立憲民主党の党首選挙が行われている。朝日新聞はその候補の見解をわりと丁寧に伝えているが、私の耳には「相変わらず」に聞こえる。
今回の衆院選で(事前の予想と食い違って)敗北したことを、議会制民主主義の枠内で捉えているから、政策提起をするとか、人々の意見に耳を傾けるとか、選挙のときの共産党との提携が良かったか悪かったかという次元でやりとりしている。そこを抜けないと、たぶん、だれが党首になっても野党の壁を切る崩すことにはならないだろうと私は思っている。というのも、今回選挙の焦点を、安部=菅政権にたいする批判として総括するのであれば、モリ・カケ問題やサクラの会の問題は、政治が人民主体ではなく政治か主体になっている象徴的な事象だということだ。
普通の庶民からすると、もう国民主権などということは「お客様は神様」と商業主義が唱えるのと同じ、「投票してくれる人は神様」と持ち上げている贅言に過ぎないとわかっている。主体となった実感を味わったことなどないからだ。簡明にいえば、「主権者のために」を合い言葉に、政策を見繕って差し上げ、どうだこれでと、自慢顔をしてみせるのが、政党や選挙の手立て。つまり主権者って、単なる一票であり、一票でしかない。
だが、この単なる一票の動きを動かすには、手間がかかる。マスとして動かすにはどうするか。SNSもマス・メディアも、世情を動かす立派なメディア。俺らを動員して新鮮さを演出する。他党をおとしめ自党を持ち上げるニュースを、フェイクであろうがなかろうが取り混ぜて流す。マス・メディアは「客観報道」とか「責任報道」と称して取り上げる。SNSは自画自賛ではないように見せかける装いもして、広がりを持たせる。
それらの「報道」のトップを飾るようにするのは、一つのイベントを演出して盛り上げるようなこと。博報堂など大手企業の知恵を雇い入れ、裾野の「噂」から頂上「決戦」まで、ピンからキリまで、あれこれ織り交ぜての広報戦術を駆使して、人々の心を揺り動かし投票行動へと結びつける。オリンピックなどの壮大なイベントを企画立案して実施する経験に、社会心理学や人間行動学、流行の最先端をつかみ、コントロールする技術を用いて、人々の動きを操るように差配してきたのである。操られる側も、決して自らが選び取ったという確信の揺るがぬように組み立てられた「総選挙」というイベントの結果が、実はそうするべくしてそうなっているかたちで、仕組まれているとも言える。
そういう社会に私たちは暮らしているのだ。陰謀論がはびこっていくのも、ごく自然なこと。人間工学を組み込んだサイバネティクスの社会、主体的にそうしていると思える情報社会が、日常、私たちの心中深く浸透しているのだ。国家を動かしている「主権」というのが、これほどの統計的な数値にすぎないというのは、戦後76年を経た結果である。
数えで傘寿という、この歳になって思うのだが、いまの日本の民主主義を根柢から変えようとする方策は、法制度や形式的に整えられた民主主義ではなく、主権者を「政治の主体」とする具体的な実践である。政治って政治家が牛耳ってるアレでしょと傍観するものではなく(いま私はそうしているが)、自らが腰を起こして、足を運び、政策立案に(意見を聞かれ、意見を申し述べて)参画し、具体化の運びを実感できるほどに身近なものにすることだ。
そのために政治家がいまやらなければならないことは、次のようになろうか。
(1)中央、地方を問わず政府が手に入れている「情報」を公開し、何が課題であるかを提示すること。
(2)人々から(1)の課題に関する諸提案を受けること。
(3)その諸提案を整理して、いくつかに絞り、それに関する諸意見を集約すること。
(4)最終的に絞った政策提案を、議会で、あるいは住民投票で、決定すること。
そんなめんどくさいことはできないよという人は、みているだけになる。投票にも足を運ばない人がいるのだから、ある程度、そういう人がいるのも仕方がない。
だが、加わろうにも、身体的、精神的に関わることができない人たちもいよう。そういう人たちには、障害となる諸条件をできるだけ取り除いて、参画するチャンスをつくるようにする。いや、政治課題だけではない。暮らしに関わるいろいろな障害を抱えて動きが着かない人は数多いる。そういう人たちが、何らかのサポートを得て、社会活動に参加できるようサポート体制を整えていくことも、「公助」あるいは「共助」としてすすめていけるようにする。そういう社会をつくろうという「運動」を、社会運動として起こしてもらいたいと思う。
そのような、生活や社会活動の隅々からの取り組みが始まることによって、政治家への不信感や諦めを超えて、私たちの暮らしに必要な「かんけい」を作り上げていく。そういう期待をもてるように、一歩を踏み出してほしい。それこそが、安部=菅政権ばかりでなく、香港やウィグル自治区や台湾に対する中国政府の圧政的姿勢を批判し、何を護るために何を為すべきかを、真剣に我がこととして考える一歩が踏み出せる。
日本の政治体制を「かくあるべし」と想定して、私たちにお説教する政治家は、もういらない。主権者の要求を聞き出して実現しようという政治も、いらない。共産党への不信感は、自民党の安部=菅政治への不信感と同じことだと私は考えている。つまり彼らは、自分たちのイメージに(日本の政治を)もっていきたくて、いろいろと手を尽くしている。耳に心地より響きは、いずれ地獄への道と同じだったと気づく。「主権者はお客様」「お客様は神様」という政治手法は、民主主義政体の最低のやり口。もう古いのだ。そういう時代を超えて次の民主主義社会をつくるには、私たちが主体として参画する運動する民主主義をつくることしかない。
世界に蔓延っている専制的な政治センス、権力を振り回して秩序を維持し、餌を与えるように要求をお膳立てする政治センスは、無用である。私たち自身が主体であることを培える民主化運動を、社会運動としてはじめようではないか。
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