2021年11月14日日曜日

前向きに世界を見ること

  旅の行き帰りに、マルクス・ガブリエル『つながりすぎた世界の先に』(PHP新書、2021年)を読んだ。NHK特集などでこの哲学者のやりとりを見聞きして、ヘーゲル哲学を中心にドイツ観念論哲学を斬新な目で見て取る感触を感じて読み進めたことがあった。

 この本は、コロナウィルスに戦々恐々と対応してきている世界を、どう見ているか、この後どうしていく必要があるかを、日本のコーディネータ二人に誘われて、リモートでインタビューに応えたものを一冊にまとめた恰好の啓蒙書である。勿論学問的に啓蒙しようというものではなく、ガブリエル自身が、今世界で起こっていることを哲学しているプロセスが、言葉になって繰り出されている。軽々と読み進めた。

 軽く読めたのには、ワケがある。コロナが象徴的に意味するもの、米中の対立という構図をどう読み取るか、そこにおける日本(漢字をいう中国との共通項と隣国という立ち位置)の役割、ドイツとの第二次大戦後の世界における共通性、EUの対中国の立ち位置、トランプへの(わりと肯定的な)評価、メルケルへの賛辞、資本主義市場に対する具体的な向き合い方を繰り出して倫理資本主義を説き、「(暮らしの)質への転換」など、話が具体的である。

 ここ30年ほどの近代世界が推し進めてきたグローバリズムが、人の営みとして不適合を起こしていることを、コロナウィルスが明らかに示している、と根源的に提起する。もっとも根柢的と思われたのは、「無知の知」の強調。自分が知らないことを知っているという問いを発する起点からはじめ、応えを手にするときにやはり、知らない世界が広がっていることに気づくという、ある種応答の循環を思わせるような地平を踏まえている。そこが哲学の真骨頂よといわんばかりだ。固定的に物事を見るな、そう見て取る瞬間に、差別が生まれ、思念の中の序列が固定化されるといいたいようであった。

 実は、昨年のコロナウィルス禍の蔓延以来私自身、これって自然からの啓示ではないかと謂ってきたのと同じ感懐を、この哲学者が持っていることがわかり、ホッとしながら読んできた。彼は「日本人にはわかりやすいかもしれないが」と断って、こうした「自然が主体」となった世界の事象と位置づけている。一神教ではなかなか信じられないことだが、「神道や仏教ではごく普通のこととして受け容れられている」ことに注目している。それを、すぐに日本的と読んでいいかどうかはわからないが、私の持つ自然観とうまくマッチする。

 この本の感懐を考えるともなく思い巡らしながらTVをみていると、高齢化が進み限界集落のトップバッターと思われていた群馬県南牧村で行われた「TVシンポジウム」が放映されていた。高齢化率66.2%という全国一の村を、この先どうやったらいいかと、村長や村へ足を運ぶ巡回診療医や東大の名誉教授がシンポジスト。それに加えて、もうこれ以上やってけないんじゃないのと考えている72歳の村民、東京や埼玉県からやってきて定住しようと頑張っている若者二人を交え、ここ数年、人口移動がプラスになっていることをあかしながら、どう未来図を描くことができるかと言葉を交わす。他の件の試みなども紹介しながら話が進む。そのとき、「日本の試みは世界モデルですから」と奈良県を取材した番組制作者の言葉が重なる。ここでもまた、現に進行する高齢化と人口減少を見つめる目を、思い込みに拠らないで、具体的に現場を見て話を交わして、一つひとつ具体的に考えていく過程が、画面の裏側で行われていることが示されている。

 哲学的に考えるというのは、固定観念をひとまず取り払って、一つひとつ具体的に言葉を紡ぎ現実の振る舞いに還元して、実行に移していくことだ。言葉にすると、それはそうだと簡単に了解できることだが、自分の観念の固定観念となると、なかなか容易に身から剥がせない。それをたぶんマルクス・ガブリエルは哲学者を入れて言葉を交わしなさいと力説しているのだと思う。

 TVの番組を見ていると、それぞれ皆さんが哲学していると思う。「生き方を変える」と東大の名誉教授は口にするが、コロナウィルスに脅えて人口密集地で日々を送ることに夢中になっている若者にこそ、伝えたい言葉だと思った。量じゃないよ、質だよ。娯楽じゃないよ、静謐だよ。自分じゃないよ、環境だよ。そうした所に身を置き、具体的な振る舞いに目をやることが、現代社会のもたらす鬱積から身を解き放つ最初の一歩だと、気づく。

 もうこちとらは、どこかに身を移して暮らすような身分ではないから、口先だけで喋喋しているが、若い人たちは2,3年限界集落暮らしをしてから都会に戻ってきてもいいんじゃないか。そういうことに政府が補助金を出して、人生創生計画を起ち上げてもいいんじゃないか。そんな気がした。

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