伊藤亜沙『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020年)は面白い。人の五感の「触覚」がコミュニケーションのメディアとしてどのような働きをしているか、「触覚」を通じて人は何を受けとり、何を送り届けているか。それらを、目の見えない人のマラソンをリードする「紐」を通じて、分け入る。体育というのは、と発題して、「人の体に失礼でないように接する作法を学ぶ」と見極める。
そうそう、それこそが「心の作法」だよと、私はうれしくなった。でも、「体育」が「心の作法」を教えるってのか? そう思うに違いない。「触覚」って「さわる」ことか? と思うかもしれない。著者は「ふれる」と「さわる」の違いから分け入り、「さわる」の一方向性にたいして、「ふれる」の双方向性を対置する。「さわる」が、触る対象物をモノとして見ているのに対して、「ふれる」は、ふれる対象からの「応答」を敏感に感知する所を組み込んでいる。
実はそう単純分けていいのかどうか、読みながらちょっと戸惑う。施術者は「さわる」つもりであるのに、患者は「ふれられている」と受けとっている場合。「対象者」はモノなのだろうかヒトなのだろうか。そういう交通の齟齬は、郵便の誤配のように必ず発生している。実際に、リハビリの施術を受けているときには、先日も記したように、施術者がわたしの体の微妙な反応を指先で感じ取りながら経絡の要所を探り当てて、そこへ鍼を打つことをしている。これは、双方向のコミュニケーションと言えるのだろうか。モノとしてのわたしの体の(生理的な)反応は、わたしの「こころ」なのだろうか。コミュニケーションへの応答と言えるのだろうか。ちょっと違うんじゃないか。
もう少し微妙な、人と人との間の(かんけいの)想定が必要なのじゃないかと、ちらりと思う。
ともあれ、伊藤亜沙は、この「さわる」が呼び起こす身体的な反応の危うさを見逃さない。たとえば、リハビリのマッサージのような施術において「ふれる」ことが、性的な意味合いを帯びてしまうことに注目する。介護のときの「ふれる」行為が、性的行為のそれと重なり合ってくるとき、介助者と介助される人との「かんけい」はどうとらえられるのか。これは、じつに危ういが、だからこそと伊藤亜沙はいう。だからこそ、そこに「倫理的」である要素が介在する瞬間が生まれる、と。
道徳を「普遍的な善」と規定し、倫理を「具体的なある状況においてどう振る舞うか」と規定する伊藤亜沙は、「不道徳だからこそ倫理的でありうる」と論題を提示する。それが面白い。
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