダーギャップを埋められるか?


 講師は、コロナウィルスの「三密回避」のせいで、おしゃべり相手に不足して身を持て余している、元気いっぱいの綠さん。昔風に数えでいえば傘寿になりますが、いえいえどうして、溢れんばかりの勢いは辺りを払うものがあります。

 その綠さんが「ジェンダー/gender」に切り込みます。

 生物学的な「性別sex」に対して、人間は社会的にも、文化的にもいろいろな衣装を着せてきました。男らしさ、女らしさ、男の役割、女の役割という衣装がジェンダーです。さらに、それが男と女の関係となると、もっといろいろな既成観念がかぶせられて、私たちの感じ方や考え方を支配している言えます。その齟齬から来る軋みを、ジェンダー・ギャップと呼んでいます。齟齬は取り払うことができるのでしょうか。

 でも、どのような場面でどのようなモンダイをめぐって取り交わされるかによって、齟齬の質も範囲も広がっていきます。先のオリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言も、そうでした。また、子育てをどうして女がやらなくてはならないのか。イクメンという言葉も起ち上がりました。男と女の生理的違いがもたらす社会的、文化的な差異は、しかし、時と場合によって、身のこなしとして私たちはくぐり抜けてきました。それが、しかし、時代的な文化の流動・変化によって、かつては何でもなかったことが、大きく問題になってきています。

 他方で私たちは、歳を重ねてきたことによって、ジェンダー・ギャップよりも、フィジカル・ギャップの方が暮らしに大きく作用するようになりました。と同時に、古いままのジェンダー・ギャップを身につけていて、どうしてあの程度の発言で森会長が辞任することになるのか。ちょっとわからなくなっていましたね。国内的には一時収まったかに見えた発言の波及でしたのに、、国際的な非難が轟轟と響き渡るように伝えられ、国際世論に押されて会長辞任となったのですが、そのインターナショナル・ギャップがどうして生じたのか。それが副題の「日本人はジェンダーギャップを埋められるか?」という問いになっているのかもしれません。彼女の経験豊富なアメリカとの対比が縦横にめぐらされて、面白い切り口になると期待しています。

 ご期待下さい。

    2021年11月3日  36会seminar事務局・藤田-k-敏明

街の設計と普通でない人(マイノリティ)

 コロナの感染が少し収まってきたからか、我が町を歩いても、少し人が多くなったかなと思う。旅に出て東京を経由したりすると、いや、実に人が多いと驚く。

 都会暮らしに味をしめたのか、ただ、働き場所を求めて集まってきただけなのかはわからない。たぶんその双方が互いに相乗作用して、集まることになってしまったのだろう。

 てんで勝手勝手に、経済階層もピンからキリまで、文化の深浅も達者なのから門前の小僧まで、居座る期間も、腰を据えるのからお試し来訪まで、種々雑多な人が寄り集まってきた結果だ。迎える側も、住宅建設や公共インフラや交通網や商店街なども、そのときどきの、その地区ごとに寄り集まりったひとたちの具合に応じて、何とか(まずは自分たちが、加えてそこへ参入する人たちの様子を見計らいながら)暮らしていけるように、経済計算をしつつ、暮らしや仕事や文化やインフラに連なる街づくりをしていくことになる。

「都市設計」というほどの意志的な街造りは、トヨタが富士山麓に試みているスマートシティのようなケース以外は、ほとんど為されていない。それが、自由主義的な社会の成り行きってヤツよと、為政者は考えているのだろうか。たぶん為政者も、「都市計画税」というのを徴収していながら、その実「都市計画」というのは、街の「有力者」のご要望に応える断片の継ぎ接ぎばかりである。何処を商業地域に指定するか、住宅地区にするか、耕作地域に指定するか。建築基準をどう定めてもらって、納める税は極力少なく、資産はできるだけ高くとどまるように計らうか。そういうことが有力者の胸算用である。あるいは、行政と商業企業が大規模な建築や不動産事業主と提携して、駅周辺の再設計をするという、本格的な街づくりも各地で行われた。そういうときに、障碍者や子ども、お年寄りに優しい街づくりが行われたりしていて、緩やかに「普通でない」、マイノリティの人々への配慮がみられるようになった。あるいはまた、治安保持のための警察関係者の要望を入れて、「アーキテクチャー」と呼ばれるプランニングも組み込むことが行われている。

 自分が、年寄りという、身のこなしが普通でない有り様(マイノリティ)になってみると、都市設計以上に、人が集まりすぎていることの方が、なにかと面倒だと痛感する。 よく整備されていても、人の流れというものがある。駅のホームなどは(時間帯にもよるが)渋滞を引き起こして流れを断ち切ることになるのは、「普通でない」マイノリティのわが身であったり、階段を、手すりに身を寄せて、歩一歩と身を持ち上げているお年寄りだったりする。街を歩いていて、「邪魔だ、ジジイ」と罵声を浴びせて若い男が自転車ですり抜けていったのは、まだこちらも血の気の多く残っていた60代であった。振り向いて「なんだバカやろう」と言い返そうとしたが、すでに相手は走りすぎていた。近頃の若い人は結構優しい人が多いとは思うが、街中の渋滞の元凶に出くわすと、「くそジジイ」と罵りたくなっているのかもしれないと、首をすくめる。

 となると年寄りは、混雑する時間帯に、混雑する場所に近寄らないようにするほかない。早めに家を出る。電車に乗るときも一本遅らせてもいいように、心得る。乗り換えもそうだ。まして旅に行くときには、荷物がある。これは、わざわざ、わが身に負荷をかけて障碍を体験するようなことだ。エレベータに乗るにしても、ホームの人があらかた思い思いの方向へ散ってから、移動するようにしなくてはならない。元気なときはエスカレータを駆け上がっていたが、荷物を持ってとなると乗って動かずに運ばれて行く方がいいことが、実によくわかる。

 こういうことを思うと、都会に人が集まり、さかさかと時間を刻むように振る舞い、列をなして移動する街の暮らしというのは、どこか基本的なところで間違ってんじゃないかと思うようになった。いや、間違ってると思うなら引っ込んでればいいわけではある。だが都会におけるヒトの暮らしが、そういうストレスに耐えてでも引き合うものなのかどうか。毎日何億円というトレードをしている人が、カップラーメンをすすって、目を赤くしてモニターをにらんでいる日々を送っているのをイメージするのと同じ、バカなことをしているんじゃないか。都会の人達すべてが・・・、と思うのだ。

 そういうことを程々にして、静かに暮らしたいという、身が不自由になった年寄りの声を聞き届けた「都市設計」を、どなたかやってくれているのかしら。

2021年11月5日金曜日

隠岐の島の息づかい(4)メカミサンに小さな幸運

  2日目、島前・西ノ島の宿。今日の行程を一通り終えて、宿に到着した。夕食の後、オプションの「神楽」があった。希望者は7時20分に集合してバスで送ってくれる。地区の公民館。といっても広く、ちょっとした体育館のよう。舞台もある。小学生らしき男女が二人、背を丸めた中学生らしき女生徒が一人、高校生かなという女子生徒が二人と、アラカンの大人の囃子や歌い手が3人。神楽同好会と名乗っているが、地区の文化保存のために活動しているのであろう。会場準備のスタッフは、さらに同数ほどの公民館職員か。

 神に捧げる神楽に始まり、巫女の舞、恵比寿と3題の演目。お囃子を鳴らし、踊り手がわずか2畳の畳を隅から隅まで使いながら、ゆっくりとした所作で何度も回る。ちょうど目の高さに来る足のつま先や踵の動きが、体の動きに先んじて動き、一つひとつの所作がきっちりと刻むように30度ずつ回って、それについていくように、ゆっくりと身が回る。見ているうちに、神と交信しているような気配を踊り手に感じたのは、不思議であった。

 恵比寿の舞は、これはすっかり人間に向けて差し出された神からの贈り物という感触で受けとったが、そういえば、大黒様は大国主命ではなかったか。ここ、島根県は、神々の総本山。皇室の氏神様・お伊勢さんと違い、民草の神々の総本山は出雲の神。それを讃える響きが伝わるようであった。こうして、9時頃までかけて、二日目の全行程が終わったのであった。

                                      *

 第3日も、晴れ。気温もそこそこあって、寒くも暑くもない。南というよりも全国的に穏やかな秋日和であった。朝が早かった。6時半に朝食、7時20分には出発。まず港で、分宿のグループ合流をしなくちゃならない。それに、いろいろとおもてなし行事を詰め込んであった。

 玉若酢命神社へ行く。1日目の水若酢神社同様、伊勢や出雲など名神社のいいところどり「隠岐様式」の神社建築。千木は垂直、男神。巨大な注連縄が拝殿の庇の下にかけてある。毎年取り替えるのではないらしい。2礼2拍手2礼という参拝形式。これもちょっとクセがある。神在月に来たせいで、島根県の神社には他国と異なる習わしがあっても不思議ではない。

 社よりも、社殿の入口にある大杉がすごい。八百年杉(やおすぎ)と名前がついているが、樹齢は2千年だそうだ。見た目、屋久島の縄文杉よりは木肌が若い。そうだよね、年数からすると、弥生杉の若って所か。

  すぐ港の方へとって返す。民謡の実演を、小グループ毎にしてくれているらしい。そのグループのローテーションと、客を待たせるわけには行かないという配慮があるから、行ったり来たりすることになる。

 港前の観光会館に戻ると2階に披露の会場が用意されている。舞台として畳表の上敷きが敷いてあり、太鼓と三味線囃子の椅子がおいてある。客席との仕切りにビニールのカーテンが上から下までぴっちりと垂れ下げてある。コロナ対応というわけだ。私たちは椅子に腰掛けて観聴きすることになる。

 進行係と歌い手が同じ人。太鼓と三味線のほかに踊り子3人が登場して歌う。なんでも北前船に乗って新潟など全国からやってきた船乗りが伝えた民謡が、隠岐の地で変奏され、歌詞も変わって隠岐民謡として今に至っている。元歌が隠岐ふうに歌詞を変え、歌い継がれてきたという。また、両手に持った飾り棒を、右手と左手でとっかえひっかえ、まるでジャグリングのように持ち替えて、男衆(おとこし)が踊り、太鼓と三味線と歌が囃し立てる踊りもあって、なかなか面白かった。わずか30分程の演舞だが、6グループを交代してもてなす。演者たちも大変だ。

 モーモードームに移動して、牛突きを見る。土地によっては闘牛といい、角突きといわれる、牛の格闘技。一度、宇和島で観たろうか、沖縄だったろうか。でも、勝敗をつけるまではやらない。負けるとそれがクセになり、牛が使い物にならなくなるからだそうだ。角を突き合わせること5分から10分程。短時間だが、迫力はすさまじい。角が首に食い込みはしないかとハラハラして見守る。追い込まれて、会場を取り巻く鉄の手すりにまで下がり、それ以上下がれなくなって押し返してゆく牛の力勝負。見ている方も、力が入る。牛の綱を引いてコントロールしているのは20代(という感じ)の若者。それが、とても新鮮な気配を漂わせていた。

 モーモードームのすぐそばが隠岐国分寺。天平文化の匂いを残し、後醍醐天皇の行在所となったということで、正統文化の(鎌倉期には排斥を受けた)継承者という誇りを湛えながら、しかし、明治維新期の廃仏毀釈によって伽藍から何からを壊され棄てさせられた怒りがこもっているような感触があった。明治維新政府の天皇権威の利用に憤っている感じ。かろうじて「隠岐国分寺境内」と記した石柱を本殿跡に建てて名分を立てているようだ。

 脇には隠岐国分寺蓮華会舞の会館が置かれ、ビデオで演目を紹介していた.一緒に見ていたガイドが私もやってみますと、龍の舞の一節を、歌いながら、とっとっとっと三段跳び、後ずさり、それを三回繰り返してやり、笑いと拍手を受けていた。幼い頃から見て育った彼女も、自ずと体が動いて踊らないではいられなかった様子。身に響くのか、それが面白かった。

 隠岐・島後の北端まで車を運び、白島(しらしま)の景観を見せる。多島海、百に一つ足りないから「白」島という。海の向こうにはユーラシア大陸があるのだろう。波は静かであった。

 行程途中に「かぶら杉」という大杉も観る。大きな杉が一度切り払われ、その台座部分から何本かの幹が生えて何百年も経っている杉。それを見せようとバスは立ち寄る。

 こうして午前中の名所を見て回り、お昼にまた、海鮮丼を食して1時間半程のフリータイムとなった。このとき、新しい出発日のクラブツーリズムの客がやってきて、観光会館の案内を受けている。なるほど、こうなると、チャーター機といっても、季節定期便くらいには活躍するようだ。でも当方は、町を見て回る元気はない。広々とした自然館のロビーで、港を眺めながら本を読んで過ごした。この穏やかさが好ましい。空港へはバスで10分程。空港の横の公園に出かけて1時間程の散歩をして過ごし、機上の人となった。

 帰りは追い風のせいか、飛行時間は1時間15分。だがチャーター便だけのことはあった。座席番号で5人の人に「隠岐の観光協会からの贈り物」というプレゼントがあった。添乗員がくじを引いて発表する。一般客を入れていたら、こんなことはできない。

 なんと私の隣席のカミサンが、マグカップと隠岐ローソク島と北斎の波の絵とをデザインした特製手拭いをもらった。この人、こういう小さい幸運が、いつもついて回る。持ち帰って、壁に飾って今回の旅の記念としている。(隠岐の旅・終わり)

2021年11月4日木曜日

隠岐の島の息づかい(2)絶品の岩牡蠣

 第一日、着いていきなり2時間ほどのフリータイム。実はオプションの遊覧船や町歩きがあったのだが、すぐ定員いっぱいになった。

 無論退屈はしなかった。ちょうど昼食タイムでもあった。オプション参加者はお昼を(機内で)済ませていた。それと、すぐそばに「自然博物館」があって、隠岐諸島のジオグラフィカルな成立由来と動植物の特性などが展示説明されている。これが面白かった。時間が足りず、バスの出発に駆けつけるようであった。

 出雲大社に連なる水若酢神社にも顔を出し、島の記念相撲の話を聞き、そういえばこれは、NHKスペシャルの隠岐相撲の特集があったか。子どもから大人まで、夜通し相撲をとって、島のなにか記念すべきことがあると相撲大会を催す。大関や関脇には柱をプレゼントする習わしがあって、「左をご覧ください。そう二軒目の軒下、太い柱があるでしょう。あれです」と走るバスの中でガイドが力を入れて話をする。土俵の高さまで(後ろ席からの)見物客に配慮するきづかいをして三段組みにしているという。

 その後、港から船に乗り「外洋」に乗り出す。ローソク島の周りを経巡り、夕日がちょうどローソクの芯に当たるところに来るところで船から撮影するという瞬間をサービスしようという趣向。日の入りと出航時刻とを見計らっている。何隻かの船が出ているから、なかなかどんぴしゃりとはいかないが、船長の腕が競われているようだ。実際には、お陽さまが明るくて、ローソクの芯に火が灯るというよりは、ローソクの後ろから後光がさすような風情であった。奇妙なのは、ローソク島の名前。海の中に屹立する、高さ二十メートルになろうというローソク様の大岩に、なぜか、島と名付けている。大小百八十ほどの島からなる隠岐諸島と言っても、何だ、こんな岩を島と呼ぶのなら、諸島の数も、ま、たくさんという程度に聞いておけばいいのだろう。後で宿の亭主でもある漁師さんに聞いたのだが、ほとんどの島は個人所有になっているそうだ。むろん固定資産税も何百円か支払っている。たまに釣り客を案内することもあるだけ。ほかに使いようがないけど、爺さんの代からの持ち物なので、手放すわけには行かないと笑う。何万年か経てば、これもまた波と風に削られて固定資産税も不要になるのだろう。

 下船して宿へ向かう。20人のグループでさえ、一つの宿に収まらない。分散宿泊。添乗員はしきりと恐縮しているが、大きなグループのために大きなホテルを作っても、いつも稼働するとは限らない。それよりは島の中の小さな宿が連携して、宿それぞれは自前の送迎車を持っているわけだから、終着点、出発点に送迎するというふうにして、分散宿泊に手を貸したほうがいい。宿の人たちも料理人となって腕を上げるであろうし、地域的にもそうだし、ツアー業者としてもそのほうが都合がよいに決まっている。私たち二人も、他の宿に移された。だからといって別に、ツアーの同行者に連帯感があるわけじゃないから、まったく気にならない。

 こうして、第一日が終わった。

 そうそう、食事について書いておきたい。島後のホテルの夕食は、見事であった。海産物が新鮮。何より、養殖している岩牡蠣の大きなのは圧巻だった。瀬戸内海の養殖牡蠣と違い、3~4倍でっかい。養殖の生け簀は海の各所に設えてあった。島と島の間が離れているといっても、瀬戸内海と較べると遙かに小さく、波は穏やか。養殖法の違いなど興味があったが、聞く暇もなかった。中央の貝柱が太くかっちりとした噛み応えがあり、肉汁がたっぷりと含まれている。お作りの味も、ちょっとした煮魚も、見事であった。やっぱり埼玉のスーパーあたりの刺し身とは比較にならない。新鮮な魚というのは、こういうのだと日頃の粗末な食事に思いを馳せた、海なし県のサカナ好きでした。別に反省したわけじゃないけど。(つづく)

隠岐の島の息づかい(3)頼山陽が目を回す

 第一日の島後のことで記しておくことがあった。水若酢神社や玉若酢神社の「まぜごはん」とバスガイドが紹介した建築様式は、「隠岐造り」と呼ばれているということ。また拝殿に向かう鳥居をくぐったすぐ左脇に、相撲の土俵が設えてあり、ここで奉納相撲が行われたと思われること。それと後で気づくことになったのだが、さらにその左方向奥の桜の木3本が紅葉して背景の民家の黒っぽさの前に美しかったこと。というのは、島前に行って漁師の話を聞くと、暖流に囲まれているので紅葉は遅い、と。だが、島後は島が大きいから寒暖差もあって紅葉が進んでいるという。わずかしか離れていない島の間にも、季節の移り変わりにそれだけの差があるのだ。冬も、島後は雪が積もるが、島前はここ七年くらいはほとんど積もらなくなった。気温も零下になることがないという話。


 第二日(11/1)、やはり朝食も上等であった。多くもなく、手が込んでいて、気遣いが行き届いている。時間だけはせっつかれていたが、それが気にならないくらい、ゆったりと食事をとった気分になった。

 今日も晴れ。全く寒くない。港へ出てみると、靄がかかっている。いや、秋だから霧というのか? 50mほどの高さで入り江の向こうの山並みの中腹を覆うように視野の左の方から右の方へ、何キロにもわたって雲が張り出して、幻想的な景観をなしている。

 西ノ島に移動する。大きなフェリーが3隻。鳥取県の境港と隠岐の島々とを結んで、一日一往復しているから、結構な便数がある。他にも高速船が通っていたり、小型の船が島と島を結んで往来しているようだから、自前の観光客はいろんなプランを作ることができそうだ。船は1時間半。どうしてこんなにかかるのか不思議だ。島と島はさほど離れているように見えない。ただ、島の周りをぐるりと回って行くとなると、地図で見るよりも距離はあるのかもしれない。波は穏やかだから、ほとんど酔うような揺れは感じない。

 日本海の穏やかさではない。「隠岐の内海」と呼んでいるようだった。海風に当たっていても、暖かい。暖流というが、それ以上に現在の気候がいい。海のはるか南方に背の高いビルが見える。添乗員に聞くと「島」という。だが、隠岐の島々にあんなに高いビルはない。本州から50kmというから、見えない距離ではない。境港か松江か。すぐ右手に、中ノ島の島影は見えてきた。

 中ノ島の菱浦港は、木造の瀟洒なデッキを備えて、まだ新しい。いかにも「町おこし」に全国区の生徒募集を行った清新な海士町の気概を感じさせる。学齢前の女の子二人を連れた若い両親が15メートル程下の岸壁にいる。こどもが「おばあ~ちゃ~ん」と声を上げて手を振る。船縁から手を振る若いおばあちゃんがいる。会いに来て帰るところか。ということは、孫の親一家の実家が本土にあるのか。このばあちゃんとの別れようでは、孫一家は本土からのIターン組と考えた方がふさわしい。

 港からバスで西ノ島の西端の展望台にゆく。ジオパークと呼ばれる国賀海岸を、入江を挟んだ何百メートルかの高いところから睥睨する。入り組んだ岩場が海蝕によって形を変え、600万年の海と陸のぶつかり合う営みを思わせる。削り取られて屹立する大岩、寄せる波に押し切られて中央がポッカリと空いてしまった通天橋、削られた断崖が250メートル余も垂直に切り立つ魔天涯、それらが外海の荒さと力を感じさせる。馬や牛がのんびりと草をはんでいるのが牧歌的という言葉を思い出させた。島には馬が50頭、牛が500頭いるとガイドはいう。隠岐牛というのは出荷されて神戸牛など各地の名前をつけられて売り出される。なぜ評判がいいか。「食べ止まり」とガイドは説明する。牛は足の強さで支えられる以上の体重になると、食べるのをやめるそうだ。高低差の大きいここの地で育った牛は足が丈夫で存分に食べ、しっかりと大きくなるという。初めて聞いた。面白い。馬は? と誰かが尋ねたかどうか知らないが、「牛は引きちぎって食べるから、草がちぐはぐに伸びている。だが馬は丁寧に喰むから草の掃除をしなくて済むという。なるほど。

 バスは再び移動して、展望台から山を下り裾野をぐるりと回って通天橋を間近に見る海辺に下る。ダルマギクの群落があるとガイドからカミサンが聞き出している。なんだ、それ? 大陸系の植物らしい。何でも西ノ島には、南方系の植物と大陸系の植物の両方が見られるらしい。また、高山性の植物と北方系の植物とも併存しているという。火山性の、養分の少ない大地に600万年かけて、暖流に乗って流れ着いたさまざまな植物が根を張ってきたというわけだ。「独自の生態系」と島のパンフレットは自慢げである。

 あった。ダルマギクは、崖の岩場に張り付くように点在している。群落という密生ではない。岩場にわずかな土を見つけて根を張り、しがみついて白っぽい青紫の花をつけている。双眼鏡を持っていたから子細に見えたが、崖をのぞき込むのを怖がってなかなか見ることができない人もいる。入り江の向こうの屹立する崖にも点在しているから、双眼鏡ではよく見えた。おっ、岩の先端にイソヒヨドリが一羽止まっている。

 「高山植物は。ほらっ、ここに」とガイドはしゃがみ込んで指さすが、おばさん達がのぞき込んで場を占めるから見ることはできない。なんでもヒロハゴマキとかエゾイタヤがあるらしい。

 風化と海蝕の力はすごい。吹き付ける風が岩をボロボロにし、打ち寄せる波が岩を剥ぎ崩す。それが600万年もかけてぽっかりと穴を開けるまでになった。大きな岩と岩に橋を架けたような風情から通天橋と名付けたのであろう。脇から見ると色の違う地層が曲がりくねって積み重なっている。ジオパークの名にふさわしい。

 海辺に鳥居がおかれ、小さなほこらがあった脇にあった古い立て札に、こんなことが記されていた。

《……この絶勝は筆舌に尽くしがたい。頼山陽は耶馬溪を見て筆を投げたというが、その十倍も美しい国賀をみたら目を回すかもしれない》

 う~ん、どうかなあ。

 港の傍らにある「由良比女命神社」を参拝する。ここの本殿の千木の先端は水平に切ってある。伊勢神宮内宮の千木と同じだ。鰹木は3本、奇数であった。島後の神社はいずれも千木は垂直に切られ、でも鰹木は奇数というちぐはぐだが、それが「隠岐様式」といえば、そういうものなのだろうと、感心した。

 昼食を済ませ、港から船に乗り、国賀海岸を、今度は海から見に行く。港は西ノ島の中央部だから、ほぼ島の裏側へ回り込むと思っていたら、ショートカットのルートがあると、船を出す鶴丸のスタッフが話してくれた。回り込むと2時間かかるところが、開鑿水路を通ると10分程で外洋に出られるという。入り江の奥へ行くと、幅11メートルの水路が開かれて外洋へ出ることができる深さは3メートル300mほどの開鑿を西ノ島の住民がやったと船長は話す。

 外洋は、慥かに波は大きいが、でも風もなく、さほど揺れない。今日は穏やかなのかもしれない。日本海の西側に出たわけだ。陸から見た国賀海岸を海から見る。さすがに250m余の断崖は見上げる程屹立している。船室の外へ出てもいいという。なるほど風は少し冷たいが、心地がいい。海蝕洞穴という波が削り取った大きな穴が、いくつも空いている。これからも侵食は進むであろう。海から見る通天橋の地層の褶曲は陸から見るより一層見事であった。

 予定通りに外洋を先へ進むのは、ちょと危ないと船長は判断したのであろう。もう一度クリークを通って内海に戻り、先端を回り込んで知夫里島の赤壁を見せようとした。だが、やはりこちらも外洋へ出たところで、船が大きく揺れ、引き返すことになった。

 こうして1時間40分程で港へ戻り、分宿する宿へ向かった。港を見下ろす高台に設けられた宿。高低差のある地形を生かしてか、あるいは継ぎ足し継ぎ足ししてそうなったのかわからないが、小さい段差のある廊下がくねって続く。昔風の国民宿舎って感じか。205号室がフロントの一階にあるかと思えば、階段を下って風呂場や広間があり、そちらも海を見下ろす庭に面している。

 ここの夕食も、海鮮が豪勢であった。イカそうめんのお造りは食べきれない程の分量。食べ物を残すことを良しとしない私は、苦しいほど食べ、それでもイカの1/4を残すことになった。(つづく)

2021年11月3日水曜日

呼吸する平凡な島の町

 第一印象が「平凡な島の町」であった。平凡なというのは、悪口ではない。離島であるとか、人口減少とか、何かに付けて希少種、または絶滅危惧地域的にイメージが作られて限界集落などと呼ぶ。だが、全くそういう悲壮感を感じなかった。日本列島(後でバスガイドはメインランドと呼んでいた本州)の港町の風景があったし、人々が「チャーター便」を下にも置かないもてなしをするという風情でもない。無論、関係者が色々と気遣いをして、それなりの「歓迎」ムードを醸し出そうとしていることはわかるが、ツアーの参加者も、迎える方も淡々と応接している。観光客慣れしているといえば言えなくもないが、それも平凡な町と変わらない。そういう好感をもった。隠岐の島を訪ねた。

 隠岐の島という島がないということにも気付かされた。隠岐諸島という180余の島。大きいのは4つ。隠岐の島町があるのは島後、これは「どうご」と呼ぶ。すぐ南にある西ノ島と中ノ島、知夫里島は、まとめて島前、「どうぜん」という。出雲に近いかどうかで前後が名付けられたのか。島ごとに町村が別れている。一番大きい島後の人口は約2万人。島前は3島併せて7千人弱という。

 知っていたのは「島留学」。島根県立隠岐島前高校が「全国区で生徒募集」というキャンペーンを張ったこと。若い層の人口減少に対処しようと募集したところ、大勢の応募が有り島が活気づいたと、どこからのTVが特集していた。今回はしかし、その高校がある中ノ島の海士町には行かなかった。島後と島前の西ノ島だけ。ゆうゆうと漁業によって暮らし、本土との交易も太いパイプを持ち、人口の4割はIターンと(バスガイドが)いうほど島の魅力にとりつかれた人々が寄り集まっている。島後にも高校が2校あるというほど若い。たとえばトカラ列島に感じたような限界寸前の気配は微塵もなかった。

 一度は訪ねてみたいと思っていた島根県の隠岐の島に、わずか1時間半でいけるとあって、ツアーに応募した。羽田からの直行便。JALとクラブツーリズムが組んで企画したチャーター便だということは空港で知った。もしこれの評判が良ければ、季節運行でもいいから、続けていこうという試験飛行。百数十人が搭乗する中型ジェット。松江や出雲を経由する定期便はあったが、羽田から直行というのを売りにして企画したらしい。なんだ私も、けっこう俗に染まっているじゃないか。

 じゃあ、ふだんはどこから? 伊丹空港と出雲空港との間に定期航空便がある。フェリー便は境湊港と七類港との間に3隻が往来している。羽田からの直行便に寄せる期待は大きいのだろうが、過大には見積もっていないと言えようか。

 2泊3日。面白かった。島が呼吸していると感じた。島の暮らしが、まるで人が生きる営みのように、外とのやりとりによって息づき、それをエネルギーにして裡側の蓄えを確かめ豊かにし、自らの存在感を慥かなものとしている。神秘学ならば、大気のエネルギーを取り入れ細胞の隅々まで行き渡らせて自らのものとする、そういう循環のくりかえし、と。そういう文化の感触がしっかりと保たれている。

 ジオパークとカタカナ文字で再認識を促す600万年前の島の形成、観光案内は異形の景観ばかりを見せたがるが、漁師の1人が「島後に大地震が来て揺れても島前の西ノ島は乗ってるプレートが違うから揺れない」と、むしろ朝鮮半島や中国大陸との同一性をポロリと漏らす。そちらの方にジオパークのすごさを感じる面白さがあった。

 あるいは、小野篁や後鳥羽上皇、後醍醐天皇の島流しがもたらした京の文化。それをいつしかアイデンティティのように感じて、玉若酢尊神社の造りが、伊勢神社、出雲大社、諏訪大社の様式の良いとこ取りをした「まぜごはん」だと自慢げに話す面白さ。あるいは奈良町時代に伝わったインド、支那、朝鮮などの天平文化が「蓮華会舞」に残ると歌い踊ってみせる、国分寺を語るガイド。明治維新の廃仏毀釈の乱暴さを、「目に余るものがあった」と非難する口ぶりのおかしさ。まさしく、歴史が積み重なり今に伝わる息づかいを残していると。

 あるいはまた、江戸時代の北前船の往来で立ち寄る船が、多いときは120艘に及んだと話す。交易船の運ぶ品々が取り交わされ、またここから運ばれていったこと。それがもたらす暮らしの息づかい。新潟から伝わった民謡が形を変えて今に残ると演じてみせる。

 まさしく島の町が、人の行き来を含めて呼吸していると実感させる。

 今や都会地では、古びたものはどんどん棄てられ、新規更新こそが日頃の営みの目標のように扱われているが、島ではそうではない。古びたものが、暮らしの安定感をもたらす重しとなり、重心は低い。つまり、暮らしそのものが、営みの基本形をしっかりと残して引き継がれて今に至っている。そういう感触に身を浸してきた三日間であった。