ガソリンの値段が上がっていることは、車に乗っていれば、ピリピリと感じる。でも、温暖化を防止する手立てを講ずるには、最適な環境ではないか、とも思う。つまり、ガソリンや石油製品が値上がりする。それらの利用を(やむを得ずであれ)控える。石油の採掘元のOPECは、産出量を減らして値を上げ、国家の財産の失くなるのをできるだけ先延ばししたいのだから、温暖化防止とちょうど見合っているじゃないか。
そう言えば思い出したが、1970年代のオイルショックの頃は、「このまま石油を使い続ければ、(石油は)あと何年持つか」を数値で出していた。30年で枯渇するといっていたが、それから50年経っても同じ騒ぎをしている。石油の値が上がったことで、採算の合わないとみていた採掘が行われるようになったと理解していた。また、それでも石油がとれなくなったときを考え、シェールガスという新手の化石燃料を作り出してきたのだった。
半世紀前と違うのは、温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようという要素が加わったからだ。それを主導しているのはヨーロッパ。フランスは原子力にドイツは再生エネルギーに舵を切っている。
だが、後発の中国やロシア、インドなどは、欧米の先進国がCOPを通じて温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようというのは、先進国の身勝手。自分たちは先に存分に化石燃料を使っておいて、あとから追いかけている国に使うなというのは、勝手すぎるじゃないかと批判している。それをCOPの会議では、先進国が化石燃料からの転換を図る技術を後発の途上国に無償で提供しろと(先進国に)迫ったが、まとまらなかった。
先進国でも、トランプのように「温暖化の危機」はフェイクだとCOPからの離脱を掲げたりしたから、ますます先行きは不透明になっていた。バイデンが登場して、息を吹き返し、どうやら次の一歩へ踏み出そうとしている矢先、石油の値上げがやってきたというわけだ。バイデンが呼びかけて、備蓄分を放出しようと呼びかけ、日本も追随することになった。しかしそれも、バイデンのアメリカ中間選挙向けの弥縫策と揶揄される程度の効果しかあるまいと、各地のエコノミストは冷笑している。
そりゃあそうだ。OPECに対抗して石油を放出するくらいなら、イランに対する経済制裁を解除すれば、イランは石油を輸出するし、OPECも減産=値上げをやっていることができなくなる。これは以前、第二次オイルショックの時に打った手と同じ、そのときも大産油国イランが貢献している。
逆にCOPの立場に立つと、OPECの減産=値上げは、国際会議の合意に苦労するより先立つべき政策である。むろん石油を止めても石炭がある、天然ガスがあるから、そう簡単に世界全部がCO₂削減に向かうわけではないが、自動車や航空機、船舶という最大の輸送手段の削減に、これほど有効な手はないと。だが欧米も工業諸国も、そうは動かない。
そう考えていて一つ思いつくこと。庶民大衆は、ガソリンが高くて手が届かなくなると、車を捨てる。電車やバウに切り替える。自転車に乗る。歩く。遠出をしなくなる。つまり、「状況」に適応するしか、生きていく方途はない。それはたぶん、あちらへ行きたいこちらで遊びたいという心裡の「欲望」を押さえることへ向かう。
「欲望を止めろ」というのではない。これまでの、お金を使う商業主義的誘惑に向かう「欲望」から、自らの体を使って移動し、気候気温に適応し、興味関心を満たす方途を探り、そのための環境(たとえば図書館とか映画館とか演劇場とか博物館など)を整えていく「欲望」に切り替えていく。商業主義的消費から自律的な遊びへと向かう文化的な転換を図るのが、一番賢明ではないか。
つまりこうも言えようか。バイデン政権を初め、各国の政治指導者が採る政策は、商工業第一主義の資本家社会的な暮らし方への誘惑であり、私たちの日々の暮らしを堅くそれに結びつける方策ばかりに満ちている、と。私たち庶民大衆は、その誘惑からぼちぼち離脱して、自らの心裡を満たす暮らし方を真剣に考える時が来ているのではないか。
そう考えてみると、石油のことはほんの一つの発端だったとわかる。コロナウィルスがそもそも、私たちの反省を迫っていたことは、資本家社会的な(商業主義的な)物量と宣伝の溢れる生活ではなく、静かに佇まいを整え、ときどき内心を見つめながら、人と人との関係を穏やかに保っていく暮らし方ではなかったか。
ガソリンが高くなっても、困ることはない。庶民大衆の暮らし方の知恵は、どうあっても生きていく力を持っている。あの戦争までやって、なおいま、こうやって生きてきているのだから。
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