第一日の島後のことで記しておくことがあった。水若酢神社や玉若酢神社の「まぜごはん」とバスガイドが紹介した建築様式は、「隠岐造り」と呼ばれているということ。また拝殿に向かう鳥居をくぐったすぐ左脇に、相撲の土俵が設えてあり、ここで奉納相撲が行われたと思われること。それと後で気づくことになったのだが、さらにその左方向奥の桜の木3本が紅葉して背景の民家の黒っぽさの前に美しかったこと。というのは、島前に行って漁師の話を聞くと、暖流に囲まれているので紅葉は遅い、と。だが、島後は島が大きいから寒暖差もあって紅葉が進んでいるという。わずかしか離れていない島の間にも、季節の移り変わりにそれだけの差があるのだ。冬も、島後は雪が積もるが、島前はここ七年くらいはほとんど積もらなくなった。気温も零下になることがないという話。
第二日(11/1)、やはり朝食も上等であった。多くもなく、手が込んでいて、気遣いが行き届いている。時間だけはせっつかれていたが、それが気にならないくらい、ゆったりと食事をとった気分になった。
今日も晴れ。全く寒くない。港へ出てみると、靄がかかっている。いや、秋だから霧というのか? 50mほどの高さで入り江の向こうの山並みの中腹を覆うように視野の左の方から右の方へ、何キロにもわたって雲が張り出して、幻想的な景観をなしている。
西ノ島に移動する。大きなフェリーが3隻。鳥取県の境港と隠岐の島々とを結んで、一日一往復しているから、結構な便数がある。他にも高速船が通っていたり、小型の船が島と島を結んで往来しているようだから、自前の観光客はいろんなプランを作ることができそうだ。船は1時間半。どうしてこんなにかかるのか不思議だ。島と島はさほど離れているように見えない。ただ、島の周りをぐるりと回って行くとなると、地図で見るよりも距離はあるのかもしれない。波は穏やかだから、ほとんど酔うような揺れは感じない。
日本海の穏やかさではない。「隠岐の内海」と呼んでいるようだった。海風に当たっていても、暖かい。暖流というが、それ以上に現在の気候がいい。海のはるか南方に背の高いビルが見える。添乗員に聞くと「島」という。だが、隠岐の島々にあんなに高いビルはない。本州から50kmというから、見えない距離ではない。境港か松江か。すぐ右手に、中ノ島の島影は見えてきた。
中ノ島の菱浦港は、木造の瀟洒なデッキを備えて、まだ新しい。いかにも「町おこし」に全国区の生徒募集を行った清新な海士町の気概を感じさせる。学齢前の女の子二人を連れた若い両親が15メートル程下の岸壁にいる。こどもが「おばあ~ちゃ~ん」と声を上げて手を振る。船縁から手を振る若いおばあちゃんがいる。会いに来て帰るところか。ということは、孫の親一家の実家が本土にあるのか。このばあちゃんとの別れようでは、孫一家は本土からのIターン組と考えた方がふさわしい。
港からバスで西ノ島の西端の展望台にゆく。ジオパークと呼ばれる国賀海岸を、入江を挟んだ何百メートルかの高いところから睥睨する。入り組んだ岩場が海蝕によって形を変え、600万年の海と陸のぶつかり合う営みを思わせる。削り取られて屹立する大岩、寄せる波に押し切られて中央がポッカリと空いてしまった通天橋、削られた断崖が250メートル余も垂直に切り立つ魔天涯、それらが外海の荒さと力を感じさせる。馬や牛がのんびりと草をはんでいるのが牧歌的という言葉を思い出させた。島には馬が50頭、牛が500頭いるとガイドはいう。隠岐牛というのは出荷されて神戸牛など各地の名前をつけられて売り出される。なぜ評判がいいか。「食べ止まり」とガイドは説明する。牛は足の強さで支えられる以上の体重になると、食べるのをやめるそうだ。高低差の大きいここの地で育った牛は足が丈夫で存分に食べ、しっかりと大きくなるという。初めて聞いた。面白い。馬は? と誰かが尋ねたかどうか知らないが、「牛は引きちぎって食べるから、草がちぐはぐに伸びている。だが馬は丁寧に喰むから草の掃除をしなくて済むという。なるほど。
バスは再び移動して、展望台から山を下り裾野をぐるりと回って通天橋を間近に見る海辺に下る。ダルマギクの群落があるとガイドからカミサンが聞き出している。なんだ、それ? 大陸系の植物らしい。何でも西ノ島には、南方系の植物と大陸系の植物の両方が見られるらしい。また、高山性の植物と北方系の植物とも併存しているという。火山性の、養分の少ない大地に600万年かけて、暖流に乗って流れ着いたさまざまな植物が根を張ってきたというわけだ。「独自の生態系」と島のパンフレットは自慢げである。
あった。ダルマギクは、崖の岩場に張り付くように点在している。群落という密生ではない。岩場にわずかな土を見つけて根を張り、しがみついて白っぽい青紫の花をつけている。双眼鏡を持っていたから子細に見えたが、崖をのぞき込むのを怖がってなかなか見ることができない人もいる。入り江の向こうの屹立する崖にも点在しているから、双眼鏡ではよく見えた。おっ、岩の先端にイソヒヨドリが一羽止まっている。
「高山植物は。ほらっ、ここに」とガイドはしゃがみ込んで指さすが、おばさん達がのぞき込んで場を占めるから見ることはできない。なんでもヒロハゴマキとかエゾイタヤがあるらしい。
風化と海蝕の力はすごい。吹き付ける風が岩をボロボロにし、打ち寄せる波が岩を剥ぎ崩す。それが600万年もかけてぽっかりと穴を開けるまでになった。大きな岩と岩に橋を架けたような風情から通天橋と名付けたのであろう。脇から見ると色の違う地層が曲がりくねって積み重なっている。ジオパークの名にふさわしい。
海辺に鳥居がおかれ、小さなほこらがあった脇にあった古い立て札に、こんなことが記されていた。
《……この絶勝は筆舌に尽くしがたい。頼山陽は耶馬溪を見て筆を投げたというが、その十倍も美しい国賀をみたら目を回すかもしれない》
う~ん、どうかなあ。
港の傍らにある「由良比女命神社」を参拝する。ここの本殿の千木の先端は水平に切ってある。伊勢神宮内宮の千木と同じだ。鰹木は3本、奇数であった。島後の神社はいずれも千木は垂直に切られ、でも鰹木は奇数というちぐはぐだが、それが「隠岐様式」といえば、そういうものなのだろうと、感心した。
昼食を済ませ、港から船に乗り、国賀海岸を、今度は海から見に行く。港は西ノ島の中央部だから、ほぼ島の裏側へ回り込むと思っていたら、ショートカットのルートがあると、船を出す鶴丸のスタッフが話してくれた。回り込むと2時間かかるところが、開鑿水路を通ると10分程で外洋に出られるという。入り江の奥へ行くと、幅11メートルの水路が開かれて外洋へ出ることができる深さは3メートル300mほどの開鑿を西ノ島の住民がやったと船長は話す。
外洋は、慥かに波は大きいが、でも風もなく、さほど揺れない。今日は穏やかなのかもしれない。日本海の西側に出たわけだ。陸から見た国賀海岸を海から見る。さすがに250m余の断崖は見上げる程屹立している。船室の外へ出てもいいという。なるほど風は少し冷たいが、心地がいい。海蝕洞穴という波が削り取った大きな穴が、いくつも空いている。これからも侵食は進むであろう。海から見る通天橋の地層の褶曲は陸から見るより一層見事であった。
予定通りに外洋を先へ進むのは、ちょと危ないと船長は判断したのであろう。もう一度クリークを通って内海に戻り、先端を回り込んで知夫里島の赤壁を見せようとした。だが、やはりこちらも外洋へ出たところで、船が大きく揺れ、引き返すことになった。
こうして1時間40分程で港へ戻り、分宿する宿へ向かった。港を見下ろす高台に設けられた宿。高低差のある地形を生かしてか、あるいは継ぎ足し継ぎ足ししてそうなったのかわからないが、小さい段差のある廊下がくねって続く。昔風の国民宿舎って感じか。205号室がフロントの一階にあるかと思えば、階段を下って風呂場や広間があり、そちらも海を見下ろす庭に面している。
ここの夕食も、海鮮が豪勢であった。イカそうめんのお造りは食べきれない程の分量。食べ物を残すことを良しとしない私は、苦しいほど食べ、それでもイカの1/4を残すことになった。(つづく)
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