このところ、カミサンのお出かけが多くなった。鳥と植物観察のほかに、映画や歌舞伎が加わったからだ。これまでも月に1回は映画などに足を運んではいた。だが、1年ほど前から古い気心知れた友人が定年退職後の延長仕事を辞めて、映画や演劇、歌舞伎へのお誘いがあるようになった。つい先頃も「(月に)4回はムリよ」と電話で話している声を聞いた。私はその友人の顔を見たことがあるだけで、言葉を交わしたことはないが、会うと話が絶えないらしい。先日も帰ってきて、幕間におしゃべりしていたら、係員が来て「会話はお控え下さい」という紙の札を見せて「叱られた」と話していた。
そのおしゃべりの一端で面白いことを聞いて、気にとまった。
《「町山智浩のアメリカの今を知るTV」に出てくる女優の藤谷文子って、何もしてないんだから出す必要がない》
とその友人が言ったというのだ。へえ、面白い人だ。この人は、何を見聞きしているんだろう。
もし彼女がいなければ、町山智浩のおしゃべりが止まってしまうと、まず私は思った。町山がTV視聴者向けに「アメリカの今」を、建国以来の径庭を交えて訪ね歩き、藤谷に話すように画像を交えてしゃべる。藤谷は、たしかに「ふんふん」と聞き耳を立て、「へえ、そう」と初めて聞いたように相槌を打ち、ときどき「そう言えば……」と身辺にあったことを付け加える。それが話の回天車のきっかけとなって町山智浩の「アメリカの今」が繰り出されてくる。対話って、そういうものだとも思う。
では「藤谷はいらない」という友人は、何を見聞きしているのだろうか。町山智浩のまさしく「アメリカの今」のテーマをしっかりと捉え、まさしく現在のアメリカの情勢分析をするように受けとっているのであろう。彼女は厳しい、彼女のセンスは際立っていると、カミサンはいう。「俗に染まっている」と自らを笑うカミサンと違い、先鋭的な演劇を見つけてはそれを観に行く。ドキュメンタリー・タッチの映画にアンテナを立て、カミサンに声をかけている。つまり彼女は、「現在の世界の問題」に直に関心を向けているのだ。他のことに気を向けるほど「遊び」がないと、傍観的な人はいうかもしれないが、それはたぶん、「世界の問題」に集中していて、他の夾雑物が目に入らない。
ではお前はどうなんだと別の「わたし」が問う。私はもっぱら、世界の傍観的な位置に立っている。何をするにも、手立てを持たない。ただただ、力のあるヒトが動かしている世界をみて、そうかなあとか、そうじゃないだろ、とか考えているに過ぎない。だから、夾雑物が目に入る。それどころか、ひょっとするとその夾雑物が、案外世界の駆動力の一端になっているんじゃないかとさえ、世界をみるようになっている。だから、「力のあるヒトが動かしている世界」というのも、実はその周りにうろちょろしている「夾雑物」があってこそ動いているんじゃないかと思わないでもないのだ。
藤谷の相槌があってこそ町山智浩の「おしゃべり」の繰り出しがあるという方がいいかもしれない。まあ、傍観者的な位置にいるからこそ、そう見えるような気がする。関心の傾きは、次元を狭くしてしまうけれども、その分、先鋭な切っ先を世界に突き立てる力を内包する。その鋭い切っ先を、俗に染まったと自称するカミサンが肌で感じていると思うと、世界って面白いとあらためて感じているのである。
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