今日(11/27)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」は、「何にでも執着する自分がいやになります」という10代の女性、大学生の相談。ドラマをみても自分の好みに合わないとすぐに見捨てる。それが高評価を得ていると知ると、自分が非難されているような気がして気に入らない。苛立つ。自分が好きな作品のときは、自分とその作品との境界が曖昧になり、それに対する世間の評価を自分への評価と受けとってしまう。批判されると傷ついてしまう、という相談。
それに対して美輪明宏は「他人の感想なんて千差万別。割り切るしかありません。人間にはいろんな価値観があるのは当然です」と応じて、見出しも《哲学を学び、多様性を認めましょう》とまとめている。
だが、そうか?
多様性を認めるというのが「人生いろいろ」という他者承認だとすると、この相談者の「自己嫌悪」は少しも片付かない。「世間の高評価」を受け容れられないのは、「自分の評価」が相対化されないからだ。では、自信たっぷりなのかというと、そうではない。はたして「自分の評価」は正しいのかと不安になっている。つまりこの相談者は、自分(の評価)を世界に位置づけることができないことに苛立っているのだ。
となると道筋はひとつ。なぜ、自分はこの作品を気に食わないのか、どうして私は、こちらの作品がいいと思っているのか、そう問いを立てて自問自答して、自画像を描いていくしかない。他の人たちとか世間の評価は、自画像を描くときに踏み台になる媒介物だ。彼ら、彼女ら(評論家)は、何処をどう見て評価しているのか、その点を自分はどうして認められないのか。
かつて西欧では、趣味と色合いは批評の対象にしてはならないという(紳士淑女の)世間相場があったそうだ。それをぶち壊したのが、フランスの社会学者・ピエール・ブルデューだとどこかで読んだ覚えがある。ブルデューは、趣味も色合いに対する好みも、生育歴中の環境によって埋め込まれ、無意識の自分の好みとして沈潜している社会的な継承性を持っていることと見て取った(『ディスタンクシオン』)。
つまり相談者の感性や感覚、あるいは好みの傾き、ときには思考の傾きも、無意識のうちに育まれ、あるいは習い性となって無意識層に沈潜している社会的な関係の結晶なのだ。だから、自画像を描くというのは、自らの感性や感覚、好みの根拠を自らに問いただし、意識層に浮かび上がらせることに他ならない。そうしたときにはじめて、自分の選好がどういう社会的な継承性の産物であるかをみてとり、相対化することができる。
多様性を認めるというのは、(好みやセンスは)人それぞれよということなのだが、そう言って終わりにすると、「関わりの糸口」は断たれてしまう。糸口をつなぐのは、それぞれが背負っている社会性を、我がことと対照させて位置づけていくことだ。一つにまとめる必要があるのは、その好みやセンスによって共有している場が決定されてしまうときだが、ふだんの暮らしの中でそれは、そう多くはない。
じゃあ、関係ないって済ませてしまえるんじゃないか。そうなんだ。我関せず焉と感知しないのが社会的な作法になっていたりするから、社会的な振る舞いとしては知らぬ顔の半兵衛を決め込むのがいい場合もないわけではない。だが、自画像を描くというのであれば、我関する縁と考えて、自分の身の内の共振する部分を拾い出してみることも、面白い振る舞いとなる。
これが哲学するってことだと、私は考えている。美輪明宏は、「哲学を学べ」といっているが、哲学者の哲学した結果を勉強しても、よほど通暁しないと自分との接点を見いだすことはできない。それよりは、自ら哲学することだ。世間の評価と照らし合わせて自分の評価を際立たせ、その根拠を問うとき、自ずから社会の規範や常識のベースになっている感性や感覚が身の内から湧き起こり、その根拠へと迫ってくる。
おっ、これだと一度つかんでも、しばらくすると、それもまた(そうかな?)という自問自答に包まれることもある。それでいいのだと思う。「自分」ということ自体が、一つに固定的に捉えられることではなく、行雲流水の如くつねに移り変わっている。そういう移り変わりをものともしない自画像が描き出されたとき、だれが何と言おうと、あるいは何も言わなくとも、私は「わたし」だという動態的確信を手に入れることができる。
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