今回の講師はミドリさん。「ジェンダーについて考えてみましょう」とタイトルを振ったA4版5頁のプリントを用意。その1ページ目に10項目に亘る今日の話題の表題が掲げられ、今日のステップを示して、途中で脱線しないように全体像を示している。
(1)ジェンダーとは?
(2)ジェンダー・ギャップとは?
(3)ジェンダーレス、ジェンダーフリー、ジェンダーバイアス
(4)LGBTQ+
(5)日本史の中の性差
(6)SDGs*ジェンダーの平等を実現しよう。
(7)性的マイノリティの人たち NY Pride parade
(8)レディーファースト
(9)天皇制とジェンダー
(10)宗教とジェンダー
(11)MY conclusion
生物学的な「性/sex」に、社会的・文化的な「性差」が加えられて「ジェンダー/性的役割」が生まれてくると話しが始まる。
インドの女児の(故に)堕胎された数を1994年~2014年の統計を示して例示する。インドではダウリと呼ぶ(女児の)結婚時の持参金が負担となって、男児の出生が歓迎され、女児が忌避されている実態を取り上げる。中国でも一人っ子政策が行われていたときには同じような事態が起きていたから、男系のイエ制度、職業・資産の相続がなぜ行われるようになったのかが問われていると、私自身の関心へ心持ちは向かいかける。
話を聞いていて、身の裡にふつふつと疑問が湧いてくるのを感じる。なんだろう、この「わからなさ」の違和感は? 「生物学的な性」と「社会的・文化的な性的役割の区別/性差」とは、「ジェンダーの平等を実現しよう」いう言葉でくくれるほど単純なことなのだろうか。いや、別様にいえば、そこでいう「平等」ってなんだ?
*
私はまず、J・M・クッツェー『モラルの話』を思い出した。ノーベル文学賞作家の小説だ。う~んと唸るような所収短編のひとつが「犬」。
通りかかる彼女に激しく吠え掛かる「猛犬」。勤めの往き帰りに、毎日二度、吠え掛かる。ジャーマン・シェパードかロットワイラーの大型犬。恐怖の色を浮かべる人に吠え掛かって支配欲を満足させているのか、あるいは、雄犬が雌人を見分けて支配欲を満たそうとしているのかと、彼女の想念は広まる。行き着いた先にアウグスティヌスが登場する。
アウグスティヌスは、我々が堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言っているそうだ。
「とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」
彼女はじぶんの「屈辱的な恐怖の臭い」を出さないために自制力をもてるか、と自分を励ます。だが、今日も駄目だ。そこで彼女は勇をふるって「猛犬注意」と張り紙を出している家の玄関の扉を叩いて、「なんとかしてくれ」と頼む。出てきた老夫婦は「いい番犬です」と言って取り合わない。
以上のような話。私は「女性」の生来的な「恐怖」と受けとっている。
「かんけい」によって生じていることを「身体制御」という実体に持ち込んで「堕落した生き物」と規定するアウグスティヌスを「いい番犬」と名づけているようにも読み取れる。
何でこれを思い出したのか。私もアウグスティヌス同様に「堕落した生き物」と自己認識するからだ。
もう一つの、どこかで見た詩へと連想が飛んだ。家へ帰って拾ってみたら、次のような断片だった。誰かがどこかで引用していたペルシャの詩人シーラーズのサアディの作品。
アーダム(キリスト教のアダム)の息子たちは、一つの体の手であり足であり、
彼らは同じ精髄からつくられている。
どれか一つの部分が痛みに苦しむと、
ほかの部分も辛い緊張にさいなまれる。
人々の苦しみに無頓着なあなたは、
人の名に値しない。
神の創造物である人間が、互いの共感性をどこかへ置き忘れて、「人を殺すのはなぜいけないのですか」と問う若者を生み出し、それに応えられないで立ち往生する大人の一人だとわが身を見つめ直す。ここも、わが身に覚えのあることを、訴えがなければ痛みとして感知しないセンスが、ベースを為している。
ジェンダーの問題は、身に染みこんで刻まれてきている社会的気配だから、改めて考えてみないとわからない。
しかも、社会的・文化的な性差が、自然発生的に形づくられてきたとすると、生物学的な性と切り離せない合理性があったはずだ。それを、「古い性差別観念だ」と切り捨ててしまえるのか。私たちが身を以て(社会的、集団的に)たどってきた道を、現代の合理性の観念で切り棄てることはできるのか。そんな思いがふつふつと湧き起こってきたのだった。
seminarの開催案内に記した「まえふり」があったから、先のオリンピック・パラリンピックの組織委員会の森喜朗会長の「女性蔑視」発言を、会長を辞任するほどのことかとみている私の書いた一節がミドリさんの俎上に上った。ミドリさんは非難するでもなく、淡々と私の発言を取り上げ、あたかも森喜朗と同じ「古い時代のオジさん」と見ているようなあしらいであった。ちょっとそこへ立ち寄ってみようか。
森発言を私は、下手なジョークと受け止めていた。というのも、誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話し、それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていたことを思い出していた。そのとき私は、ふ~んそんなものかと、私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して聞き流してたのだが、これも森喜朗と同じ女性蔑視発言なのだろうか。
「一人(女性が)発言すると私も発言しないではいられないというふうに女性は発言する(ので会議が長引く)」という趣旨の森発言は、会長という彼の立場からすると、どんなことをそこで言っておこうとおくまいと決定事態が変わりはしないのに、言わいでなるものかと発言するのを皮肉ったのだろうか。ま、その程度の森流合理性があったろうかと感知したわけであった。
だから、同席した他の委員も(森会長の功績に照らしてか?)咎めなかったのかもしれない。それがメディアに取り上げられ、森喜朗は何が問題なのかわからない風情で「謝罪」し収まったかにみえたのに、外国人特派員がそれを報道し、海外メディアが大きく報道して騒ぎになり、海外では(それではオリンピックに参加しない)とまで言うアスリートもいて、会長辞任にまで発展した。でもこの辞任劇の何処に、「女性蔑視」解消に関する日本の文化的な進展があったろうか。言われてみれば「女性蔑視」であったという追認はあったろうが、昔の古いセンスのオジさんの発言に何を目くじら立ててんのよと笑い飛ばすくらいが、日本のフェミニストの受け止め方ではなかったろうか。
いや、欧米メディアの「女性蔑視」を過剰反応といいたいのではない。そうではなくて、相変わらず日本のメディアも、組織委員会も、海外欧米からの圧力に弱かっただけじゃないのかと、自己の文化センスに定見のない政治家やメディアの現在を思ったのであった。
ジェンダー・ギャップを取り上げるとき、男女間の社会的な役割意識をギャップと言っているのか。それとも欧米と日本の文化的な差異の大きさが「ギャップ」といっているのか。この両者を取り上げる必要があろう。そしてさらに、欧米と日本の文化的な差異を、一つの基準で「ジェンダーギャップ/性差別」として論じるのは、いかにグローバル化の時代とは言え、文化の多様性に差し支えが生じるのではないか。
「ジェンダーギャップ指数」が日本は、アンゴラに次いで120位と言われても、男言葉/女言葉があったり敬語が三層(尊敬語、謙譲語、丁寧語)に入り組む日本語と単純明快で機能性に富んだ英語とが比較されて「女性の地位が低い」といわれているようで、それって、何を女性尊重と言っているのかさえわからなくなる。
いやそもそも「女性尊重」って言葉さえ、「女性を(保護する対象として)軽視する」発言と捉えられかねない風情さえ漂う。私の身に染みこんだ文化とともに潜在している「性差」を一つひとつ拾い上げて、考えてみるしかないか。まるで私が経てきた文化の総棚卸しみたいだと、改めて思っている。
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