1年前(2021-08-30)の記事「地図を喪失する」を読んで、昨日と一昨日の記事に付け加えたくなった。この両日の記事は、画像メディアが直に感性に作用するために思索が飛んでしまうことを読書と対照させて考えたもの。底堅い思いを口にすることなく保つことが持続的な身のこなしに通じると、時代物の小説を読んで触発された。口にすると(その思いが)虚ろになる、色即是空と見て取ったと、いつもの結論に持っていった。
だが、1年前の記事では、藤原辰史の「発酵」という観念を媒介にして、超越的な眺めと即物的な感覚とが身の覚えとして一体化すると、「心身一如」の方へもう一歩踏み出している。1年前に一つ足場を得ていたのに、それを忘れて、「いつもの結論」に跳ぶというのは、その思考が身に染み付いたからなのか、思考過程が粗略になったからなのか。いうまでもない、粗略になったのである。
画像文化の横溢は、百聞は一見にしかずという俚諺を証明するかのように受けとられた。絵画や漫画が写真に代わることによって迫真性が増したが、絵画や漫画がその制作者の目を通したものであることを隠さないために、みる者は「ほんとかいな」と思いつつ受けとる隙間があった。この隙間で、書いた人のデフォルメとか消去されたモノを勘案しながら絵画や漫画を見ていたのだが、その照らし合わせるときにわが身の感性や思索のセカイを覗いていた。この「ほんとかいな」と(認識主体が)みる行為を「たましひ」の振る舞いと考えていたから、写真に撮られるとき「魂が吸い取られる」と人々が恐れたといえようか。「真を写す」ことが「隙間」を失う、つまり(写真を見る)主体が介在する余地を失うと表現していたのだと思った。
その静止画の写真が動画となり、観ることそのものが急かされるようにもなった。これは、時間が外在化することである。遠方にあるモノが距離を縮めて眼前にLIVEとしてみえる。距離が縮まるのに反して観る瞬間にしかみえない。オモシロイ。録画とかネットで繰り返し観るという、メディアと時間を飼いならす方法も出現しているが、それとても、何回も繰り返し時間をかけて観るようなことはマニアでもなければしないから、市井の庶民にとっては、画像がLIVEで流れている瞬間に受けとる「世界像」が、そのまま直に感性と認識世界に流れ込み、思索の中で「(主体的に)発酵する」ことなく、世界観として(主体の)セカイに定着する。それがワタシなのだ。
世のメディアの発達は、そのようにして人を変える。人の感性や世界観に作用して、当人が気づくことなく(まさしく主体的に)いつしか変わってしまっていく。だから私は「(わが)こころ」の主人なのかと疑いを持って吟味しないといけなくなってしまう。つまり主体であることは間違いない個体が思っていることさえ、その根拠を確かめつつ受けとる時代の波の中に、私たちは浮かんでいる。
幸か不幸か、歳をとって私は、TVを観ているのがメンドクサクなった。映画も2時間くらいが適当で、それ以上長いと分けて観るようになる。ドラマもすぐに飽きてしまって、もういいやと途中で投げ出すことが多くなった。身が我慢できないのだね。
いや実は、本を読んでいても、身の我慢ができなくなっていることを感じる。ちょっと誇大にいえば以前は、読み進めながらわが身の違和感と同時進行のように対話が進み、著者の言わんとすることと文章から受けとる印象とのズレを、考えるともなく思っていた。だから読み終わってメモを取るときに、該当のページをもう一度繰って引用を正確にして措くこともできた。ところが、その同時進行がどんどんズレてできなくなった。立ち止まるしかない。立ち止まって考えているうちに、著者が想定していたであろう展開の子細を書き込んだ大枠がどこかへ行ってしまい、結局読み終わって、2,3日胸中に放り投げておくうちに、なんとなく思っていたことが再びボーッと浮かんで来ることもあれば、それっきりとなって消えていって仕舞うことも多くなった。惚けたのか、それとも自然の劣化なのか。
歳をとると身の裡に時間が引きずり込まれる。外部の時の流れに身が合わせられず、結局身の動きに応じた過ごし方しかできなくなる。その(外部時間との)ズレが「隙」となって、巧く作用しているのかもしれない。わが身の受けとる感触が、わが身の所為か、時代の潮流が醸しだしているものなのかわからなくなっている。せめて身の裡で発酵するときを持つようにしているのだが、わが身の発酵の時は、いつしかわが身の秋(とき)となって消えていくことになる。
ま、だからといって何か不都合があるわけでもないから、ほどよく付き合うしかないか。
0 件のコメント:
コメントを投稿