2022年10月1日土曜日

秋空のワタシ

 10月になった。朝の空気が少しひんやりとして心地良い。抜けるような青空ってこういうのを言うのかと思うほど頭上は青く、雲は遠方低くに遠慮がちだ。

 そろそろ山歩きに出かけようかと思っているが、家の事情で足止めを食っている。6月からはじまった団地の給水管給湯管改修工事が個別住宅の屋内改修になってきて、今月の上旬から中旬にかけて10日間、それに合わせて浴室のリフォームが3日間ほど業者が出入りする。我が家だけでなく、わが階段の5戸を一斉に行うから、作業者がいつもいるわけではない。世帯の誰かは、在宅して下さいとなる。

 目下、その居室作業のために、資材置き場や作業空間を空けるために「片付け」をしている。先日は本を少しばかり片付けた。昨日までに、古いパソコンやオーディオ、デジカメ、CD、DVD、漆器や陶器も始末しようと玄関口にビニールシートを敷いて、畳1畳分ほど並べて、業者に来てもらった。

 お金はどうでもいい、捨てるに忍びないからといってみてもらったのに、業者は、おしゃべりしながら品定めをして、結局デジカメ3台とCD、DVD30枚くらいを持っていき、大型のPC類やオーディオには手も触れなかった。なんだこれでは、断捨離にならない。

 オーディオ機器は粗大ゴミで処分できるとわかり大崎処分場へ持っていくことにした。デスクトップPCと小型ノートパソコン3台の処分先を探している。こんなに処分業者が多いことも知らなかった。またこんなにお金を支払って始末してもらう人がいることにも、驚きであった。ひとつ、おおきな家電量販店の下請け会社が、宅配便で受け取り側負担で送れば無料で処分してくれるとわかり、これから梱包用の段ボールを近くのスーパーでもらってこようと考えている。これを送り終えれば、給水管給湯管の作業受け入れの準備は整う。

 やはり断捨離は、追い詰められないと重い腰が上がらない。山へ行くどころではないなと、溜息をついている。

 もちろんこれは、お金を使わずに身辺整理をしようと、根がケチだから手間暇がかかるのであって、親父の遺品の始末ということになれば、わが息子は何の躊躇もなく、遺品整理業者に頼んで、数十万円を支払ってさかさかと片付けてしまうであろう。そういうものだと思うと、子どもたちが家に残していった物なども、躊躇わずゴミに出せばいいのだとカミサンには言う。でもそうかな、と自問が起こる。その躊躇う所に、子育ての時のいろんな思いが付け加わってハハオヤとかチチオヤの、現在に至る一つのステップが築かれたのじゃないか。そう思うと、無碍にもできないの。その自分の身に堆積する形跡は、言葉にして外へ預け置くようにして始末しようというのが、私の今とこの先の粗筋のような気もする。年寄りの身の始末とは、そういうことではないか。

 相変わらず、その日その日のデキゴトに眼が行って、なかなか人生を振り返るってことができない。でも、いいんだ、それで。結局これまでの人生の集積が、この身なんだから、昔の出来事を振り返っても、何ほどのことがあろうか。それくらい見切りなさいよと、もう一人のワタシが呟いている。

 そうそう。今日の秋空のように、空っぽなんだよワタシは。人類史がやってきてわが身を通過し、中性子のように素通りしてどこかへ行ってしまう。その一瞬の通過感に、おやなんだろうと胸騒ぎがしたり、世の中そんなものかと思ったりして一喜一憂し、それもすぐに何処かへ飛んで行ってしまう。それこそ地上のgermの面目躍如ってもんじゃないか。秋空のように空っぽなんじゃなく、秋空と一緒に空っぽなんですよ。秋空のワタシ。

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