コロナの感染が少し収まってきたからか、我が町を歩いても、少し人が多くなったかなと思う。旅に出て東京を経由したりすると、いや、実に人が多いと驚く。
都会暮らしに味をしめたのか、ただ、働き場所を求めて集まってきただけなのかはわからない。たぶんその双方が互いに相乗作用して、集まることになってしまったのだろう。
てんで勝手勝手に、経済階層もピンからキリまで、文化の深浅も達者なのから門前の小僧まで、居座る期間も、腰を据えるのからお試し来訪まで、種々雑多な人が寄り集まってきた結果だ。迎える側も、住宅建設や公共インフラや交通網や商店街なども、そのときどきの、その地区ごとに寄り集まりったひとたちの具合に応じて、何とか(まずは自分たちが、加えてそこへ参入する人たちの様子を見計らいながら)暮らしていけるように、経済計算をしつつ、暮らしや仕事や文化やインフラに連なる街づくりをしていくことになる。
「都市設計」というほどの意志的な街造りは、トヨタが富士山麓に試みているスマートシティのようなケース以外は、ほとんど為されていない。それが、自由主義的な社会の成り行きってヤツよと、為政者は考えているのだろうか。たぶん為政者も、「都市計画税」というのを徴収していながら、その実「都市計画」というのは、街の「有力者」のご要望に応える断片の継ぎ接ぎばかりである。何処を商業地域に指定するか、住宅地区にするか、耕作地域に指定するか。建築基準をどう定めてもらって、納める税は極力少なく、資産はできるだけ高くとどまるように計らうか。そういうことが有力者の胸算用である。あるいは、行政と商業企業が大規模な建築や不動産事業主と提携して、駅周辺の再設計をするという、本格的な街づくりも各地で行われた。そういうときに、障碍者や子ども、お年寄りに優しい街づくりが行われたりしていて、緩やかに「普通でない」、マイノリティの人々への配慮がみられるようになった。あるいはまた、治安保持のための警察関係者の要望を入れて、「アーキテクチャー」と呼ばれるプランニングも組み込むことが行われている。
自分が、年寄りという、身のこなしが普通でない有り様(マイノリティ)になってみると、都市設計以上に、人が集まりすぎていることの方が、なにかと面倒だと痛感する。 よく整備されていても、人の流れというものがある。駅のホームなどは(時間帯にもよるが)渋滞を引き起こして流れを断ち切ることになるのは、「普通でない」マイノリティのわが身であったり、階段を、手すりに身を寄せて、歩一歩と身を持ち上げているお年寄りだったりする。街を歩いていて、「邪魔だ、ジジイ」と罵声を浴びせて若い男が自転車ですり抜けていったのは、まだこちらも血の気の多く残っていた60代であった。振り向いて「なんだバカやろう」と言い返そうとしたが、すでに相手は走りすぎていた。近頃の若い人は結構優しい人が多いとは思うが、街中の渋滞の元凶に出くわすと、「くそジジイ」と罵りたくなっているのかもしれないと、首をすくめる。
となると年寄りは、混雑する時間帯に、混雑する場所に近寄らないようにするほかない。早めに家を出る。電車に乗るときも一本遅らせてもいいように、心得る。乗り換えもそうだ。まして旅に行くときには、荷物がある。これは、わざわざ、わが身に負荷をかけて障碍を体験するようなことだ。エレベータに乗るにしても、ホームの人があらかた思い思いの方向へ散ってから、移動するようにしなくてはならない。元気なときはエスカレータを駆け上がっていたが、荷物を持ってとなると乗って動かずに運ばれて行く方がいいことが、実によくわかる。
こういうことを思うと、都会に人が集まり、さかさかと時間を刻むように振る舞い、列をなして移動する街の暮らしというのは、どこか基本的なところで間違ってんじゃないかと思うようになった。いや、間違ってると思うなら引っ込んでればいいわけではある。だが都会におけるヒトの暮らしが、そういうストレスに耐えてでも引き合うものなのかどうか。毎日何億円というトレードをしている人が、カップラーメンをすすって、目を赤くしてモニターをにらんでいる日々を送っているのをイメージするのと同じ、バカなことをしているんじゃないか。都会の人達すべてが・・・、と思うのだ。
そういうことを程々にして、静かに暮らしたいという、身が不自由になった年寄りの声を聞き届けた「都市設計」を、どなたかやってくれているのかしら。
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