2021年11月25日木曜日

政治家はコーディネータ

 運動としての民主主義を掲げる政治家は、「かくあるべし」という具体政策イメージを持たない方が良い。

 えっ? じゃあ、彼は政治家として何をするんだ?

 庶民大衆の皆さんの意見や不満や要求が、出せるように、ネットワークと運動を組織する。皆さんのそれらは、多様であるから、その数だけネットワークは重層し、運動は多岐に亘る。一人で組織するというわけには行かない。政治家は、庶民大衆のそれらを政治的次元に引き上げる。

 引き上げるというと、政治的次元が「上」に見えるかもしれないが、そうではない。次元を変える。むろん、素のままの「課題」を除かずに、それらの違いをある程度概括して、三つか四つの差異的政策にまとめることになる。それについて、徹底的な討議をする。形式的な討議ではない。支持する政策の、短期的、長期的に結果すること、対立する政策のもたらすこと、政策を具体的に遂行するに当たっての困難と課題など、一つひとつ掘り出して俎上にあげ、吟味して決定に持ち込む。そのとき、反対意見、少数意見、特異な意見を一つひとつ丁寧に位置づけて、重ね合わせ、譲り合っていく。なぜそうするかをひとつひとつ解きほぐし、明快にしていく。それが「討議」である。

 この「討議」には、庶民大衆の(それまでの人生で経てきた)あらゆる出来事が醸した思い込みや流言飛語や認識の違いや意識していないことが浮かび上がり、「にんげん」の諸相がぶつかり合いとして剥き出しになる。人々の差異である「諸相」を解きほぐし、政治的課題としての限定をつけて、互いの相互認識に持ち込んでいく必要がある。

 じつは、ここが政治家が取り仕切る一番の「課題」だ。そういう意味で政治家は、哲学者でなくてはならない。ここでいう「哲学」とは、人が生きるということの筋道を根柢から見て取る感性を持つことに始まる。つまり「にんげん」とは何か、人は今どう生きているか、いかに生きることをよしとするか、そういったことに向き合う感性が不可欠である。

 この点が、コーディネートの要だと思う。コーディネートする政治家も、意識しているかどうかは別として、「かくあるべし」という観念をもっている。だがそれを押しつけたり、我田引水のように運ぼうとすると、たちまち「不信」が湧いてくる。というか、そもそも「信頼を得ていない」ことが出発点にあるから、「信頼」が醸成されていかない。庶民大衆が主体であり、政治家はその主体を、集団的意思として起ち上げるコーディネートをしているのだから、自身の「かくあるべし」を押しつけるようであっては、務まらない。

 その間に、三つか四つの差異的政策が二つになったり、一つプラス三つほどの付属政策になったりすることができれば、そのようにして合意に達するようにする。その間に、優先順位をつけることもあろうし、次年度以降の課題として継続審議に持ち込むこともあるだろう。ときには、不満を抑え込んでしまうこともあるとみておかねばならない。民主主義とは、集団的決定の最終段階においては、抑圧を含むしかないことがある。

 それら政策立案のための資料収集を官僚たちに担当してもらうってことも、情報収集機関としての役所の務めだし、情報メディアも、この過程で活動してもらえるように活動の全過程を公開していくことが、ここで浮かび上がる。公務員が「国民全体への奉仕者」になる。政治家の「ご挨拶文」を書かされるよりは、よほどそちらの方に官僚たちのやる気がそそられると私は思う。彼らがエリートとしての矜持を「国民全体への奉仕者」ということにおくようになれば、彼らは長期的な視点と公平性と公正さと継続的なマンネリズムを長所に変えていくことができる。政治家からの一定の独立の根拠も築かれていく。

 安部=菅政治の欠点は、自ら感知している「情報」を秘匿して、あたかもその「情報」が自分の発信するべき特権的なことのように占有していたことにある。だが、情報化社会の広まりにつれて、「情報」は広く知れ渡るようになってしまった。それどころか、情報収集機関であったはずの役所がいつの間にか時代遅れの収集癖に凝り固まり、官僚というエリートが世俗の情報に追随するようになってしまった。地方政府からの基本情報すら、ファックスで送付し、改めてそれを入力して集積するという手間暇をかけ、その結果誤入力や欠落を招いている。いや、それらの入力を外部委託することによって、もはや役所が情報収集と発信の能力を失ってすらいる。その頂点に立って差配してきた政府首脳は、文字通り裸の王様であった。

 政府首脳に「権威」はいらない。「信頼」を得ることが第一だ。もちろん「信頼」の積み重ねが「権威」となることはいうまでもないが、情報を秘匿して小出しにすることによって手に入れる「けんい」って、すぐにボロが出る化粧のようなものだ。それを身につけている限り、庶民からの「信頼」は得られない。

 コロナ禍は、じつはそうした「信頼」を手に入れる最大のチャンスであった。コロナウィルスが襲来するとどうなるかわからないというのが、ほぼ全員の一致する感懐であった。どうしたらいいかわからないということは、どうやるかが「問われている」わけだから、衛生医療関係者の意見、社会関係の期待、経済活動の停滞と浮沈、何より暮らしにおける最低限、整えなければならないことを取り出して公開し、どう調整するか、何を優先するか、何が欠かせないかを丁寧に吟味しつつ、具体化を図る。数十の提案を三つ四つに絞り込み、その過程も明らかにしておくことで、その選択過程への「やむなし」という了承を取り付けることだって、そう難しいわけじゃあるまい。

 ところが政治家が、才覚力量に溢れ、旺盛な活動力で取り仕切って「俺に任せろ」的に振る舞えば振る舞うほど、庶民大衆は「お任せ」になり、政治の「公助」を主権者の権利の如くに消費してしまう。だって彼ら(政治家と官僚)は秘匿するほど「情報」をもっているんだろ? ならば、それ相応の具体的な結果を出せよ。口だけでサービスするような贅言は、もういらないよ。そう、不服不満は鬱屈し、投票にも行かないし、政治なんて知ったことかとそっぽを向くようになる。それを埋め合わせて、政治家の方へ向いてもらおうとすると、大枚の選挙資金を投入して明らかに不正な利益誘導をするようになる。そのような政治家の不始末は、数え切れないほど多い。野党がそれを追求していることも、庶民大衆からすると、与党をいじめて遊んでいるようにみえる。むろんそれで与党の不始末がどうなってもいいとは思わないが、政治家って、結局権力を握っていないと負け犬の遠吠えなのねって、認識が定着する。

 野党は、政治世界の枠組みを打ち破って、根柢から社会運動として動き始めなければならない。まず、庶民大衆を「主体」にすること。なってもらうこと。それをコーディネートするのが政治家の役割と心得て、「哲学」を提示してみせること。それが「信頼を築く」第一歩だと思う。

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