2021年11月19日金曜日

ハビトゥス

 いま手元にピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』と『ディスタンクシオンⅡ』の2冊がある。「社会的判断力批判」とサブタイトルのついたこの本、じつはカミサンが図書館に予約して借り出したもの。えっ、どうして? と私は思った。ふだん「俗に塗れている」と自称しているカミサンが、どうしてこんな堅い本を読むんだ?

 聞くとブルデューというフランスの知識人が、自らの足下を掘り崩すような研究活動をした金字塔のような本だ、ぜひ読めと友人に奨められたという。

 知ってる?

 そりゃあ、知ってるさ。どこかに書き置いたことがあったはず。

 ブログをチェックしてみると、6年前の12月にブルデューの名が出てくる記事が3回あった。

「西欧を日本に橋渡しする気質」(12/20)で加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』(講談社選書メティエ、2015年)の読後感を記している。

「闘う人生ということ」(12/23)で映画「ヴィオレット」を見て、フランスの文学世界にデビューする出自による差異をボーボワールと対照させているのを見て、ブルデューに触れている。

 「「難民」はどう抵抗するか」(12/29)で「ハビトゥス」に触れている。

 カミサンは2冊の『ディスタンクシオン』の目次を眺めて、「これは歯がたたん」と投げ出した。その傍らに、岸政彦『100分de名著 ブルデュー・ディスタンクシオン 「私」の根拠を開示する』(NHK出版、2020年)がある。その友人が貸してくれたという。これが面白かった。岸政彦という方がどういう方か知らなかったが、私の息子の少し年上という感じの方。社会学者であり、文学にも手を出していくつか小説を書いているそうだ。

 何が面白かったのか。ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んだ衝撃とそれから受けた影響を「私」の裡側に触れて記しながら、ブルデューの提起した「ハビトゥス」や「趣味」がどのように社会構造に規定されてあるか、それがどのように「文化資本」として社会的に作用しているか、それをになっている主体である人が、どのようにそれを自らの選好として認知して、階級的な差異まで内面化しているかを述べている。それが社会秩序の保持に作用し、人々の主体幻想に力を添えているかと、「人生の社会学」に言及する。

 それと同時に、社会学が「現状を保持する学問」といわれていることにも目を配り、「ハビトゥス」が「他者の合理性を見る目」に影響して、多様な人がいるという大雑把な多様性の受容ではなく、人それぞれの合理性を理解することが安定的な社会関係を築く第一歩と確信していることを示している。

 まさにそう、と膝を打った。社会の現状に対して奮う力の無い私たちが、にもかかわらず片隅で社会的な「ハビトゥス」を培っていくために働いていることは、実は日々の一つひとつの挙措動作に拠るものだと考えている。それは、文字通り砂粒の一つひとつが、社会の主体として立ち現れる姿だと思わせた。

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