夜中に目が覚める。夢を見ていた。
1990年代中頃のこと(らしい)。私が職場の人たちをまとめる要職に就いていて、強く主張していたことが、管理職によって拒絶され、ついに引っ込めることになった(らしい)。交渉から戻ってきた同僚が「記録」を見せ、それの最後には「行動と矛盾」と、私に向けた非難の言葉が記されている。この同僚は、20年も後に(長い疎遠のあと)山を一緒に登るようになり、ちょっとしたことから諍いになり、絶縁してしまった、私より一回り以上も年若い人だ。「記録」を読んでどうしようかと考えている所へ、もう一人の同僚が姿を現す。「まいったねえ、どうする?」と声をかける。その瞬間、「すぐに退職するよ、オレ」と言うと彼は「いいかも」と応じた。この「いいかも」さんと出会ったのは1992年。私より5歳くらい若かったが、立ち居振る舞いが絶大な信頼感を醸し、よく一緒に山を歩いていた。その後に大きな職場の構造転換問題があって、私がそのモンダイに関する先鋒を引き受けていたなあと思いだしたから、1990年代の半ば(らしい)と考えたわけだ。
いや、それだけの夢。考えているうちに目が覚めて、何で今ごろ、あのモンダイを思い浮かべたのだろうと思案している。勿論そのとき私は、退職もしなかったし、転換した構造のもとで開拓的な仕事をしたと思っているし、「いいかも」さんも私と行を共にしたから、(そのモンダイへの対処にも、その後の関わり方にも)わだかまりがあったわけではない。そしてまた、その構造転換がその後(現場に残っていた人から話を聞くと)、なし崩しにされて、今やすっかり構造転換前と同じ職場になってしまっているとも知ったが、それが私に関係があると思ったこともない。すでにどうでもいいことと思っている。
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今振り返ってみると、その構造転換を意識的に進めていく準備が、職場の人たちにはできていないと私は見ていた(と思う)。行政からそうせよと言われてきたから(仕方がない)と軽く思っただけじゃなかったか。その状況に楯突きたかったから、構造転換するとはどういうことかと、準備期間の2年の間、毎週のように「職場新聞」を発行し、論陣を張り論点を整理して提出した。そこで提示した問題が、準備を進める間に差し迫ったことととして目に見えてきて、それに対するいろんな角度からの声も、その「職場新聞」に掲載されるようになった。
それが構造転換の問題から逸れて、あの人はそんなことを考えていたんだとか、コイツは学生の頃、そんなことをアルバイトでしていたんだとかまでオープンになり、「構造転換」ができて試行段階となり、本格始動するようになってからも、「職場のコミュニケーション」として持続することになった。つまり、構造転換の副産物として「コミュニケーション誌」が残ったのであった。2003年に私が定年退職して「職場新聞」は終了となったが、その後5年ほど経って「いいかも」さんと会ったとき彼が、「ああいう、コミュニケーション誌があるとないとでは、一緒に仕事をしているという関係性が違うね」と、思い出して話していたのが印象に残っている。
よく労働組合の広報誌のように発行されている「職場新聞」はある。いや実際に私が発行していたのも、元はといえばその「広報誌」のようなものであった。それが、現実の構造転換がどう進捗するかという緊張関係を持ったとき、管理職を含めた職場の「会議」において、その「職場新聞」に掲載した私の論調が取り上げられ、私も「会議」において言い足りなかった所や関連して考えたことを取り上げて掲載するようにしていた。そういうモンダイ提起に耳を貸さず、事態が切迫してきたときには、管理職に対して「あなたの所にも(この新聞は)届いているんだろ、よく読めよ」と論難する人もいて、たんなる「広報誌」ではなく、ほぼ職場の「コミュニケーション誌」としての位置を得たのだと思っていた。
最近、コミュニケーションに関する本を読んでいたら、所謂広報誌のようなのを「伝達的コミュニケーション」と呼び、取り交わす言葉となったときのことを「生成的コミュニケーション」と専門家たちが呼んでいると知った。つまり当時のわたしの「職場新聞」は、伝達的コミュニケーション誌としてスタートしたのが、成り行きもあって「生成的コミュニケーション」に変化していったのだと思った。そうなったとき初めて、「コミュニケーション」というやりとりが成立しているのだ、と。そして、そのやりとりこそが、実は肝心なことであって、そのメディアを通じて取り交わされる論題とか論議は、どうでもいいのだと(人の営みを考えてみると)言えるように思う。
この「どうでもいい」という感懐は、その構造転換がその実を結ぶかどうかも、その現場を離れることとなったものにとっては「どうでもいい」ことと思うのと同じである。人と人との関わりに関しては、生成的コミュニケーション自体が意味を持つのであって、その動態的な作法が、どのように展開していったか、そこに、関わった人々の思いがどれほどに映し出され、取り交わされていく実感を伴ったかが、問われているのである。
私たちの日々のことばでも、高見に立っているとか、上から目線とか非難されるのは、伝達的であるに過ぎないという批判なのだ。やりとりを通じて(最初の発信者も)変容していく姿を見せなければ、とうてい生成的コミュニケーションとはなり得ない。新聞もTVも、双方向と言うことを言うのであれば、やりとりを通じて「変われよ」という叫びを聞き届けなければならないのではないか。SNSというメディアが文字にしていることは、ことごとく、世の中に向けたそういう「叫び」だと思っている。
「じゃあ、すぐにでも退職するよ、オレ」というのは、すでに、そういう生成的コミュニケーションの「現場」を失っている無意識の、自戒の言葉なのかもしれない。
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