昨日昼、記事を書いてアップしようとしたら、インターネットに接続できない。いろいろ手を尽くしている間に、思い出した。何日か前、接続サービス提供元から「2日間程工事のためサービス提供を中断します」と「お知らせ」チラシが投げ込まれていた。それには日時などが記されていたが、そうと思っただけで、すぐ忘れていた。それが今日だったというわけか。オレっていい加減だなあと改めて思う。
電話が鳴る。「メールを送ったが、どうですか?」と問い合わせ。返事がないので、何かあったかと思ったようだ。「メールも見られない程のことがあったのか」というから、「いやじつは・・・」と説明する。お互い、歳はとっていても、メールを送って二日目ともなると返信が何のが心配になる。せっかちになっているという時代の速度感覚が身に染みているのと、身に何があっても不思議でない年齢という慮りもある。
ただ、音信手段が一つでないから、音信不通が放っておかれることはないが、逆に電話やネットがなかったときは、郵便での問い合わせになる。その時間的な悠長さの身体感覚と今のせっかちな身体感覚では、「かんけい」の受け止め方が異なるに違いない。
時間的な悠長さは「便りのないのはいい便り」という俚諺のように、受け止め方の側の想像力に任される所が多分にあった。その想像力が介在する分だけ、「かんけい」に「遊び」があったとは言えまいか。たとえ死んでしまっても、「遊び」の中で生き延びているというのも、「かんけい」を思いの中に委ねて保っているという意味で、現実と幻想との相互性をともにリアルそのものとして実感できていて、好ましく思う。お互いにそういう関係と思っていれば、何年別れていようと、会った瞬間に不在の間が埋まって、やあ元気でしたかと挨拶を交わすような気がする。
長い別れの間に、「あなた」が身に備えることになったであろう他国の人や風物がもたらしたであろう事々も、「遊び」に加わって、相手に対する「恐れ/畏れ」として感じるようになる。それが、「あなた」に対するリスペクトとして、取り交わす「かんけい」の各所に滲み出してくる。それとはちょっとニュアンスの異なる「思い」が「あなた」から「わたし」に向けて差し向けられるであろうが、それもまた、「わたし」から発せられるリスペクトの気風に見合う敬意を含み持つというのが、私の体験的な実感である。
郵便制度もなかったとか、庶民が便りを交わすことなど考えられなかった頃には、旅に出るということは永久の訣れと思って、別れの言葉を交わしたであろう。音信が取り交わされる社会システムが整うほど、「遊び」が保っていた「思いの丈」が消えていき、「わたし」がそう思うことと「あなた」がどう考えているかということが、距離を置かず、照らし合わされることになる。「わたし」が勝手にそう思っているが、「あなた」はそう考えていないかもしれないという齟齬が、「わたし」の思いの中に在処を占められなくなる。SNSが行き渡った社会に育った若者たちが、それに適応しようとしてせっかちになり、「返信」が来ないことに苛立ち、実は自分の「我欲」を相手に差し向けているだけに過ぎないのに、それに応答しないのは(無視したことであって)ケシカランといきりたつ。そんなふうに人間を変えてきていると、ストーカー事件などを耳にすると思ってしまう。(11/9)
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いま(11/10、15:30)やっと通じた。カスタマーセンターに電話をして、操作を教えてもらった。モデムとルーターの電源を一度抜いて、もう一度差し込む。それだけで復旧した。たぶん、使い慣れている人は、すぐにそうするのであろう。そういわれてみると、これまでも何度か、そういうことをしてきたことを思い出した。なんともお恥ずかしい。訓練しがいがないのですね。先ずはこれを、アップします。
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