2022年11月30日水曜日

遅いも遅いよ、河野クン

 河野デジタル担当大臣が「マイナンバーカードの義務化」ということを「保険証」について言った。何をいまさらと、私は嗤っている。そもそもマイナンバーカードは、そのためじゃなかったろう。税金の効率的把捉のためじゃないか。むろん、全国民の社会保険制度ができている日本なのだから、保険証と一本化するってこともおかしくない。だが本末転倒ではないか。

 いやもっと本末転倒と思うのは、国民がマイナンバーカードを所持するその前に、行政システムを完全にデジタル化しておかなくちゃならないじゃないか。それなのに、明治以来の「文書主義」を、コロナウィルス時代になっても貫き通しているから、全国の状況把握さえ、スムーズにできない。それどころか、お役所の所管事項の監理さえきちんとできていないことが、実務的な場面でぽろぽろとこぼれ出てしまった。

 私ら庶民は、こうなって初めて、やっぱりそうなんだ。お役所って、エラソーにああだこうだと言っていたが、中味はスカスカ。外面ばかり取り繕って、知事や議員や有名人には気遣いするが、下々にはエラソーに権限を振り回すだけ。ちっとも戦前と変わっていない。マイナカードがそもそも目指していたのは、税収の元になる所得の全量把握をするためなんだろう? 猫の首に鈴をつけるのを躊躇って、保険証からってのが、まずお笑いだよね。やっぱり「経済脳」でしか考えられないから、金持ちの首に鈴はつけられないのかい?

 河野大臣は気づいていないだろうが、大枚2兆円ものご褒美付きでマイナンバーカードが広まったと思っているかもしれないが、馬鹿にするんじゃないよ。私ら庶民からすると、何だこんなことに税金使いやがってと、せめて税金を取り戻そうとしてカードを作っただけよ。

 個人情報満載の大切なマイナンバーカードを保険証みたいに持ち歩いて、病院やクリニックへ行く毎に出し入れするなんてアブナイことをするのが良いとは思わない。でも、マイナ保険証だと初診料は安くなるよと耳にしたものだから、クリニックへ行くと「使えるの?」ときく。どこもここも、いまのところ全部ダメ。そもそも「紐付け」したはずの「保険証」情報がクリニックに届いていない。それにみているとわが主治医は、相変わらず手書きの「カルテ」だよ。古くからの「私の体調記録」らしく、「*年前に急性心筋梗塞で市立病院へいったね」などと書き込んである。山歩きをしているということまで書いてあるようだ。ま、私より一回り若い医者だから看取ってくれると信頼しているけどね。マイナ保険証でなくても、十分アナログで主治医は務まっていますよ。

 そもそもデジタルを構想するのであれば、アメリカがゴア副大統領の時に全土にネットワークを敷き整えたように、国家が命令するに相応しい体制転換のインフラ整備を大がかりにやらなくちゃあダメでしょうが。それを、民間の競争に任せて整備しようなんてケチな了見を起こすから、いまだにNTTだKDDIだyafooだとアンテナ争いだけで。ずいぶんとつまらない費用を庶民は大手企業に支払う羽目になっている。

 もともとそれが狙いといえば、ま、それはそれで達成されているわけだけど、その分、お役所のデジタル化の方は、遅々として進まず。だって、アナログで十分やっていける程度の規模の地方自治体は、大枚はたいて、中央政府の情報収集に協力するいわれはないわよっていいたいくらいじゃないかしら。

 今ごろ「マイナカードの義務化」をいうのが、如何におかしいか。このブログでも1年前に愚痴をこぼしている。

《「失われた*十年」の意味すること》(2021-12-14)

《経済脳になってしまった統治》(2021-12-16)

 と更にその1年前の

《進む技術、遅々たる社会的手順》(2020-12-13)

 では、30年前の仕事現場でもデジタル化のことを記している。

 そうやって振り返ってみると、このブログを始めてからも16年目に突入している。私がeメールアドレスを取ってから30年ほどになるか。私に遅れるようでは、ホントに日本のデジタル化はダメだよ。お粗末だよと、わが身のアナログ育ちにつくづく閉口しながら、思っている。ホントだよ、河野クン。

2022年11月29日火曜日

溜めが利かない

 モンティ・ライマン『皮膚、人間のすべてを語る』(みすず書房、2022年)を、まだ読んでいる。少しずつ、毎日不思議を感じながら読む。記述されたメカニズムを私は、実はよくわかっていないと(なぜか確信に近い感覚で)思っている。ただ全体イメージが、何となくつかめて不可思議さに満たされて「ワタシ」の身を感じる。もうそれだけでいいような気がしている。

 30兆個もの細胞がワタシをつくってるんだって。最大それに3層倍する微生物が、細胞のあちらこちらにくっ付いているっていう。えっ、100兆個だよ。そりゃあ凄いね。そんなにたくさんのウィルス規模も含めた微生物の棲み家にわが身がなっているなんて、どこに潜んでいるんだろう。ライマンさんは、皮膚の表面の凸凹の合間に潜むシラミのことも書いているから、微生物採集の旅にも出たのだろうか。

 おっと、細胞や微生物を、一個二個と数えていいのか。生物学の研究者はウィルスなどのことも一頭二頭と数えると、昔、本で目にした記憶がある。とすると、30兆頭の細胞と100兆頭の微生物が一頭のわが身に潜んでるってワケか。わが身も大宇宙だな。

 その記述の中に、アトピー性皮膚炎のことを書いている件があった。むろんいろんな食品が作用もするらしいのだが、赤ちゃんの時に「おしりふきを使いすぎて石鹸成分が肌に残り、脂質のバリアが乱れる」とあったのには、驚き以上の衝撃があった。「おしりふきやウェットティッシュがどこまで関係しているのかはまだわかっていない」と断っているから、決めつけているわけじゃないが、思わぬ伏兵って感じがした。

 そうだよね。80歳になったわが身さえも、子細にみればよくわからないことだらけだ。昨日、冬タイヤに履き替えた。今の車に変えた8年前までは、タイヤの履き替えは自分でやった。今の車になってからはタイヤ館へ持っていって、やって貰うことにしてきた。履き替えて家へ夏タイヤを持って帰り、庭に入れて、車を駐車場へ戻しに行こうと思ったとき、尿意を感じた。ま、まだ保つだろうと車を駐車場に置きに行ったが、帰ってくるときには、走るように戻ってトイレに駆け込んだ。感じてから、催すまでが驚くほど短くなっている。なぜこうなるかわからないが、膀胱の溜めが利かない。ほんのつい先頃、70代にはまだまだ溜めが利いたように思う。機能的な劣化が発生し始めている。短くなるが身近になる。

 カミサンに話すと、「そうよ、赤ちゃんも年寄りも、お漏らしの世話、って言うのよ」と笑っている。そうか、女性って強いなあ。こんなことで驚いたりしないんだ。わりとライマンさんのように、「おしりふきやウェットティッシュがどこまで関係しているのかはまだわかっていない」とクールにみているんだ。これも凄いねと、感じ入る。

 午後、録画したアニメを一本観た。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」、事件後の京アニ制作の作品という。カミサンは劇場で観たそうだ。主人公が、彼の人と会いたくてしかし会えないとわかって、船に乗る。ああ、ここで終わりだと思って私はトイレへ立った。だが、エンドロールへ入る前に、その後のハッピーエンドへの道行きが、これでもかとばかりに描き込まれている。う~ん、リアルとセンチメンタルとは違うんだよなあと思いながら、でも、こうやって、亡くなったアニメータのことを心裡で落ち着かせなくちゃならない人もいるわなと、エンディングはどうでもいいように思っている。

 夕食に蕎麦を打った。左手掌がうまく動くかどうか。年越し蕎麦が打てれば、先ずは今年もうまくいったと笑って過ごせそうだ。信州の蕎麦。はてどこで買ったろうか。まだ痺れの残る左手掌を使って粉を捏ねる。水をケチるように少しずつ加えて、頃合を測る。何となくうまく運んだ。延べると結構大きく広がった。1分40秒、湯がく。うむうむ。うまくいった。腰も強くいいできあがりだ。天ぷらの掻き揚げが美味しい。左手掌の中指の第二関節が痛む。ま、この程度なら無事に年は越せそうだと、まだ十一月なのに、年越しを思った。

2022年11月28日月曜日

やはり野に置けモミジやカエデ

 承前。2日目、つま恋リゾートを出発するのは8時15分。ゆっくりであった。そうそう、とんでもない失敗をするところであった。朝食に行って部屋に戻る時間があまりないことから、大きな荷物をフロント前に預けるとしていた。だが、わりと時間はゆったりとあり、歯磨きやトイレもあって一度部屋に戻った。出発時間になってバスに乗ろうとしたとき、カミサンがバス・トランクの荷物を確かめなくちゃと覗き込んだ。

「ないよ」

 という。えつ、自分で持ってくるの? と聞くと運転手がそうです、と応える。慌ててフロントのところへいくとポツンと一個だけ私のキャリアバッグが置いてある。あぶない、あぶない。そう言いながらバスに戻るとカミサンが、

「キーは戻した?」

 と聞く。ああ、そうだ。ポケットに入れたまんま。キーをフロントへ持っていく。ま、こうして無事に出発したのだが、大分ワタシは怪しくなっている。

 掛川から大井川に沿って遡る。大井川がこんなに幅の広い川だとは思わなかった。いま水の流れているところは細いが、砂地が広がっている。上流にダムもなく、雨の多い季節ともなると越すに越されぬ川となったのであろう。何度も山をくぐるトンネルを通過する。一行は17人、中型のバスであるわけが分かる。すれ違うこともできないところが随所にある。2時間ほど走って大井川鐵道の千頭駅につく。ここは大井川線と井川線の乗り継ぎ駅。井川線はアプト式鉄道になっており、この千頭駅で車両も代えなければならない。バスはしかし、更に奥へ向かい、接岨峡温泉駅近くまで私たちを運び、そこから千頭駅へ向かう井川線に乗せる。接岨峡温泉は南アルプスの最深部・聖岳や荒川岳、赤石岳などから流れ出る大井川の源流からの流れを受けた畑薙ダムの下流に設えられた井川ダムの下にある盆地状の集落。ここにもお茶畑がある。鉄道は1時間に一本くらいの割合で、更に奥の井川まで往復している。

 私たちはトロッコ電車(と呼ばれている)でひと駅だけ、わずか6分ほど乗って、奥大井湖上駅で電車を降りる。ここは大井川が大きく蛇行しているところへ天狗石山の稜線が突き出している先端部分に、少し下流の長島ダムにせき止められた湖を渡る橋を架け、ポツンとひと駅設けているだけのところ。駅舎の上には「湖上駅cafe」が置かれているだけだが、観光客が押し寄せているせいか、駅員が二人ホームにいて整理に当たっている。線路に沿って湖上を歩く歩道が設けられ、駅から50mくらいの標高差を上る階段のついた遊歩道がある。それを伝って対岸の上の方を走る道路に出たところでバスが待ち受けているというコース。遊歩道は往きと帰りの人でごった返している。風もなく、雨の予報を裏切って曇り空。薄日が差して、最高気温12度といっていたが、寒くもない。

 バスに乗り、少し千頭よりへ戻ったところから西の方へ道をとり、寸又峡へ向かう。行ってみて、行く前の私の記憶に勘違いがあったことに気づいた。昔南アルプスを縦走したとき、その日本百名山の最南端を聖岳と思っていたのが、じつは光岳であった。光岳を下山して、寸又川の左岸を21km歩いて辿り着くのが寸又峡であった。

 そのときのイメージでは小さな集落と思っていた。ところが入口のバス停は広く、旅館や土産物屋が軒を連ねる。結構賑わいのある山間の集落。15分ほどは食べ物屋や温泉施設のある町歩きの感じ。中ほどのお店で、炊き込みご飯の握り飯を売っていたので、それをお昼にしようと勝手リュックに詰める。お兄さんは、「この町(のウリ)は温泉だね」と言っていた。1968年の金嬉老事件で立てこもった旅館のことを訊ねると、お兄さんは「ああ、そこだよ。左っかわ」と指さす。事件後人手に渡ったが、手入れはちゃんとしてあったそうだし、金嬉老自身、「ずいぶん迷惑をかけた」と恐縮していたと話してくれた。西側の広い庭に向いた明るい家であった。

 ほどなく町が切れるところにゲートがあり、その先が寸又峡のハイキングコースになっている。大間ダムもあるから、作業従事者の車は通過しているが、一般の人はゲートをくぐって、「環境美化募金」の寄付をして「寸又峡プロムナードコース」へ踏み込む。

 寸又川の源流は光岳とあるのに、おにぎり屋のお兄さんはすぐ西側の山を指さして、光岳ってそこだよと言う。昔あった登山路も今は廃道だとつけ加えた。えっ、下山して歩いて21kmだったはずと私は返すが、自信たっぷりに「そこだよ、そこ」と繰り返す。あとで駐車場に「山岳図書館」というのがあったからそこへ入って地図を調べてみた。やはり私の記憶通り。光岳はやはりう~んと上流。寸又峡の右岸へ出て来るルートになっている。

 川の上流に天子トンネルがあり、それをくぐったところに大間ダムがあり、湖は「チンダル湖」と名がついている。チンダルってなんだ? この湖の色がエメラルドグリーンやコバルトブルーに見える現象のことを「チンダル現象」と、イギリスの物理学者の名前を採ってよぶらしい。その湖の湖上に吊り橋が架かっている。「夢の吊橋」と名がついているが、目下そこへの通路が崩落して通行止め。ただ上の散策路から湖面が見え、そこに架かる長い吊橋が一本、見える。木の間越しにみえるそれは、ヒロハカツラやミズナラ、コシアブラ、メグスリノキなどカエデの黄葉に彩られて、美しい。昨日の寺社に似合うのは紅葉の方で、やはり野に置け黄葉やカエデってことか。

 往復2時間ばかりの散歩道。杖をついた人や二人の人に両腕をかかえられた女性が奥の飛龍橋まで歩いて往き来している。湖側もさることながら、山側も急なガケ。落石防止の金網が二重に張られている。所々、大きな穴が空き、崩落が止まらない気配を感じた。

 更にその奥の尾崎坂展望台までは健脚の方だけとガイドは言っていたが、飛龍橋から片道10分くらいのところ。その先は、「工事関係者以外は通行禁止」とあり、扉で閉鎖されていた。驚いたのはその展望台のトイレ。新しく、ウォシュレットであった。大学生だろうか、若い男の3人組や小学生の子ども連れの親子などが元気に歩いてきていた。

 この日の歩行は、21700歩。16kmになった。今年の黄葉・紅葉は少し早いとガイドは言っていたが、寸又峡の黄葉はちょうど頃合いも良く、色合いも見事であった。そうそう、紅葉・黄葉について一つ感じたこと。お寺や神社もそうだが、野に置いても黄葉・紅葉が見事なのは、切り取り方によるのではないか。寺社の建物や樹林、野に於ける木の間越しや湖の色合いと形、あるいはメタセコイヤのすっくと立ち聳えるような黄葉が背景の緑の山肌との対照でひときわ美しく映える。それにわが美意識がくすぐられているのではないかと感じた。面白い旅であった。

2022年11月27日日曜日

寺社には紅葉がよく似合う

 一泊二日で静岡県の紅葉狩り。初日は県西部のお寺と神社を巡る。気配では、浜名湖近くにまで脚を伸ばしたようであった。だが森も山もまだ、緑々している。遠州森町と聞いてすぐに石松を思い浮かべたのは、やはり戦中生まれ戦後育ちの広沢虎造浪曲世代だからか。なんと大同院の入口には森の石松のお墓がある。そればかりか、本堂にお参りすると、三度笠を被った森の石松のミニチュア銅像が、ご本尊というより前座を務めるかのように鎮座している。曹洞宗って、武士の心構えかと思っていたが、任侠の世界も組み込んじゃうって、オモシロい。こんなに自在なわけ?

 とはいえ、境内に入るとしっかりとモミジが彩りを添えて、本堂の後ろに控えるお山の深い緑を背に、世の移ろいを象徴するように、淡く儚く美しい。鐘撞き堂の四隅の支柱の合間から覗く黄色と赤に染まった木の葉が日差しに照り輝き、梵鐘の暗さと見合って見事な情景を演出する。カエデの仲間が植栽に用いられ、緑の森の中に見事に映える。あるいは、本堂の高見から石段下を見下ろしたときの木々の合間を彩る赤や黄色の葉の色の見事さ。紅葉はやっぱりお寺さんだなと思った。

 次に訪ねたのは、そのすぐ近くの小国神社。ガイドが入口の紅葉が一番ですかねと言っていたとおり、鳥居をくぐるとほとんど紅葉は、ない。神と人の仲立ちをするという鉾執社(ほことりしゃ)の祠の脇に小さなイロハモミジが一本。広い池の中にかけられた朱い神橋のを場に黄色く染まるカエデが二本という具合。代わって、樹齢が一千年という「大杉」が「御神木」の名を付されて何本も屹立する。そのうちの一本は昭和47(1972)年の台風で倒れ、切り払われた大杉の、周囲9mの株が残されている。切り株の上に檜皮葺きの屋根がかけられ、その屋根に草生す苔がびっしりと生えている。こうやって樹齢に相応しい処遇をするのだと思った。またぽつんとオオモミジが朱く染まって一本立つ。

 初めは何本かの木が大きくなるにつれて合体し、絡み合い大木になった「ひょうの木」というのがあった。説明書きには「イスノキ」とか「ユスノキ」と呼ばれるというので、ああ、檮の木だとわかった。高知県の檮原町の名の由来となった木だが、その由緒由来が「古事記」などから説き起こされて記されている。

 本殿も人が列をつくって参拝しているが、ここも紅葉らしき彩りはこれといって、ない。信仰心がない私は、なんでここが「紅葉見物」の舞台なのかわからないなあと思いながら、表参道を外れた小川沿いの道を戻ろうと東の方へ寄って、驚いた。

 小川の上流からずうっと覆い被さるように黄色と赤に染まる紅葉に覆われ、少し西へ傾いた日差しが差し込んで、ひときわ彩りを輝かせている。そのまま帰路に着くのが惜しく、上流部へ踏み入り、石伝いに小川を渡って対岸の小径へ上がり、そちらの森を抜けて駐車場の方へ降りていった。イヤなるほど、これは見事。紅葉は寺社に似合うと、神社もつけ加えた。

 最後の訪ねたのは油山寺。真言宗智山派のお寺さんという。筆塚もあり、そうか、弘法大師は三筆の一人だったと思い出す。奥へ奥へとガイドは行けという。「一万年の極盛相」と銘打つ「天狗谷の自然林」へ分け入り、最上段に瑠璃光如来の幟旗を掲げた薬師如来をご本尊とする金堂が甍を聳えている。途中の滝の水で眼を洗うと眼病にも効くといい、「足腰の守護神」を標榜する大権現も祀られている。庶民信仰の願いを全部引き受けて御利益を授けてきたようだ。

 こうして効用/紅葉巡りをして宿に向かったのが、掛川のつま恋温泉。いや、話を聞くまでここがあの吉田拓郎やかぐや姫や中島みゆきのつまごい音楽フェスティバルの会場とは知らなかった。ずうっと群馬県の嬬恋村を会場としているとばかり思ってきた。聞けば、ヤマハの設えたリゾート地だとか。東京ドーム何十個分という広大な地域を開発して宿泊施設ばかりでなく、ゴルフ場やテニスコート、ゴーカートから野外フェスを行う広場など、ゆったりとした場を設けている。宿泊施設も、露天風呂へ行くのに巡回バスに乗ってゆくという。もう暗くなった時刻に着いたために私は館内の大浴場にいったが、それも、南館から北館までフロント間を通って600mほど歩くという遠さ。こういう場を宿につかうのなら、それこそ連泊して、どうぞ、ごゆっくりというのでないとイケナイ。

 こういう遊びに縁のない暮らしをしてきたのだなと、わが人生の偏りを発見した気分であった。(つづく)

2022年11月25日金曜日

もうひと遊び

 勤労感謝の日は一日中の雨。父ちゃんも母ちゃんも、子ども連れで遊びに行くことはないよ、ゆっくり骨休めしなさいっていうお天道様の思し召し。いや、とんでもない。家に居る方が大変なんだよ、子どもってとぼやく声も口をつく。

 私ら爺婆は、遊んでくれる孫もいなくなって、ひっそりと昔の勤労を感謝して過ごした。そうそう、ちょうど夕方に五一ワインの新酒が届くと、電話があった。いいねえ。半世紀ほどのお勤め、ご苦労さんってさ。こんな日に届くなんて、洒落てるじゃないか。

 赤3本と白3本の半ダース。ならば鍋なんていわないで、白なら寿司、赤ならピザ。ピザがいいなとカミサンは言っていたのに、午後になると寿司の方がいいという。どうして? 北本の昆虫観察ついでに植物観察の下見をしてきたカミさんは、お昼代わりにチーズを食べたりしたものだから、胃袋はすっかり西欧風になっちゃって、イタリアンはもう結構と身が言っているそうだ。

 じゃあ、寿司にしよう。私の好みの新鮮寿司魚屋がある。新潟の漁港から直送していると声高だ。家から2.5kmほどのところ。雨が降っている。ちょうど歩いて往復すると1時間ほどでうまいお寿司を買ってくることができる。

 というワケで、買い出しに行く。風がないせいで、傘を差してとぼとぼと歩くのは、心地が良い。人気もないのが、余計好ましい。寿司魚屋は混んでいた。駐車場に入れない車が片側二車線の歩道寄りの車線に長い列を作っている。私は、何と何を買うか決めているから、混雑の中を、ハイごめんよと言いながら、寿司の陳列に向かい、人群れの隙間に割り込んで、お目当ての品をちょいちょいちょいと籠に入れる。醤油やガリ、山葵は勝手に取って行けっておいてある。手が届かない。

「あっ、ごめんよ。ちょとそこの山葵と・・・」

 というと、隣にいた、やはり買い物客のオジさんが

「ハイよ、これくらいでいいかな」

 と適当に摑んで、ぽんと私の籠に入れてくれた。この受け答えといい、摑んで入れる動作のテンポといい、まるで落語でも出て来るみたいに気持ちの良い遣り取りであった。江戸に戻ったみたい。

 会計を済ませ、荷をリュックに入れ、まだ5時にならないというのに暗くなった片側二車線道路の歩道をさかさかと歩き、人気の途絶えた脇道に入ってからはとぼとぼと歩く。水溜まりを避けながら右に左に足元が揺れて、何だか雨に唱うって曲が頭の中で響き始める。

 帰宅すると、ちょうどワインの配達が届いたところ。まだ5時だけど、夕食にするかとワインを開ける。TVはちょうど大相撲の中継をやっている。ニュースは夜のワールドカップ、ドイツ戦の予想や宣伝で浮かれている。カタールの会場づくりで3700人を超える作業員が死亡したのに抗議して、ドイツが腕章をつけてゲームに出ようとしたのを、FIFAが禁じたという報道もニュースになっている。何だFIFAも結構IOC同様に、金権主義なんじゃないか。スポンサーに気遣ってビールの提供はカタールの反対を押し切って実施するとも言う。なんだかねえ。

 そして一日明けた朝、早く起きていたカミさんが「ドイツに勝っちゃったよ」と新聞を見ながら私に告げる。ドイツはすっかり、やる気をなくしちゃったんじゃないかね。それに気づかないで、日本はつい勝っちゃったんじゃないかなあ。それもつまんないなあ。

 サウジみたいに祝日にしてくれと、ねぼけまなこの勤め人がぼやいている。何言ってんだよ。サウジの皇太子が何をやったか忘れたわけじゃあるまい(えっ? そんなこと知らねえよってか)。口にするのも、汚らわしいと熟睡した私は言ってやりたいが、アメリカ・バイデン政権も、彼の皇太子がサウジアラビアの政府の首班になっちゃったから、当面ジャーナリスト殺害のことは問わないとさ。ドイツもコイツも。

 天気は良い。風が少し強い。カミサンを町中の公民館へ送り、車を駐車場に置いて私は、自転車でリハビリへ行く。北風に逆らって自転車を漕ぐ。何のこれしきと思うだけで息が切れる。年をとったねえ。

 病院は静かだが、ひとで溢れている。リハビリ士のお兄さんは手掌の固着した線維をほぐすのにいろいろと工夫をしてくれる。医師はほとんど、そういうアフターケアに関心がないのか、首を傾げるだけ。何となく、回復力を失っているわが体がダラシナイと非難されているように思う。医者よりリハビリ士の方が、遙かにわが身のゲンジツに寄り添ってくれている。これって、何よ。医療って、何よ、と思う。

 帰宅してお昼を済ませ、一泊二日で遊びに行く準備をする。カミサンが長年行きたいといっていた寸又峡。一つは金嬉老事件で名を知った。もう一つは、南アルプスを縦走し、最後の聖岳を下山して20km歩くとこの寸又峡に着く。この行程をカミサンの百名山に付き合って一緒に行ったのだが、生憎というか、うまいことというか、聖岳で一緒になった単独行の登山者が、クルマできているから伊那側に降りれば鉄道駅まで送るよと声をかけてくれ、つい日和って寸又峡はお預けになった。そのリベンジ(?)ってわけ。

 おっ、時間だ。ではでは、行ってきます。 

2022年11月24日木曜日

不可思議と畏敬の思い

 本を読んでいてある記述に遭遇し、2年もご無沙汰している友人に手紙を書こうと思いました。その文面を記します。

K****さま

 如何お過ごしですか。コロナにめげず、順調に齢を重ねていらっしゃいますか。

 ひょんなことから、十四面体によってわが身が護られていることを知り、お便りするします。いや、それだけのことなのですが・・・。

 スコットランドの数学者であり、物理学者でもあったケルビン卿ウィリアム・トムソンは(絶対零度の導入などに貢献したことで有名ですが)、後年の彼は完璧な泡の構造を求める研究に取り組み、1887年に次のような新しい問いを立てたそうです。

《ある空間を体積が等しい立体の集合によって満たし、立体同士が接している境界の面積が最少になるとき、その立体はどのような多面体になるか》

 ケルビン卿は最適解を求めて計算をすすめ、最終的に十四面体という答えに達し、これを組み合わせると蜂の巣のような美しい構造になることを示した、というのです。

 当時彼の研究は、「まるで泡みたいな研究だ」とずいぶんと揶揄われたようです。

 これはしかし、百年にわたって誰にも注目されず、自然界との関わりも薄いと考えられてきた。ところが2016年に日本とイギリスの研究グループが特殊な顕微鏡を用いて人間の表皮を観察し、皮膚の一番表側の層に出て来る前の死んだ細胞・ケラチノサイトが表皮の一つ下の層・顆粒層に押し上げられたときに、この多面体の形をとることが発見された。

 ということが、皮膚の研究者・モンティ・ライマン『皮膚、人間のすべてを語る』(みすず書房、2022年)に紹介されていました。

 おおよそ世間離れした正多面体がどこまでコンピュータ・グラフィックで描けるかというあなたの試みが、五角120面体にまで達した、それがどういうことを意味するのか、言葉が見つからず絶句したことを思い出します。

 あなたのそれよりも遙かに少ない、わずか十四面体として、自然界で作り出されていたこと。それも皮膚という、わが身の、まさしく灯台もと暗しの足下で、それも最も身近で、日々目にし、触れ(私はそこに「こころ」が宿されているとみ)ている皮膚の表面で、そのような精妙な神業が営まれていたことを知って、驚くと同時に、畏れ多いことに触れたように思っています。

 奇しくも、あなたの多面体のデザイン画を北浦和公園でみて、言葉を失ったことを思い出し、あらためてあなたの営みがそういう神の領域に迫っていたことだと思いあたり、お便りを差し上げようと思った次第です。

                                      *

 実は私は、「こころ」が皮膚表面にあると考えてきました。皮膚というのは「眼耳鼻舌身」と指摘される五官の中の「身/皮膚/触覚」と考えられていますが、実はそれらの五感官が受けとった刺激はすべて「身」で以て総合され、外界と自分との関係として感知されています。その関係を感知するセンサーを、私は第六感・「こころ」と表現していると考えています。「身」と「こころ」を同じもののようにいっていますが、「心身一如」という意味で、ひとつのこととみなしていると受けとって下さい。

 さて、北浦和公園では、あなたの関心は正多面体に対する美意識に源があると思っていました。ゲームのようなコトとも言えましょうか。それに向き合っている時には、他のことを忘れ、まさしく忘我の境地、瞑想の域にいると思え、羨ましく思っていました。

 この皮膚表面に現れる十四面体の体の不可思議な働きは、「身」「こころ」の精妙な働きに相当するくらい、見事なわざ。ホモ・サピエンスのおおよそ十万年、人類史の八百万年を遙かに超えて、35億年の生命体の歩んだ過程を綿々と受け継いできた結果だと、あらためて思っている次第です。同時に、身体という自然の造形に数理的な作用が働いていることを不可思議に感じるとともに、畏敬の思いを更に深めています。

 その最末端にいるワタシという、ほとんど宇宙次元でいえば、ゴミどころかウィルスにも当たらないほどのケチな存在にも、それがしっかりと受け継がれ、埋め込まれている。そう思うと、涙が出るほどの感動を覚えます。と同時に、生命体の99.9%は死に絶えてきたという生命史の研究と重ねると、本当に様々な偶然に、子細をたどれば、それに十層倍する幸運に恵まれてここまで来たのだと思わないではいられません。

 先月、とうとう満80歳になりました。着実につかい尽くした身の、経年劣化を覚えながら、相変わらずよしなしごとを書き付けて過ごしています。

 もう二年もご無沙汰をしています。相変わらずコロナも勢い盛んですね。

 気をつけて元気にお過ごし下さい。   2022/11/23 F***

2022年11月23日水曜日

勤労感謝の日

 ウクライナは寒さに震えている。

 ロシアのお得意戦術、ナポレオンからナチスまで、いずれも冬将軍を味方につけて追い払った。でもそのときウクライナはロシア帝国やソビエト連邦の一角であった。いまロシアは寒さと核を味方につけてウクライナばかりかヨーロッパを震え上がらせてやろうと、マチの構えを取っている。

 DNAに刷り込まれた得意技を駆使するために発電施設を破壊する。いやそればかりではない。ウクライナが奪還したヘルソンの取材を聴くと、占領から撤退するときに街の徹底破壊をしたという。そうか、これも「戦争と平和」という映画で観たことがある。敵に糧食と寒さを防ぐ家屋を与えないで焼き払うという、やはり伝統的戦術だ。

 コトここに到ると、原発かどうかはどうでもいい。温暖化がどうなるかも構わない。コロナウィルスの話しだって、ウクライナでどうなってるってニュースにならない。背に腹は代えられない。

 だいたい日本だって、戦果に見舞われているわけでもないのに、もうフクシマのことは忘却の彼方に押しやって、耐用年数を延長して原発の稼働をすすめようとしている。寒さに震えるっていう生物的限界レベルじゃない。今の経済水準をいささかも落としたくない。株価を落としたくないって動機が強力に働いているのだから、笑っちゃうよね。喉元過ぎれば熱さ忘れるってことだ。

 その原発村と呼ばれる国家・企業・学会一体の秘匿体質と、ちかごろ大手製造企業で表沙汰になっている製品の強度などの検査を誤魔化す体質が一体になっていることをどう表現できるか。こういう「地味な」テーマをエンタテインメントに仕立てて、ミステリにしようというのが、真保裕一『シークレット・エクスプレス』(毎日新聞出版、2021年)。

 フクシマから十年目というのを狙ってもいたのであろうが、世間の熱はとっくに冷めて、引退後「原発を即時にでも廃止」を反省の弁を声高に口にしている元宰相でさえ、ほとんど構われることがない日々だ。物語りにするのに、著者が四苦八苦している気配が伝わる。

 読み始めてすぐに物語りのおおよその肝がみえてくる。だが、エンタメ的に仕上げるのには、大がかりな事件が起こらないとオモシロくない。しかしそれをやると、原発村の秘匿主義を上回る、ロシアのようなウクライナ侵略的な悪意を盛り込まねばならない。それをやると反原発をすっかり悪者にしてしまう。これは、リアリティから離陸することなく物語を紡いできた作家としては、飛べない枷になる。社会派作家が、象徴的にもリアリティから離れないで、エンターテインメントを盛り込んでミステリに仕上げる限界なのではないかと思わせた。その限界を突破しようとすると、麻生幾になってしまう。

 ちょっと辛口の物言いになるが、この物語りは、新聞記事などで周知の原発村の隠蔽体質を、自衛隊を絡めることで「軍事機密」的に覆い隠す国家機密次元に仕立て上げて完璧を期す。その綻びを、一部内部告発を交えて、取材記者と反原発ネットワークの連携と、輸送担当機関の大真面目な安全確保の信念を糸口にしてほぐしていく。だが読者は、このどこにエンタメの工夫があるのと、拍子抜けを味わう。これがドキュメンタリーなら、成程ここまでやるのかと、それぞれの、メディアの記者、輸送メディアの企画、実施担当者、原発研究の最先端技術者、それぞれの企業の経営責任者、反原発運動の当事者のご苦労に、賛辞を送るところだ。だがそれがフィクションとなると、えっ、こんなもの? と、ゲンジツから離陸しきれない物語性の薄弱さに、つまらなさを感じてしまうのだ。

 では、どう物語りを紡げば、心裡に残るのか。

 もしこれをフィクションとするのなら、社会的な(隠蔽体質とか秘匿主義という)システムを背景に押しやって、現場の仕事人の悲哀を、個人的な、しかし誰もが避けて通ることのできない事情を絡めて、直に読者の日常感性に呼びかけるように、紡ぎ出すしかないのではないか。エンタメにはほど遠いかもしれない。だが、人を描く。人を描いて、その背景に確固として揺るがない社会システムと対峙させ、その哀感を浮かび上がらせる。

 そう考えてみると、真保裕一という作家の描く主人公的な登場人物は、市井の庶民ではない。どちらかというと、社会のリーダー的な位置を身に纏っている人たちである。そういう立ち位置の人は、社会システムを、自身の力では動かし得ない確固たる壁と認識することなどないのかもしれない。もし、その設定する人物の思い違いを描き出せば、原発村の秘匿体質も、国家社会のリーダーたちの隠蔽気質をも、お寒いゲンジツとして取り出すことができたかもしれない。

 寒いのは、ウクライナばかりではない。いや、心底寒いのは、むしろ今、ここの、日本なのかもしれない。 

2022年11月22日火曜日

急に5歳、年をとった

 一昨日のこと、風呂上がりに体重計に乗ったら、概ねいつも通りの重さであることが分かった。ふだんはそこでスウィッチをOFFにするのだが、この体重計は体脂肪率などを計測する表示がつづいて出て来る。それを見ていたら、体内年齢は64歳と一週前にみたのと変わらなかったが、足腰年齢が75歳と、1週間前よりも5歳、多くなっている。これはどうしたことか。カミサンに話すと笑っていたが、後で計ったカミサンも、やはり、ふだんより5歳多くなっているという。何だろう。体重計が歳をとったのかねと笑っていた。

 昨日カミサンは、体重計が元に戻ったという。水を飲まなかったから、一昨日は増えたんじゃないかと、何の根拠もないことを口にする。でも良かった、やっぱり体重計の気の迷いがあったんだと思っていた。ところが私が計測すると、体重は一昨日より300g多かったが、足腰年齢は75歳のままだ。参ったねえ。どうして私には、こうも冷たいんだろう。

 この1週間、何をしたろうか。足腰年齢が衰えるような暮らしだったろうか。

 毎日の歩数と距離は、スマホが記録してくれている。覗いてみると、最少歩数は700歩、2.7km、最大歩数は22300歩、17km。平均すると一日、12800歩、9.5km。なんだ、以前と変わらない。

 毎日意図して1万歩以上を歩いているわけではない。買い物とか、病院や図書館へ行くとか用があるときに、基本往復10km程度なら歩くことにしている。最大の17kmというのは金曜日。午前と午後に二度、10kmと7km程度の用があったからだ。この日は忙しかった。歯医者に行き、図書館へ寄り、生協へ買い物に行ってくるのが午前中。午後はストレッチで1時間半の運動をした。最少は木曜日。銀行に寄ってお金を引き出し、郵便局の口座に入金した。オプションの内装が完了し、その支払いを近日中にしなくてはならなかったからだ。本を読むのに夢中になっていたりすると歩きに出ないこともある。

 今週は雨の日が1日だけ。後は曇りか晴れであったから、歩くのに汗もかかず、快適。これから冬にかけては、歩くのに良い季節なのだ。

 さて体重計のこと。今のところ私の推論は、こうです。

 この体側の計測表示は、各年齢の平均値を基準にしていると思われる。私の誕生日とか身長は、最初の計測時に入力した。その後一つ年をとる誕生日毎に体内年齢が一つずつ上がっていくことに気づいた。とすると各年齢の平均値ではない。現時点の「体内測定値」からの距離で表示しているようだ。何ともメンドクサイ表示法だと思った。ところが、誕生日が来ても「足腰年齢」は変わらなかった。ふ~ん、山を歩いているからだなと自分なりに得心していた。ところが、ここへきて、いきなり5歳アップである。驚かざるべからず、だ。

 カミサンの方も、水を呑まなかったせいで(?)5歳アップした。翌日、水を飲んだせいで(?)元に戻った。ということは、「足腰年齢」の表示は5歳単位ではないか。人ランクアップするというのは、5歳上がるということではないか。加えてカミサンは、ちょうどそのランクアップの端境に位置しているのかもしれない。ほんの少しの「差」で5歳の違いが出ると考えると、一日のアップダウンが理解できる。

 では、私の方は、なんだ? ひょっとしてと思って、このタニタの体重計を購入した年月を調べてみた。4年前の夏。私が75歳の時。そのときの「足腰年齢」は70歳。そして今年の誕生日にもまだ「70歳」だったが、それからひと月経ってみきなり「75歳」になった。つまり私も、5歳毎表示ランクの端境に位置しているのであろう。それを検証するには、ちょっと1週間足腰を鍛えてみて、元の表示年齢に戻るかを確かめてみることだ。

 もし元に戻らなかったら、本当にいよいよ80歳の壁を超えたということで、ゲンジツを受け容れるしかない。でもデジタルでも、ガウス記号風に年をとるとは思わなかったなあ。

2022年11月21日月曜日

自然(じねん)が好ましいのはなぜか?

 昨日のブログ記事の末尾の(2)に記した「自然(じねん)」を私は好ましいと思っている。なぜなんだろう。

  自然(しぜん)の対語は三省堂反対語辞典によると「人工、不自然」とある。ちょっと違和感があって馴染めない。それで私は態々、「自然(じねん)」というふうに仏教用語を用いている。「自然(じねん)」と呼ぶと「自ずから成るべくして成る」ことを意味する感触が滲み出てくる。対語は、「人為」「作為」となるか。

 自然(しぜん)にしても、あるがままに手をつけず放ったらかしにすることと考える人たちがいる。かつて子どもの頃の私はそうであった。いや私が子どもの頃の日本人は、概ねそう考えていた。三尺流れて水清しと思っていたから、瀬戸内海の海水浴場の沖合を「おわい舟」が通っていた。むろん江戸以来の土をつくる作法にも糞尿を肥料として循環させることが戦後暫くは行われていたから、田圃の片隅には肥溜めが掘られていた。その代わりといってはいいすぎかも知れないが、子どもたちの体の中には必ずといって良いほど回虫がいたし、ときどき虫下しを呑んでもいたのだった。

 いうまでもなく人の世は人為と作為に満たされている。ヒトの営みが介在していない自然などあり得ないという認識が、自然保護という考えを生み出した。人の手によって手入れされなければ自然は荒れてしまうと考えられた、これが西欧流の自然保護意識である。だがそれも、近代化がはじまるにつれて、人為による自然の改造が急速、且つ過剰に行われるようになって、遂に自然への人の介入は臨界点を突破してしまった。人口が急増したことも深い関係がある。

 人為の介入を制限して自然と調和的な共存を試みる思想はインド以東のアジア地域に古くからあった。ヒンドゥの混沌の海もそうだし、仏教の宇宙観もそうだし、道教の自然もそうである。だが、人が手を入れて自然を監理保護をする必要は、その臨界点を超えての反省もまた早かった西欧が先行することになった。

 この洋の東西の齟齬が、現在の自然保護思想の混沌の因にもなっている。人の交通は激しくなり、ヒト・モノ・カネの地球規模での流通が頻繁煩雑になっているのであるから、動植物もまた、ヒトの交通手段に乗って地球規模で頻繁に往来するのが、当然、自然である。にもかかわらず、外来植物の繁茂が騒がれ、ヒアリやカミツキガメ、ブラックバスの侵入が問題視されるのは、どうしてなのか。生態系の破壊ということをモンダイにするのなら、まず最初にヒトとモノの過剰と自由往来を話題にしても良さそうなものだが、新型コロナウィルスがやってくるまで、俎上に上ることもなかった。

 そうか、ヒトは、その存在自体が「自然(しぜん)」ではない。だから別格なんだ。だったら、温暖化という人為のもたらした災厄をどうにかしようというのなであれば、別格扱いの人類そのものを、まるごとどうするのかを根柢から問う思考が必要なのではないか。

 それは、問えないよ。人口が減ることを経済活動の衰退の徴候として慌てふためいている人類だもの、80億どころか、百億の人口を養う算段を立て始めてさえいるのだ。人口減少を率先垂範する先進国が順当に衰退して、人口増加が止まらない発展途上国が、経済的な進展を順当にすすめて、いずれ先進国並みに人口減少に向かうという妄想が、実は一番将来の地球に必要なことなのだが、誰もそうは言わないし、そうなるとも思えない。

 まずヒトも自然の生き物のひとつ。新型コロナウィルスが教えてくれたように、ケチな存在なのだ。どこかでコロナ感染の洗礼を受けて共存に踏み切らなければならない。ゼロコロナで頑張っている中国も、どこかでコロナ禍との共存を考えなければならない地平に立つことになる。そのとき、密にならず、経済活動も小さな集住単位に基本を置いて、最小限の交通と交換を通じて、世界規模で支え合うシステムを作り上げる道しか、長い目で見ると残されていない。

                                      *

 では、私の胸中にいつ知らず芽生え好ましく感じる感性にまで根付いている「自然(じねん)」の感覚は、何に由来するのであろうか。

「人為」「作為」が作用するときのモメントに、それが策定されてゆく過程の「自然性」が問われている。予め有力者に根回しをして、公の会議では「型どおりの’民主的)討議」を行って決定するというのは、決定過程に恣意が働いていると私はみる。森喜朗はそういう恣意的な決定を常とする「民主的会議」ばかりを過ごしてきたから、女性理事がいろいろと発言するのは「余計なこと」と思ってしまうのだ。つまりはじまる前にすでに決定していることが彼の会議の常識であり、だから彼のオリンピックに関する理事会の発言は女性差別というものではなく、非民主的な日本の伝統的決定法だったと非難さるべきモノだったと私は思っている。

 あるいは、アベ首相が国会討議で啖呵を切ったことを忖度して、官僚があろうことか記録文書まで書き換えするという暴挙も、それに対する質問に答えようとしない態度も、「人為」「作為」の悪質な事例である。民主主義を標榜する議会や行政運営の、自ずから成る成り行きを、自らの立場の有している権限を全力で発揮してゆがめてしまう。そういうことを私は、「自然(じねん)」ではないとして排斥したいと思っている。

 今の時代の日本の民主主義は、可能な限り民意を反映できるシステムを取っていない。選挙で選出された議員が「主権」を代行する形を取っている。その議員たちは、もっぱら政党というプロ政治集団のシステムに組み込まれて、昔風の言いようになるが「陣笠」として議会や行政機関で働いている。当然、その政党の上意下達の仕組みに組み込まれ、選挙民から託された「主権」を「政党意思」を偽装するために用いている。こうした実態を、マス・メディアの報道で知るにつけ、もっと素朴に、もっと率直に、もっと直接に「民意」に応えるような振る舞いを、然るべく成るべくして成る「理想型」のように思ってしまう。

 それが私の「自然(じねん)」である。

(1)政治家の言動を信用しない。

(2)政府機関の専門家というのを信用しない。

(3)情報メディアや学者、専門家は、玉石混淆とみる。疑ってかかり、つい信じたくなる自分を信用しない。

(4)公開されている情報や特定領域の情報を、日常の暮らしに連接させて、限定的に解読してくれる専門家の言動に注目する。それに注意目する自分を疑ってかかる。

(5)ありとあらゆる情報の洪水を、わが身を通過させて感じ取られた慥かなものを吟味し、胸中に一先ず蓄えて、世界全体の動きとパッチワークしながら、自分流の読解を試みる。試みるというのは、文章にするということ。

(6)自分の記した文章をときどき読み直して、あらためて(5)の物語を咀嚼する。

 とまあ、私の「自然(じねん)」として、そんなことを思い浮かべた。結局行き着く先は「混沌」ではないかと、ふと思う。なにもかもが一緒になって、よくわからなくなる。でも、腑に落ちる。それこそが、「自然(じねん)」の境地に入域することのように感じられる。ふふふ。

2022年11月20日日曜日

ジェンダーを超える?

 8月の下旬に記したが、12月4日に開かれる36会seminsrの講師をミコちゃんが務めることになった。お題は「80歳のわたしの風景」。それを聞いた連れ合いのマンちゃんが「あんたがそれをやるのなら、わしは今後seminarには顔をださん」と言った。ミコちゃんは「この人の唯一世間と接してるとこじゃけん、それを取り上げちゃあいけん」と講師を辞退すると伝えてきた。そのことを9月seminarの折りに参加者に話したら、ミコちゃんと親しいスズさんとドリさんが、「私らが加勢するから、やろう」ということになったと私に伝えてきた。

 面白い。3人が前に出て話すとなると、seminarというよりシンポジウムだなと思い、そのように「seminar案内」を皆さんに送った。何人かの人から「おもしろいこころみ、楽しみ」とメールの返信があった。

 その返信メールの中に、「そんなシンポジウムをやるなんて話は誰がつくったん。わたしは前に席を列べてやるなんてことは言うとらんよ」とスズさんが言ってきたとドリさんからクレームがついた。ドリさんもミコちゃんと席を列べるつもりはないという。

 ワタシはすぐに返信して齟齬をほぐそうとした。

《ええっ、私の方が驚いています。/前回の席で、ミコちゃんが講師として出るのではマンちゃんが困るということなら、お二人が加勢して講師をやりますと、私は理解していました。/何処で、何がどうすれ違ったのでしょうか。スズさんとあなたが、そうじゃないというのでしたら、この企画は取り下げねばなりません。/シンポジウムという表現をとったのは私の判断ですが、3人が講師として「前へ出る」というのでしたら、齟齬はないと思いますが。/スズさんとも相談して、ご返事下さい。》

 ドリさんから返信が来ます。彼女の了解を取っていないので、それを紹介はしませんが、ワタシは再返信をして、粘ってみました。

《手を煩わせてごめんなさいね。でもね、シンポジウムという試みを、面白いと言う声が届いています。/トキ君のが、まず、そうでしたね。オーガ君もそういうことを書き添えています。またタツコさんも、同じように「楽しみ」にしています。/面白いという声は、これまでのseminarと違って、話しが立体化するという期待なのではないかと私は考えています。/結局ミコちゃんが一人前に出ておしゃべりするのでは、話しが立体化しない。スズさんやあなたが、ミコちゃんの話に関連して、どう思い、何を考えるかを話すと、ミコちゃんの話も膨らみをもって、面白くなるのではないかと私は思っています。》

 ドリさんから「ミコちゃんがマンちゃんを引き合いに出すことはしない。高校でてからのことを振り返って、今の世相がかわってしまったと感じていることを喋る。司会は事務局のフジタがやって、その進行で末席で援護するスズさんやわたしに振ってくれればいいんじゃないか」と、概ねそういう趣旨の再々返信でした。それに対するワタシの返信。

《おやおや、とうとうセンセイ呼ばわりですね。揶揄っちゃあ、イヤですよ。/「末席で」というのが、気になるのです。マンちゃんは「前の席に3人並んでいる」のをみるのです。何を話しているかは、聞こえません。そこんところが、肝心なのですね。/しゃしゃり出ないで控え目に、というのを、アメリカ文化に身が全部浸っているあなたが口にするなんて、驚き桃の木です。/もちろん私が司会をしてというのは、考えないでもありませんでしたが、やはり女同士がああでもないこうでもないと(ミコちゃんが話すという)「仏様の話」をいじくり回すってのは、面白いじゃありませんか。/彼女の取り出す話題を、「ワタシは信仰心がありませんから、どうしてそれを信じちゃうの?」って、問いかける。どう彼女が応えるか、ワクワクして聞いていますよ。/ぜひぜひ、更にご検討を御願いします。タツコさんが「楽しみ」といっているのに、応えて差し上げて下さいな》

 ここの段階ですっかり私は、シンポジウム形態を諦めています。それよりも、英語が堪能で、アメリカとこちらを往き来しているドリさんが、3月のseminarで「ジェンダーについて」講師をしたことにかこつけて、言葉を交わすことに関心が移っていました。

 むろんseminarはミコちゃんを講師として、従来通りの形式で開催されます。ひと言ワタシが「驚き桃の木」と書いたことへ、「大和魂は持ち合わせております/大和撫子ですよ」とドリさんから返信がありました。ワタシは私の関心に沿って、付け加えないではいられませんでした。その再々再返信。

《(前略)アメリカ文化に馴染みの深いあなたが「シンポジウム」を面白いと言わなかったのを、らしくないと思ったわけです。スズさんは、胸の内を皆さんに打ち明けるのに、いつも及び腰です。seminarの講師を務めたこともありません。そのスズさんに引きずられるあなたを、らしくないとも思いました。/私たち世代の女の人たちは、間違いなく大和撫子です。男たちは間違いなく父権主義者です。男は女を保護し、女は男の影に隠れて縁の下の力持ちになる。そういう文化にどっぷりと浸って育って来たのですから、そう簡単に拭えるものではありませんし、拭うのがいいかどうかも、一言では言えません。欧米文化も未だ、父権主義的な名残は多く残しています。たださすがに、女性の引っ込み思案が讃えられるという森喜朗のようなセンスは、影を潜めています。もうそのジェンダーに関する「公的な見方」は、はっきりしています。残る問題は、日常の言動に於いて「一歩退いて振る舞う」ことを良しとする女性が、それを超えて、男か女かに関係なく振る舞うかどうかですが、ま、これは、私たちの子・孫の時代に委ねられるでしょうね。この辺りも、ミコちゃんの話にかこつけて話題にしてくれるといいですね》

 とまあ、こんな遣り取りをして、しかしこれはジェンダーのモンダイではないのかもしれないと私は考えはじめています。

(1)しゃしゃり出ないのを美徳と考えるのは、女に限らない。控え目であること、一歩退いて事態を見極めることを寛容とする気質を私も色濃く身に備えている。オレがオレがという振る舞いはみっともないとも思う。この感覚は、何だろう。

(2)リーダーシップを取る人といつも前に出てリーダーという位置を占めなければ気が済まない人とどういう次元で、区別しているのか。自ずからというのがキーワードになるように思うが、それは集団の動きの中でどのようにして醸し出されてくるのか。自然(じねん)というなりゆきを、人の意識的な営みとしてつくりだしていくのは、どうやったらいいのだろうか。

(3)控え目であること、一歩下がってコトに対処する女性の資質と、にもかかわらず、家内の家事采配を一手に引き受けて立ち回る「縁の下の力持ち」的な女性の堅実さは、社会的な場面ではどう評価され、どうジェンダーを取り壊して人の暮らしに定着していくのか。

(4)上記のことと、生物的・生理的な男女の違いは、機能的な違いだけでなく、心理的・感性的・精神的な違いを育児・養育・教育などに与えると思う。それを子細に分別して論題にすることは、なされていない。どう考えていったらいいものだろうか。

2022年11月19日土曜日

いい加減がほどよいワケ

   そう言えば、学校の作文では「自分の言葉で書きなさい」とよくいわれた。でも自分の言葉って、なんだ? と考えはじめると、これがまた、厄介。自分が考え出した言葉ってワケにはいかない。

 ぽんばほけとんろち、でやもにえきゃらんまい。

 ほらっ、わからんでしょ。

 ことばって、皆さんが使っている用語と文脈で、おおよそ人が言いそうなことを言いそうな場面で口にしてこそ、伝わるってものだ。

 えっ、そうかい? と思う人がいると思う。人が言いそうなことを言いそうな場面で口にするのは、同調圧力ってもんじゃないか。そうなんだよ。でも、そうじゃないんだな。

 人が言いそうなことってのは、聞き手からして、そう思うことだ。ヒトが言葉を交わすことってのは、実は綿密、且つ厳密に、つかわれている用語の一つひとつを聞き取り、その文脈に照らして解釈して、それへの応答を紡ぎだすってことをしているわけではない。

 やあ、今日は****だね。

 と声をかけられ、****のところは何を言ったか、よくわからなくとも、「いい天気」と言ったとか、「ご機嫌」といったに違いないとか、見当をつけて遣り取りをしている。

 やあ、卿は寝ぼすけだね、と言っていたら、明治の元勲たちがどこかの別荘で言葉を交わしているのであろう。

 じつは、やあ、峡は朝霧だね、と言っているとしたら、どこか山奥のテント場から深い渓を覗いて呟いているのかもしれない。

 ときとところと誰といつ交わしているかは、口にするまでもなく、共有されているからだ。つまり、おおよその予め胸中に想起される言葉が遣り取りされると思って口にしている。いい加減なのだが、いい加減だから遣り取りが渋滞しないで交わされる。言語学者で文化人類学者でもある西江雅之がいつだったかどこかで、コミュニケーションの6割は身振り手振りで通じると書いていたのが、それに当たる。言葉はその補助手段と考えているとたいていのことは何とか切り抜けることができる。

 その背景には、言葉にならないが、共有されている状況がある。状況とは、共に置かれている場面と相手とわが身が置かれている立ち位置の異同も含めて、おおむね共通する認識を持っていることを意味する。これが広く深いほど、緊張感のいらない、心地良い「関係」だと言える。島国だったせいかと私は思っているが、日本人は自然にそうした人たちに囲まれてすごすことが日常になり、それが逆に作用して、「空気読めない」と非難されたり、「同調圧力」と感じられたりするんじゃないか。細かい気配りとか気遣いというのも、根っこは同じ心持ちから出ている。

 ヒトの往き来が広がり、文化も違う海外からの人たちと言葉を交わすようになると、逆に、それまでの心地よさと違って、共有するところが少なくなる。旧来の方法で考えていると、にわかに慮る範囲が広がり、ワケがわからない行き違いや、誤解が多くなってくる。もっともそれは、外国人相手とは限らない。

 木で鼻を括るという俚諺がある。国会の大臣たちと議員野党議員との遣り取りを思い浮かべれば良い。「記録にあるが記憶にない」などと大真面目に応えている経産大臣。はぐらかすとかとぼけるとかごまかすとか、言い様はいろいろあるけれども、質問者の問いを、「自分の言葉」で返している。「とぼける」とか「ごまかす」というのは、経産大臣が、実は質問者の意図するところを理解していると思うから、そういう言葉になる。だがひょっとして、モンダイの宗教団体との関係があったかどうかを追求されているのだけなのだと思っていたら、うるさくまとわりつくハエを追い払うように応えていたのかもしれない。只今日本の国会議員というエリートは、その程度の人たちなのだと認識する機会になっている。どこかで、前述の経産大臣は東大卒のエリートだと(褒めたのか揶揄ったのかわからないが)言っていたが、案外、東大卒ってのも、そうした発達障害のようなヤツもいるんだと思った方が、正解かもしれない。ごめん、こういう言い方をすると「発達障害」の人に失礼だよね。

 つまりこうだ。誰でも、自分の言葉を喋っている。何だお前は、受け売りだな、と言われて馬鹿にされることがあるかもしれない。だが受け売りが自分の言葉だとまず認めて、そこから、どうしてそれが悪いのか、と考えはじめるしかない。居直れというのではない。受け売りをしている「じぶん」てなんだ? どうしてだ? とわが身の成り立ちを振り返って考えてみるってことだね。

 受け売りについて、もう少し踏み込んで言うと、言葉って元々が受け売りである。つまり子どもの頃から、周りの人々の口にする言葉を、もの真似をじて覚え、誰に文法を教わるまでもなく使うようになり、他の人と遣り取りをし、言葉を交わす。そしてある時機に、「じぶん」が自分であるというのは、なぜか、と疑問が胸中に湧いてくる。ちょうどその頃に学校で教師から、自分の言葉で書けと叱られる。

 つまり(またつまりって言うが)、「じぶん」てなんだ? というといと一緒に「自分の言葉」ってことが浮かび上がる。私は中学生のとき、国語の教師から「その言葉の意味は?」と問われて、テキトーに応えはしたが、別の言葉で言い換えただけのことがどうして「意味」になるのか、わからなかった。いや、厳密には今でもわからない。ただ「その言葉」が発せられた状況に於いて何を指していたかを「別の言葉」で少し説明できるってことかなという程度だ。

 つまり「自分のことばをつかう」ってことは、自分の置かれた状況(世界の中の立ち位置)を踏まえて、言葉を繰り出せってことだ。

 そう思っていたら、昨日(11/18)の朝日新聞の「教育・化学」面に「津波さまざま メカニズム探る」という記事の中で、「マグマと断層が連動」すると何㌔という高さの津波が引き起こされるという。「約6600万年前の隕石は、高さ4㌔超の巨大津波を引き起こして(恐竜の絶滅に繋がって)いた」と紹介している。これを「じぶんの言葉」で語るとしたら、二通りしかない。

 ひとつは、富士山の高さよりも高い津波となると、これはもう、どうしようもない。

 もうひとつは、目に見えない断層やマグマの連動とか、隕石の衝突を研究している科学者がいるのだと、「どうしようもない」という私の観念が、長い年月の間にありうることとして受け止めると同時に、万年単位の話しなのねと限定して受けとることだ。

 良いとか悪いとかいうことをすっかり忘れて、大いなる自然の営みを感嘆してみている「じぶん」をみつける。これはこれで、ここまでの幸運を感謝することへと結びつくのである。

2022年11月18日金曜日

どこからみればよく見えるか

 グローバリズムを旗印に掲げて突っ走ってきた世界経済も、2017年にトランプが#アメリカ・ファーストを唱って登場してからは、すっかりしおたれ、ならば代わってオイラがと、一帯一路を看板に中国がグローバリズムを推進するような恰好をみせ、おや、大丈夫かいなと外野の庶民は固唾を呑んでみていたが、こちらも使い古した民族自決と資本主義的契約関係をひっさげて、やはり世界の中心・中華帝国の復興かと思わせる、見得を切る。

 さあ、お立ち会い、と世界秩序の再編成活劇の幕開きになるかと思っていたのに、オレサマを忘れちゃいやですぜとばかりロシアが割り込んできて、ウクライナでドンパチとやり始めたから、もうグローバリズムなんて、どこへやら。

 〽そんな時代もあったねと・・・

 と鼻歌が出るような、昔話になっちゃったか。

 それまで環太平洋経済圏なんて、いそいそと世話役を買って出ていた人までが、急に経済安全保障なんて言いだす始末。ヒト・モノ・カネの自由往来なんてキャッチフレーズを口にはしたが、その実、人の自由往来はインバウンドだけ。移民、難民、働き手は、特殊専門労働者しか入れないよと、つれないそぶり。他方で、技能実習生とか語学留学生とか、名札だけを付け替えた抜け道の低賃金労働者をわんさと受け入れて、とどのつまり奴隷労働を強いる恥知らずの経済大国気取りだけが際立っている。

 〽こ~んな日本に~誰がした~・・・

 とうそぶきながら、でも目に入らないから、知らないって強いよねと他人事のように、ふだんは忘れている。いや、ホントにお恥ずかしい。

 わが身ばかりか、そういう世界が出来上がっちゃってるってことを、2015年までのデータをもとに解析して、展開して見せた本があった。ブランコ・ミラノビッチ『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』(みすず書房、2017年)。

 世界の貧困と富裕の格差を探っている経済分析。エレファントカーブというのは、グローバル化が進展した20世紀末から21世紀初の20年ほどの「世界の所得分布の20分位/百分位」のグラフの曲線が、鼻を持ち上げて叫び声を上げる象の外形輪郭に似ていることからつけられた。グローバル化が世界のどの所得階層に富をもたらしたか。先進富裕層か中進層か貧困層かを子細にチェックする。

 むろんいうまでもなく、超富裕層の1%がダントツで世界の富を占有しているのだが、その伸び率をみてみると、40/百分位から60/百分位の伸びの方が1%の伸び率よりも大きい。むろん、元が違うから絶対額となると比ではないが、業種によっては新興国の業者が超富裕層に食い込んできていたりする。

 この20年ほどの間は、まず中国、次いでソビエト連邦と東欧の計画経済がグローバリゼーションの相互依存関係の中へ参入し、インド経済も加わった。つまり世界人口の20%の人たちが安価な労働力として加わり経済成長の一端を担うようになった。果たして、その人たちは豊かになったろうかと疑問を持って、ジニ係数を手がかりにつぶさに調べている。

 ジニ係数というのは所得格差の度合いを測る指標。全員が同じ所得であるときは「0」、一人が全部を占有しているときは「1」として、所得のばらつき具合を数値化する。おおよそ「3」程度が安定的な数値、「5」となると暴動が発生してもいいくらい不安定な状態とみている。

 足元は国民国家の枠組みにとらわれている。世界に於ける国別の所得格差と国内に於ける所得格差を比較してみると、戦争や災厄はむしろジニ係数を押し下げて、いわば国民国家のナショナリティを称揚するように働いていることもわかる。グローバル化は、BRICSなど中進国の富裕化に貢献し、世界秩序の再編成を口にするほど中国は力をつけ、アメリカは#アメリカ・ファーストを唱えて、力の衰退を一国主義的に食い止めようとしてきた。他方ロシアは、過去の栄光をふたたびとりもどそうと、ドンパチはじめたってワケだ。

 本書の考察は、世紀の変わり目だけを対象にしているわけではない。15世頃末からの所得の推移を追い、産業革命期からの工業化社会に於ける所得不平等の推移と金融やサービス業中心の所得不平等の移り変わりに目をつけ、その社会の変容が社会規範の移ろいとか経済政策によって所得格差を拡げていることを突き止め、こう記す。

《合衆国では、予見可能な未来においてはフィ平等が高い水準で維持されると思われる。これを相殺する政策――教育のさらなる拡大や最低賃金の引き上げ、今以上に寛大な福祉手当――を推進する力は、不平等の拡大に有利な、ほとんど根源的と思える力と比べれば、弱々しく感じる》

 つまり、所得拡大に対抗できる力は、目にすることが難しくなっているのだ。

 ヨーロッパにおける右傾化についても、その蓋然性に着目していて、5年前の著述であるのに、十分現在に通用する世界を提示してみせている。しかもこの著者、「未来予測」をした本をガルブレイスなど何冊か取り上げて、そのほとんどが「当たっていない」ことを記し、「予測」が目前の状況に曳きずられることを避けられないとしていながら、「十の提言」を末尾において、こう付け加える。

《グローバルな不平等の研究は、方法論的ナショナリズムの限界を超越している。しかし、本書ですでに見たように、グローバルな水準は、国民的な層の上に積み重なった、新しい追加的な層とみるのがもっとも良い。》

 この著者の「追伸」が、新型コロナウィルスの襲来とロシアのウクライナ攻撃によって変わった世界の状況をとらえるのに、これまでと少し違ったニュアンスに過ぎないのに、なかなか適切に作用する。

 そう思ったわけを二つ。

 その一。難民や移民に苦しむヨーロッパやアメリカに関して、国内的に受け入れをどうするとあたふたするよりも、難民を輩出する国々、こっちよりはそっちがいいと移民をする人たちの現住国の苦難を解消することに尽力する方が、はるかに効果的に対処できるんじゃないかという著者の提言。そりゃあそうだ。国内紛争を、対岸の火事のようにみているんじゃなく、国内で難民に対応するために支払う費用を現地国への支援に回して、問題解決を国際的に協働して援助していけばというのは、コロンブスの卵だ。

 その二。移民を受け容れる国で、移民には市民権にある種の制限を設けることで、受け容れる市民たちも腑に落として共存するのに抵抗感が少なくなる。それには「人権」とか「国籍」といった在住条件と違って、一緒に棲み暮らすのに必要な社会的・文化的条件を付加することで、移民がゲットーをつくることもなくなって「共存する社会」が醸成されるのではないかという著者の提言。

 こうした、世界の現状を見通した対処策の行間には、著者のヒトを見る目がしっかりと組み込まれている感触があって、それが好ましく響くのであろう。

2022年11月16日水曜日

ファシズムや全体主義もヒトの本源的な性向にある

 図書館の書架にジョージ・オーウェルの『動物農場』を見つけ手に取った。最近(2022-10-22)何かの感懐を記すとき、これを引き合いに出したことを思い出したからだが、読んだのはもう昔も昔。印象が果たして間違えていなかったかと手に取り、旅の合間に読んだ。

 印象は間違えていなかったが、ひとつ時代相の違いを感じる発見があった。読んだ学生時代にはスターリン批判として読み取っていた。それはそれでいいのだが、いま読むとファシズムとか全体主義に対する見方が、オーウェル時代とすっかり変わって、深みが増していると感じた。

 オーウェルの描き方は、賢いリーダーがおバカな民衆を率いて「大転換」を起こす。民衆は騙されたのではなく、自分たちが国家社会をつくっているのだという正義感に満たされて苦難に耐え、歓びに溢れて大転換に翼賛していくのだが、リーダーたちの主導権争いと交代による正義性の変化に気づかず、またリーダーは見事に民衆の無知と忘れっぽさにつけ込んで情報操作と状況操作を行う。何年か経ってみれば「大転換」はどこへいったやら、ただ単に国家社会の指導層が変わっただけで、元の木阿弥だったという物語りである。

 トランプのようにフェイクだ、盗まれたと叫ぶところは見事に同じ。習近平のように欧米諸国が偽りを言って我が国が人権侵害をしているとか、産業技術を盗んでいると攻撃していると吹聴するのと同じ。あるいはプーチンが、法的手続きを次々と変えて正当性を貫き、実はその裏で反対派を次々と粛正して権威と権力を守り通すのと同じ。

 だが今の時代、民衆がおバカさんとは言わないところが、時代相の変化だと気づいた。アメリカも中国もロシアもまさしくそうした類いの激動の渦中にあるから、岡目八目のようにクールには見つめられないのかもしれないが、民衆がおバカでフェイクに騙されているのだといって、わが派の主張の正当性を証すのは、お粗末の限り。むしろ民衆自身がそれに拠る熱狂を求め、それに身を寄せてお祭りを敢行して鬱憤を晴らしたいというホンネの衝動が浮き彫りになっている。

 つまり、指導層の手練手管は変わらないが、その原動力は、むしろ民衆の側の内的衝動の発露が結晶化しているというところまで、国家社会の「大転換」の解析は進んでいると読むことができる。これは、時代相の変化なのか、政治社会の解析の進展なのか。

 20世紀の前半には、ロシア革命の正義性が本物なのか偽物なのかが、わからなかった。社会主義革命という人類史上のひとつの「理念の結晶」が、実行過程で果たして上手くいくのかどうかが問われていると(当該の国のというだけでなく、世界の)民衆はみていたし、もちろん反対する資本家社会の国々は「動物農場」の人間たちのように、「大転換」が成功することは資本家社会が欠陥品であることの証明になりかねないとみていたであろう。つまりどちらの陣営も、ロシア革命の推移が「正義性」を証す象徴のようにみていた。まだ時代の気風の中で「正義性」は生きていたのであった。

 ところが、1989年にソビエトは崩壊した。いや、それよりずうっと以前に、ソビエトが恐怖政治によって支えられ、社会主義経済は破綻しているといわれてきた。ただ、男女の平等と教育、科学、芸術は行き渡り、保護されてきたと評価を受けていたから、なにもかもが悪かったと感じられていたわけではなかったろうか。

 しかしソビエトの崩壊は、資本家社会の一人勝ちのようにみなされ、市場経済という交換形態と資本家社会経済とが一緒くたにみなされ、それはちょうど、自由と民主主義が資本主義経済と一緒くたにされたのと同様、ありとあらゆる人間の経済活動が資本主義的な論理ですすめられるのがより正しいとみなされる結果となった。つまり人間の集団性のもつ贈与互酬とか無償の保護・慈愛という関わりまで、自由競争と金銭計算の対象となり、それ以外の交換関係をゴミ箱に捨ててしまうような社会観が行き渡る結果になった。その結果、社会主義の当初掲げていた「正義」もゴミ箱行きとなり、古いタイプの人間だけが、それはそれとして守り育てることとなった。

 ところがヒトというのは、足らざるものをなにがしかの方法で取り戻そうと、心裡のどこかで求めるもののようだ。足らざる憤懣を鬱屈として溜め込み、何かの機会に鬱憤を晴らす衝動へと注ぎ込む。それがときに、銃を握って学校で乱射したり、爆発物を連邦ビルに仕掛けて爆破したり、あるいは航空機を乗っ取って貿易センタービルへ突入するという形を取る。そこまでいかずとも、トランプの爆発的な絶叫に誘われて群れとなり、ますますわが鬱屈の正当性が証されるように感じて叫び声を大きくする。それがただ単に、本人も気づかない、白人至上主義的な願望が時代の進展によって衰退の一途をたどっていることへの不安感であったのかもしれない。明日の食事代にも困る生活保護を受けている人が、役所の冷たい処遇に反発して、嘘八百を告発するトランプの声の響きに誘われたのかもしれない。

 つまり、「正義性」が崩壊してしまっているのだ。その時代の民主政治が、嘘か真かを問う作法を失い、テンポとリズムと響きの良さと、それを受け止める時機の折り合いとによって選び取られて、大集会となり、大きなうねりとなって世上に報じられる。それがまた、勢いを加速する。情報の氾濫は、ヒトの思惑を揺さぶり、勢いづけ、あるいは抑圧する。知らない方がより真実に近い的を射ることも起こる。知るか知らないかよりも、より深く思索する、より根源から説き起こして現在までを視界に収める作法を、手に入れる方が、時代や国家社会の正鵠を射る。そんな時代になっている。

 オーウェルの時代よりも、より人を見る目が深くなっているのか。それとも、人の心の動きが、国家社会の動きにより近く作用するようになっているのか。ファシズムも全体主義も、政治指導者の言動に振り回された結果というだけではなく、ヒトの本源的な性向が原動力となっている。そういう時代になっている、とみた方が良さそうに感じる。

2022年11月15日火曜日

紅葉真っ盛りの岐阜

 埼玉県からみると、岐阜県というのは遠い中部地方という感触がある。長野県には埼玉のお隣という親近感を感じる。その長野の西隣の岐阜県を遠いと思うのはどうしてだろうか。よく山登りをしてきた私には、岐阜県というより木曽谷という方が耳に親しい。面積は埼玉県の2・8倍もある。全国第7位。青森よりも大きい。知らなかった。印象としては南北に長いと思ってきた。ところが、東西にもずいぶんと大きい。

 一昨日から、その岐阜県の南部を往き来してきた。東南端は、長野県の天竜峡と境を接し、高速道では恵那山トンネルから岐阜県がはじまり、西の端は滋賀県と境を接する、御存知、関ヶ原までの約150km。秋の彩りをみてこようという旅行会社企画の1泊2日の旅。

 中央線の特急あづさで茅野駅に降り、バスで諏訪湖から天竜川沿いに恵那山トンネルまで伊那谷を南下。生憎の空模様だが、車窓からの紅葉は煙ながらも色づきが進んでいることをみせる。天竜峡のPAで車を止める。JR天竜峡駅から天竜峡大橋までの両岸に遊歩道を設え、春には桜、秋には紅葉を楽しむことができるという趣向か。天竜峡の川下りも行っている。高速を頭上に走らせ、その下に遊歩道が設えられている。眼下50mに天竜川が蛇行し、その川を横切ってJR飯田線が豊橋へ向けて南へと走っている。大橋の上からの川の流れと山肌の色合いは、すっかり秋色だ。眺めているとちょうど北へ向かう特急電車がやってきて鉄橋を通過する。対岸の施設は目下工事中であったが、植栽された冬桜だろうか、桜が一重の花をつけている。その桜の花とその向こうに点在する民家の佇まいが気持ちを誘い、つい奥へと足を向けさせた。

 長い恵那山トンネルを抜けて岐阜県に入る。恵那峡の食堂で遅い昼食のすき焼きを摂る。飛騨牛に松茸がウリのご飯だ。すぐ近くのホテルにチェックイン。まだ3時前。部屋に入ると目の前に湖がある。木曽川を堰止めて大正期に作られた日本最初の水力発電所となる大井ダム。この上流域を恵那峡と呼んで、観光船が往き来している。生憎、湖上は霧が濃く船は欠航。湖に張り出した出島のような土地に、ダム制作者の福沢桃介公園とさざなみ公園が整備され、ぐるりと周回する遊歩道が設えられている。傘を差して歩く。マガモやホシハジロ、オオバンが浮かんでいる。雨なのに人影が結構多いのは、近隣のホテルに来ている人たちか。宿泊ホテルの周りを経巡るルートには、入口の少し先のところに「土砂崩れのため通行禁止」の表示があった。行けるところまで行きましょうとカミサンはいい、腹ごなしだと思って進む。一部斜面の土砂崩れがあった気配が感じられたが、歩けないわけではない。森を抜けるように大きく回り込む坂道があり、そこを登るとホテルの正面に出る道に出た。

 24時間OKの宿泊ホテルの温泉は、30分単位で入浴エントリーをするという感染症対策。夕食前の時間帯は部屋番号と人数がびっしりと書き込まれていたが、それはどうも見掛けのようだ。エントリーをしてきていないのか、風呂は空いていた。露天風呂から先ほど歩いた出島が一望できる。ところがカミサンに言わせると、女風呂の露天は「塀に囲まれていて最悪」だったという。伊香保温泉などでやっていたが、夜と朝で男女の風呂を入れ替えるのかと思っていたが、そうではなかった。岐阜というのは相変わらずの男社会なのかな。女性客を大事にしないとホテルは栄えないよと思ったが、むろん誰にもそんなことは言わない。

 翌朝は一転、快晴。風がないらしく、部屋の窓からみる湖面は対岸の小山を写して薄明かりなのに紅葉が美しい。出島の散歩道に灯された灯りが湖面にも映って幻想的な景観を醸し出している。ちょうど左の方から霧が立ち上り、小山と湖面の間を覆うようにたなびく。朝日が山の山頂部を明るく照らしはじめ、またひときわ雰囲気の違う景色に変わる。

 朝食は7時、出発が7時50分というのは大忙しだ。5分前にバスに乗ったら、ほとんどの人たちはもう座っている。いかにも年寄りたちの旅だなと、自分のことを棚に上げて思う。でも私たちよりあとに5人ほど後れて来た人たちがいた。最後の2人くらいは出発時刻に遅れていたが、まったく気にする気配はなく、ああ、これも、年寄りの旅だと思わせた。

 2日目は美濃三山という神社ひとつとお寺二つをめぐり、その紅葉を堪能すると案内書きにはあった。だが標高はどんどの低いところへ向かう。大矢田神社はちょうど背中から陽光を浴びるようにして本殿へ向かった。振り返ると色合いががらりと変わって紅は紅、緑は緑、黄色は黄色と輝きが深みを増し、そのグラデーションの移ろいに驚かされる。その色合いの合間にみえる社の檜皮葺きの屋根が渋い。

 この神社の脇には天王山禅定寺があり、かつては神仏習合であったことがうかがえる。だが、廃仏毀釈によって寺の方は打ち壊され、影を潜めて過ごす時期が長く合ったようだ。そういう気配を残して、今は神社に看板を譲り、禅定寺は本体をしっかりと再建して存在感を訴えているようだ。

 そこから岐阜県の最西端に近い関ヶ原の食事処へ向かう。まだ11時というのに、大型バスが何台も入れる大規模な駐車場をもつ食事処で、三大牛食べ比べの昼食を摂る。伊吹山が手前の山の片隅にちょっぴり山頂部をみせる。このとき始めて岐阜県の広さというのを実感し、帰宅後調べてみて埼玉県の2・8倍余あることを知った。山間部をかかえているから単純に比較はできないが、列島の中央部に大きくドンと座って、文化的な東西の分岐点として存在感を示してきたことを、あらためて思った。

 午後、岐阜県の少し北の方へ寄り、両界山横蔵寺を参詣する。バスの駐車場から川沿いに500mほど歩いて参道に入る。36歳僧侶の即身仏があるというので、500円の拝観料を払ってみさせてもらった。座禅を組み、顔を斜めに傾げて苦悶の声を上げているように見えたのは、私の内心が映し出されたのであろうか。向かいの社殿には12神將像が午年から巳年まで呼び名を記しておかれている。広い敷地をゆっくりと散策しながら一巡りする。こうした時間がゆったりと取ってあるのが、この旅のいいところか。

 不思議なのは、それほど標高が高いと思われないのに、紅葉の彩りが見事であること。カメラのシャッターを何度も押した。

 次に訪れた谷汲山華厳寺は、バス駐車場から1㌔ほどの石畳を歩いて山門へ向かう。そうそう、谷汲山というのは地名でもあって、「たにぐみ幼稚園」とか「谷汲小学校」というのもあった。どちらが先かわからないが、いい地名の残し方だと思った。その道筋の両側のモミジが見事に紅葉していて、まるでモミジのトンネルを抜けてゆくようだ。参道両側のお店には「満願線香」と銘打った品物を売っている。この寺は西国33ヶ寺の最後のお寺さん。ちょうど3人のお遍路姿の女性がお参りしていた。カミサンが何か話しかけ、ここで満願成就というので、「おめでとうと言ってきた」と歓びのお裾分けを貰ったように話していた。

 ま、余り信仰心のない私としては、美濃三山というのも紅葉狩りの社寺というのでよかったのだが、見事に時季を得て、目下山歩きのできない目の法要をした二日間であった。帰宅したのは夜の11時。驚くほどの強行軍であった。

2022年11月13日日曜日

あんたこんなところで何しよんなら

 なぜか私が稲刈りをしている。すぐ向こうで婆さんが鎌を持っている。あれ? 息子夫婦は、どこをやっとんじゃろ。彼らがやるんじゃなかったかな。

 えっ? そういえば、いつから私は百姓をやっとったんじゃろ。稲刈りなんか子どもの頃みただけじゃなかったかな。それにしても、鎌の振るい方を知っとるのは不思議なものだな。

 う~ん、腰に来る。よっと、勢いをつけて腰を伸ばす。いい日差しだ。山の緑はますます濃くなっている。柿がたわわっていうか、枝が折れそうなほど実をつけている。去年と違って今年は豊作じゃ。猿が出たと誰か言うてたな。ちょうど熟そうかというほどの時期をしっちょるのかな猿めは。そん頃になるとちゃんと出て、もっていく。

 月初めには雨が多くて田圃の水捌けが悪かった。もう稲は稔って頭を垂れ取るのに、これじゃあトラクタは使えんねえと嫁が言いよった。なんならワシがやるで、と嫁は元気がいい。息子は大腸検査でポリープがあったとか言って、昨日まで入院しちょった。「悪性じゃないって、心配なし」といたわれたと帰ってきて言うちょったが、1週間入院しちょったせいか、青なり瓢箪みたいな顔をしてたなあ。

 あれっ? 婆さんはどこへ行ったやろう。姿が見えんな。わしもひと休みしようか。あれ? わしっていうとるな私は。いつからそういう言葉をつかうようになったろう。う~ん、と腰を伸ばす。ぴりぴりと腰の辺りにひびが入ったみたいに痛みの予感のようなものが走る。用心せな、あかんな。

 ふと五十年以上も前の友人の話が思い浮かぶ。あれは車の免許をとったころだったろうか。

「人はな、身の回り50センチで暮らしていけるようになるんだ、と」

 車の運転設計のことじゃったろうか。そういう夢のような社会になるということじゃったろうか。五十年経って、そうなったような気もする。

 道に上がる。家の方へ歩いて行く。あれれ? どこだったかなあ、わからないぞ。

 えっ? 逆の方だったかなあ。道からちょっと小さい坂を上がると車庫があったはず。だけど、小さい坂道はいくつもある。だが、我が家ではない。

 こっちの道だったかな。こんなに坂、登ったかな? そんなはずはない。

 おおっ、こっちは車で通ったことがあったな。ああ、この道はひろさん家へ行くときに通るんじゃ。あれ? わしはひろさんに何の用があったんかな。なんでここに来とんのか、忘れたぞ。まいったなあ。引き返そう。

 おや? この分岐はどっちへ行ったろうか。

 わしはどこへ行くんだったんじゃろ? わからんぞ。こりゃあ困った。

 困ることはないじゃろ。散歩しよったんじゃない? だったら、どこへ行こうってことはないんだから、困らんでいいよ。

 そうだ。そうだよね、やっぱり家へ帰ろう。ええっと。どっちだっけ。

 右へ下っていったら、わかるかな。あれ? 何で家がわからないんだろう。

 お茶堂があった。ひと休みして行こうか。

 腰掛けてボンヤリしていたら、向こうから来た人が声をかけてきた。

「あんたこんなとこで、なにしよんなら」

 えっ、と聞き覚えのある声に目を上げて顔を見ると、おふくろが話しかけてくる。

「ひと休みしよんじゃ」

 と応えて、あれ? おふくろはもう8年も前に鬼籍に入ったんじゃなかったかな。こんなところで会えるとは思ってもいなかったぞ。

 ここはどこだ? そう考えはじめて、これが夢だとわかった。

 三途の川縁まで行ったのだろうか。

2022年11月12日土曜日

天へかえろうとする儀式

  山を歩かなくなって1年半。山へ行きたいという衝動は、大分薄れた。それでもふと気が付くと、図書館の雑誌書架で山岳雑誌を手に取って眺めていたり、TVの「日本百名山」をボンヤリと見ていたりする。身の裡の憧憬は熾火のように、相変わらず火種を宿しているのかもしれない。

 夢枕獏『呼ぶ山』(メディア・ファクトリー、2012年)を図書館の書架に見つけ、手に取った。短編集。この作家は、幻想的なイメージを膨らませて、遠野物語の民話に絡ませて山歩きを取り上げる作品があったのだが、そのときに描き出される歩くプロットが、ほとんどクライミングハイになったときの私の内面の記憶に似ていて、好ましく思って気には留めていた。

 そのうちの一篇、『山を生んだ男』(1978年初出)に、北穂から大キレットを越え槍ヶ岳へ向かう一人の登山者が描かれる。冬の雪山の単独行。吹雪と自分との闘いを「ケンカ」と称して叱咤激励する。ところが、中岳避難小屋にデポしておいた食料が持ち去られている。手持ちの食料などを計算して停滞する日数を案じ、上高地まで降りるのにギリギリとみていたのに、装備をほとんど何処かになくした遭難者が現れる。助けられた彼は、しかし、狂ったようになって、予備食を全部盗み食いしたあげくに、ピッケルやアイゼンなどまで持ち去って避難小屋を出て行ってしまう。

 という限界状況に於いて、この登山者の前に現れた山の女神が槍ヶ岳に登ることを促し更にその上の道をたどることをすすめる。そういう設定の中で、主人公の心裡に去来する想念が眼前にみる「更に上への道」を、こうイメージする。山の女神というのは、読んでいる私が登場人物に勝手に名付けた妄想だ。


《山とは地が天へとどこうとする意志なのではあるまいか。ここに群れる頂は、天にとどこうとしてとどくことができなかった死体の群れなのだ。/頭上にさざめく星のひとつずつも、何かしらの山の頂であるような気がした。島や大陸が、海の底で繋がっているように、星とこの大地も、宇宙の底でつながっているのだ。/……山へ登るというのは、天へかえろうとする儀式なのかもしれない》


 これに似た感触を、私も何度か体感したことがある。標高5800mの氷河の上に張ったテントで目覚め、トイレへ行こうと外へ出て、ふと空を見上げたとき。星と山のピークが、同じように宇宙のピークというのではないけれども、わが身が宇宙とひとつに溶け込むような心持ち、わが身はほんの取るに足らない欠片なのだけれども、間違いなく大宇宙の、いま、ここに抱かれて実在しているという一体感。取るに足らない欠片というよりも、目にも止まらない微生物よりもさらに小さい、分子や原子というか、素粒子くらいの大きさに過ぎないけれども、まさしく大宇宙の一角を占めて存在しているのだという不思議な「一体感」である。

 あるいは、何処をどう歩いているというルートに関する意識はとっくにどこかへ置いてしまって、ただ、今、ここに身を置いて歩一歩と歩いている慥かさだけを手放さず、次の足の置き場にだけ意識がいっているという澄明な陶酔の感触。

 それを「天へかえろうとする儀式」といわれると、いつであったか、山には登らない私の友人に「あなた、山へ死にに行ってるの?」といわれたことを思い出す。そう言われたとき、身の裡のどこかが、そうかもしれないと頷くのを感じてもいた。でも「死にに行くのではない」と、表現上のズレを思った。イメージはそれにちかいけれども全く私の意志ではない、と。その端境の塀の上を歩いて、帰ってくることを懸命に試みるとでも言おうか。それを、「天にかえろうとする」とか「かえろうとする儀式」といわれると、何だか胸の内を射貫かれたようである、そうして、それが宇宙とひとつになる感触を求めていたと言われると、まさしくそうだったと、受け止めた感触に名付けぬまま、心裡のどこかに棚上げして捨て置いた感触を思い出す。

 もう、そのイメージを体感することは二度とないだろう。でも、その感触を感じたことを、こうして思い出すことはできるのだと、振り返っている。

2022年11月11日金曜日

怒らない怒らない

 大きい病院の入口。駐車場に入ろうとする車がいつも渋滞する。二車線のこちら側はバス用に用いているから、駐車場へ誘導する職員も何人かいて、慌ただしい。

「前が空いてんだろ。だったら早く行けよ」

 突然、一人の職員の叫び声が上がる。患者の車の運転手に言ってるのなら、それはすぐにモンダイになる。だが、同じ仕事をしている別の職員にそう怒鳴っている。

 バス待ちの長いベンチに腰掛けていたアラフォーの女性が、

「怒らない、怒らない」

 と、子どもをなだめるように呟く。着いたばかりのベンチでウィンドブレーカーを脱いでいた私は、そうそう、と思う。

 この叫び声の怒りの気分は、周りの人に伝染する。どんな職員がどんな職員に怒鳴っているのかわからないが、人の声は、ただ声が伝わるだけでなく、その声が内包する気分・気風を周囲に広げてしまう。

 アラフォー女性の呟きは、その気分・気風が自分に降りかからないようにというお呪(まじな)いなのかもしれない。子どもに言うようにと言うと、まるで怒鳴っている職員を諭すような面持ちになるが、そうではない。怒鳴る状況も理由もわからないままに、他のものが、

「そんなに怒鳴るものではありませんよ」

 と口を挟むのは、長屋のご隠居のような場合。もしそのように声をかけたりすると、さらにメンドクサクいことにもなりかねない。アラフォー女性は、自分に降りかからないようにバリアを張っているのだと、後で気づいた。

 人が発する声は、ただ単に何を言っているかを伝えているのではない。その人の気分やそういう社会的気風を、周りの人々にまで振りまいている。それを好ましく想う人は、その絶叫に浸っていたいと思うのかもしれないと、アメリカの中間選挙を応援するトランプさんの画像を見て思う。あの熱狂は、アメリカ国民の心の底に鬱積する憤懣を表している。だが対岸でそれを聞く、周辺にいる人にとっては、馬鹿馬鹿しく見え、大いに迷惑である。

 欧米の人は、人のメイワクということをそれほど考えないらしい。社会の風潮に照らして自分の振る舞いを決めるというセンスを持っていないからだ。自分の言動がもし周りとぶつかるなら、それとの争いを乗り越えてガを押し通すというのが、欧米流だ。

 だが日本では、〈郷に入っては郷に従え〉というように、「場」を支配する空気というものが、まず、勘案される。たぶんそこへ参入する自分を、入口では「場」の周縁にいるものと位置づけるのであろう。つまり自分が踏み込んでいる「この世界」は、誰か他の人たちの作り成した気風に満たされており、もしそれと自分の思いや考えが齟齬するなら、〈郷のルール〉に従って変えていかねばならないと考えるワケである。

〈郷の空気〉と自分の思いや考えとが、たとえ齟齬しても、それを変えようとまでは思わないとか、変える力があるとは思えないとか、そんなメンドクサイことにはかかわりたくないと思う人は、異議・違和感を肚の底に収めて静かに過ごす。

 勝手に「場」の空気を私してはならない。降りかかる「場」の気配には、「怒らない、怒らない」と怒り狂う「場」の空気に、呟くように静かに魔除けとか呪いをして、「怒るの、怒るの、飛んでいけえ!」と祈るのである。

 これは、ヘイトスピーチをする人や怒り狂う人への呪詛だけではない。絶叫型のパフォーマンス政治家に対するクールな応対も同様だと私は好ましく思っている。

2022年11月10日木曜日

バイデン善戦というが

 バイデン政権誕生がわかった2年ほど前、私は少しばかり親近感を感じていた。なぜだろう。なんだったんだろう。

(1)年齢が同じということもあったかもしれない。1942年から78年間の戦中戦後世界を視てきた。身を置いた地平が違うから視ていること当家取り方に違いはあろうが、同じ時代を生きてきたという漠然とした「同時代意識」は、案外身の裡の響く部分で共有するものがあるような感じがした。それに、そうか私も年寄り面するにはまだ早いと、思わせられた。

(2)バイデンの穏やかな語り口。トランプの、人々の熱狂を誘おうとするような、自分で自分の言葉に寄っているような絶叫は、耳にうるさい。静かな語りは、中味が問われる。当選直後は「民主党の大統領ではなく合衆国の大統領」ということも口にした。それは当時の日本の首相にも聞かせてやりたいと思った。自分の仕事は、人々と共にすすめられるものだ。それを聞き取り、政策として練り上げ、最終決断を下して実施に移す。そういう自分の役割を、世界の中に位置づけて考える。そういう立場に相応しいと思った。

(3)バイデンが「調整型」の政治家だというのにも、好感を持った。それまでのリーダーと180度違う。トランプもアベ首相も習近平もプーチンも、先頭切って突っ走り、オレについて来いっていうタイプ。そのリーダーたちは、往々にして、自己中である。人の言うことに耳を貸さない。周りの官僚たちの力量をすべて動員して施策を練り上げてくるのであろうが、その割に中味がない。見掛けのパフォーマンスにばかり気を配っている。パフォーマンスというのは、テンポ、リズム、メロディやハーモニーで直に心情に呼びかける。何を喋っているかは、実はそれほど重要ではない。その体に響く感触に浸っている音楽のようなものだこれは私も、わが身の傾きの中に思い当たることがあることとして用心しなくてはならないことだ。しかも、周りの人々の陶酔がますます浸っている自分の実感を確かなものと感じさせてくれる。あるいは、綸言汗の如く、一度口にしたことを訂正せず、違った事実が突きつけられると、それをフェイクとして退ける果断さがウケていたりすると、不快であった。バイデンは、しかし、これをこうしたいという開拓型の政治戦略をもっている方ではないと報道された。むしろ、周りに人たちの意見に耳を傾け、齟齬を調整し、折り合いをつけて政策としてまとめていくタイプの政治家として活躍してきたとメディアは報じていた。それを好ましく思うのは、トランプにせよアベにせよ、空言疎語、リップサービスばかりで、嫌気がさしていたことの反動かもしれない。だが、自身の政治戦略が空っぽであるというのを、むしろ好ましく思うのは、日本人である私の特異なクセではないかとも思いつつ、自分を疑ってかかる政治家の素養として大切なひとつだと思っていた。

                                      *

 ま、上記のようなこともあって、バイデン登場に私は好感を抱いていた。だが、2年経って、結局、これではダメだと思うようになった。哲学が感じられない。ヒラリー・クリントンが敗れたのは、戦後世界の理念的な政治哲学が、ただボロボロに廃れた上着となって着るに値しないものとなったことを示していた。トランプに取って代わるには、そのボロボロの上着に替わる、なにがしかの政治哲学をもった新しい理念を編み出さなければならないのだ。それがないまま、昔日の「理念」に寄りかかって、「ひとつのアメリカ」を取り戻そうとしても、それは無理だろうと、中間選挙を前に岡目八目はみていた。

 今、開票が進んでいるアメリカの中間選挙。日本のメディアではトランプのパフォーマンスが華々しく報じられ、バイデンのそれは、まことに控え目。アメリカの報道がどうなのかわからないが、もし日本のような報道と似たようなものだと、ウケないだろうと思う。彼の口から出る言葉は昔から語り継がれてきた常套語ばかりだからだ。もうその理念は色褪せているよと私は思うのだが、それを超える哲学を組み込んだ理念は未だ出現していないと言えるかもしれない。

 でもバイデンが善戦しているではないか、とメディアは言う。インフレという逆風の中での「評価」だから、大幅に負けるはずの民主党が、この程度で踏みとどまるというのは意外であったという見立てだ。そうかもしれない。アメリカ大衆の気分が、口先だけのトランプでどうにかなるものではないと思ったのかもしれない。あるいはメディアが解説するように、敵を作りそれを蹴倒して自陣営を優位に導こうというトランプ流の二元対立的政治抗争では、暴力を助長するだけ、世界の傾きを止められないとみたのかも知れない。あるいは中国の世界戦略に気圧されて進行してきたアメリカの衰退を、アメリカ・ファーストでは押しとどめることはできないと感じたのかも知れない。

 アメリカ国民の、直感が、もしそうであったら、世界はまだ、少し救われる。ロシアがウクライナを侵略し、中国などが傍観を決めこんで、ほぼ力を失っている戦後世界政治理念は、やはり国際政治に力を持つアメリカが主導して構築していかねばなるまいと、キシダ宰相の非力をみながら感じている。善戦とはいえ、共和党が半ばを制しているから、民主党政権への評価は、相変わらず厳しいものがある。バイデンが残る二年間に何をしてくれるか。観客席から声を潜めてみているのである。

2022年11月9日水曜日

立冬に小春日和の便りあり

 山の会を事実上閉じてから1年半。会員であったMさんから元気で歩いていると便りがありました。ちょっと紹介します。

***

F先生、お元気ですか。ようやくハイキング日和となり、私たち三ババ(MOM)が動きだしました。男衾緑地公園では二度咲きの山桜と再会中間平へは「風のみち」遊歩道を清流の風布川沿いに進み飛び石づたいに川を渡ります。M澤さんが大きなアケビを見つけました。23日は風布みかん山でみかん狩り、短い秋を楽しみます。ふかや花園にてアウトレットがオープンしてから時間帯によっては混雑するようになりました。先生はどんなあきを楽しんでいるのでしょう。

***

 山の会で歩いているときから、山歩きのセンセイと呼ぶのです。「やめてよ、せめて師匠って呼んで」といってきましたが、十年経っても変わりません。MOMの3人の方々はひょっとするともう後期高齢者入りしたでしょうか。団塊の世代、山の会の女性陣では二番目に高齢な人たちです。山の会を再開して、という請求書のようなものでしょうか。それとも事故で歩けなくなった私への激励でしょうか。でも、自分流の歩きをしているようですから、もうガイドは必要ありませんね。返信を書きました。

***

Mさま

 立冬の日に、小春日和の自然に浸ってゆったりと過ごす三婆の佇まい。

 いいですねえ。これからの冬を過ごす元気が湧いてきます。

 お便り、ありがとうございました。

 四国のお遍路から帰ってきてからも、右肩と腕の動きが重いリハビリは続けていました。これが頸随損傷の名残なのか、歳のせいなのかわからないといったところです。足腰は不都合ありませんから、歩くことだけはつづけています。4㌔離れている浦和駅、往復10㌔のリハビリ・クリニックなどは、歩け歩け。

 かなり元気が回復してきましたので、何年も前からかかえていた左手掌のデュピュイトラン拘縮というハイカラな名の障害を手術することにしました。デュピュイトランというのはナポレオンに仕えていた爵位をもったフランスの外科医。その方が発見したのでこの名がついている(その由来もまたなかなか興味深い逸話が残っていますが)手掌の引きつりを治そうというのです。7月半ばに手術して、もうすぐ4ヶ月になりますが、いまだに左手掌は折り曲がらず、名付け親に因むのか、ちょっと拗けた結果を直すリハビリに、やはり往復10㌔の道を週2回のペースで歩いて通っています。

 十月に八十歳になりました。O田さんやカクさんはもう81歳。男の平均寿命です。ま、彼らは平均的な男ではありませんから、ここまで来れば、長生きする方になりましょうか。私は憎まれっ子でしたから、くたばりません、逝くまでは。

 コロナの第七波も今が底かも知れません。第八波もやってくるそうです。負けずに、自助で何とか頑張っていきましょう。

 日々ボーッとして本を読んで暮らしています。ひねもすのたり。いい日和です。

  2022年11月9日 F 拝

2022年11月8日火曜日

躰に横溢する勢いの自省

 ヒトとは不思議なものだ。身は地面を離れることはないのに、思いは遙か遠くへすぐにでも飛ぶ。あるいは高く舞って地上を這い回る己の姿を見ることさえできる。地面を離れることのない身は、眼耳鼻舌肌という五感官を備えて外界を感知する。身は感知したコトゴトを己と外界との関係に於いてとらえ、最初の状況判断をする。危険か安心か、そのどちらでもないか。これは地面を這う身の、最小限の見きわめ。

 「身」は外界を感知する本体を総体として指し示す。

 古来からの「ミ」は《命ある人や動物の肉体。また、とくにその胴体。中世以降多くカラダが用いられるようになった。……命の有無にかかわらない、外側からとらえられる単なる形としての身体を意味する》と大野晋は解きはじめ、つづけて《それ(カラダ)に対して「ミ」は、前世からの運命、あるいは生まれてからそのときまでの状況をかかえて存在する人そのものをいう。その人がその人として生きている生命、境遇、社会的立場なども含めた個体としての人間総体である》と、「体/カラダ/身体」と異なる「身/ミ」の用法を分ける。いま、「ミ」は包丁や刀のミ(刀身)や容器のミ(中味)の意味にも使われるが、大野晋のいう「個体としての人間総体」は、俗に「心身一如」という意味での魂も肉体もひとつに溶け合った存在をいう。つまり「身」には外部からの刺激を受けとる人の本体の内部的な受信総体をさす意が込められている。それは「こころ」ではないか?

 「心」とは、まず「五感の延長/関係感知のセンサー」である。触覚というのを上記で「肌」と記した。ふれる、さわる、なでる、おす、あたる、つくという外部と接した皮膚感覚、痛い、痒い、こそばゆい、くすぐったいという、外的刺激を内的に感じる触感は、いずれもカラダの表面、皮膚が受け止めている。その外的刺激受容の機能的な受容部分が肌である。だがその感覚は、他の感官の受信と合わせ直ちに身によって集約され総合されて、外部世界との「状況」へと変換される。ヒトは外からの刺激を己との関係に於いてどういう意味を持つものかと捉えるクセを鍛えてきた。これが「こころ」である。つまり外部からの刺激を集約し総合する場が「身」である、そこで作動している外部との関係感知のセンサーが「こころ」である。

 では冒頭に述べたように「身は感知したコトゴトを己と外界との関係に於いてとらえ、最初の状況判断をする」とすると、「身」は「心」と同じではないか。その通り「心身一如」だ。どの角度で切り取ってヒトの内部と外部の動態的関係を文脈の俎上にあげるかによって、「身」というか「こころ」というかが定まる。

 では、遠くあるいは高く身を離れて世を見通す「思い」とは何であろうか。

 心に浮かぶよしなしごとというときの、「心に浮かぶ」のが「思い」である。「こころ」は「おもい」の源泉、混沌の海とその動き総体をさしている。大岡晋は「おもひ」にふれて次のように述べている。

《オモヒは思考・思念などの理性的精神活動からさまざまな情意まで、広い範囲にわたる意識の働きをいう。》と枕を振って《……いずれも胸の内に深く蔵して、基本的にその内容は外には表さない。しかし、内容はわからないながら何ものかを胸中に抱いているということが外から見て察知されることは珍しくない。》

 「おもひ」を「基本的には外には表さない」というのは、「おもい」が身中のイメージとしてはあるけれども、「考え」と言えるほどのロゴスを有していない。まだ言葉にならないが彷彿と胸中に渦巻く、感情次元で湧き起こるイメージである。だから、ポツポツと湧き出ずる断片であることが多い。

 それに対して「考え」は、言葉にして文脈(ロゴス)をもって表出することができる。あるいは、外へ表現されたものである。秘めている「おもい」は「言葉/ロゴス」になってはいない。「おもい」と「考え」との間が、繋がる/繋がらないは、言葉による。だが、ヒトが「身」をもって表現したことには、「気」が籠もる。

 ここまで坦々と外部と内部、感官と身、身と心、心と思いとメカニズムをほぐすように述べてきたが、感官と身と心の間をつないで伝達し外部と向き合って放出している原動力となっているのは身の保つ「気」である。子細をいえば、水と空気を基本として摂取しカラダの隅々まで行き渡らせ循環させて浄化し排出する生理的作用に支えられて、身は保たれている。そのヒトの営む摂取と排泄作用が、そもそも、地球規模の循環作用においては、菌類の行っている分解作用である。どう転んでもヒトの存在はグローバルな循環のほんのひと欠片。微生物と変わらない存在に過ぎない。

 と、以上のようなことを考えたのは、青山文平『やっと訪れた春に』(祥伝社、2022年)を読んだからである。その一節にこんなことが書かれていた。

《まだ若いうちは、躰に横溢する勢いがもろもろを弾き飛ばすが、勢いが弱まれば伝わるものが伝わる》

 そうなんだ。「おもい」も「考え」も、身の内奥に潜むとらえどころのない「気」が暴れ回る。外部からの刺激を受け、ほとばしり、誰彼なくぶつかり、何より暴れ馬のように身の裡に奔流する「気」に圧されて、外から伝えられてきたことが「身」に入らない。そこへもって、なまじっか囓った学問なるものの珍しい見掛けと味わいに惹かれてアタマが先走り、身に堆積してきた伝わっているはずの「こころ」が伝わっていなかったと、齢八十にして思い、臍を噛む。もろもろのものを弾き飛ばしている間は、「弾き飛ばした」ことに得意になって、人生になにがしかの事をなしたように錯誤もした。お恥ずかしい。

 とはいえ、今となって反省しているわけではない。世の仕組みに異を唱え、小さな場に於いて(日常に)抗ってきたことは、それ自体としては見当外れではなかったと思うからだ。同書は、こうもいう。

《世の中には、おかしいけれど、ずうっと続いてきている仕組みがごまんとある。それこそ世の中だと言っていいほどだ。そういう世の中にあって、せいぜい己らしく生き抜こうとすれば、おかしいことをおかしいと感じつづけていくしかない。》

 そうなんだ。「感じつづけていくしかない」。それはじつは、「己らしく」のオノレの自画像を描き出して、「オノレ」って何だと問い続けることである。その自問自答が、世界のおかしいことをおかしいとえぐり出す作法なのだ。そういうことを思った。

2022年11月7日月曜日

肝胆相照らす

 寿老人の「人はなぜ憎しみあうのだろう」と言ったコトバが、まだ胸に引っかかっている。カインとアベルの物語を思い出したが、それをヒトの本性とすると、逆に、そうではない(仲の良い)兄弟姉妹はなぜ(そう)なのかの説明がつかない。つまり、憎しみ合うと仲が良いとの両方を一括してとらえる次元を探り当てなければ、単なる性悪説ということになる。それは違う。どちらも極端な場合を引き合いに出しているが、じつは二者択一ではなく、双方の機縁がヒトの身の裡に内包されて無意識に沈んでいる。状況がその機縁に触れることによって、いずれかが無意識の奥で優勢となり、表出するのではないか。

 いつかも記したが、兄弟というのは育っていく間の相互的な関わり合いによって醸成される要素が、無意識に蓄積されている。私は男ばかり5人兄弟の3番目、つまり真ん中であった。昔から「3人寄れば公界(くがい)」と謂われる。口にしたことを秘密にしておくことはできないよという意味で用いられてきたが、公的な場、つまり社会だ。その意味では、5人兄弟というのは生まれがらにして社会に放り出されているようなことであった。ただこの「言い習わし」には無意識ということが想定されていない。公界というにせよ社会というにせよ、いずれも言葉を交わす世界と考えられている。これは、無意識という概念がなかったのだから、仕方がない。だが今私は、公界の底に流れる無意識の共通感覚が「3人寄れば」にも、「兄弟」にも「公界」にも「社会」にも、しっかりと流れていることを感じているし、知っている。

 憎悪も慈愛も、何がその契機にあるのか、その根柢になっているのかとなると、当人にもわからない。あるとき、ある状況に於いて発生する身の内奥から突き上げてくる「憎しみ」や「慈しみ」を、それとして感知する。その鉾先を誰彼に向けるというのは、憎悪慈愛とは別の次元で生じていることである。手近な人へ向ける。誤解(?)して象徴的な人へ銃弾を放つ。あるいは誰でも構わない高まる感情をぶつけられればいいとして繁華街の歩行者天国へ車を突っ込む。

 そう考えると、人がなぜ憎悪慈愛の感情を持つのかと問うことになる。それは、社会関係において人はなぜ上下優劣関係を紡ぐのか、ヒトはなぜ模倣し、かつ模倣されることを嫌うのか。人はなぜ他者の鏡に映すようにして己を意識しないではいられないのか。ヒトはなぜ群れるのかと問うのと同じで、一つひとつ、その都度、そのケースに従って解きほぐしていくしかない。

 兄弟においてそう考えてみると、肝胆相照らすという言葉が浮かぶ。辞書では「互いに心の底まで打ち明けて親しく交わる」とあるが、これも言葉を軸に置いていて、身の振る舞いで存在それ自体を相照らす気配が薄い。「互いの心の底まではわからないと互いに承知し合ってなお、互いの存在を快く受け容れる」ことというのが、より正解に近い。歳をとって本当に久々に会っても、別れたのはつい昨日のような思いで言葉を交わす。あるいは共に育った土地で、縁側に黙って座っているだけ。目の前の山や川を眺めているだけで、(心の底までは自分でもワカラナイことを)わかり合っているという感触に浸れる。これこそまさに、肝胆相照らすだと思う、この共にいる身が浸っている感触こそ、無意識が培い身に刻んできた共通感覚である。

 むろんこれは、兄弟に限ったことではない。もう65年も前の高校の同窓生と隔月にseminarを行っている。この地方都市にひとつの高校は、当時、小学区制であったために小中と共に同窓であった人たちもいて、いずれも同じ町の空気を吸って同じ時代の気配を感じ身の無意識に刻んできているせいか、仲が良い。社会人として働いてきた40年以上もの無沙汰を抜きにして、seminarを開いてもう十年近くになる。

 肝胆相照らすとまでは行かないが、子どもの頃に身に刻んだ無意識が紐帯となって、15人ほどが隔月に集まっている。意気不平とはいわないが、ほぼそれに近いくらい意見の違い、思いのズレはある。そもそも互いが高校を卒業して古稀ほどになるまでの間、何をしてどう過ごしてきたかを知らない。だがそれを当然の違いとして言葉を交わす。口頭の交わりと俗にいうほどの儀礼的な言葉は交わしていない。互いの感覚や価値観を尊重し、そのズレや違いの出所や根拠について互いに語り合う。そう語り合うことによって、根っこに座る無意識の共通感覚にに辿り着き、その感覚部分から湧き上がってくる(共に過ごしたという感触に到る)80年間という人生を振り返る。その80年間への敬意が、何より今ここに友人として存在することを支えていると思っている。

「肝胆も楚越」という荘子の言葉がある。

《自其異者視之、肝胆楚越也。自其同者視之、万物皆一也。》

(異った見方でこれを視ると、肝胆も楚と越のごとく違ってみえるが、同じ見方で視ると、物皆同じに見える)

 ここにもまた、異・同についての二者択一的な視線はあるが、身につけた無意識と世の中に出てから身を置いた世界や時代の醸し出す感覚や価値観のずれは、まさしく「肝胆楚越也」である。同時に、幼い頃から自己を確立したと思う高校時代までを過ごした社会と時代の無意識の共有は「万物皆一也」と感じている。つまり、憎悪と慈愛のように相対立する感情や感覚は身の裡に溶け合ってドロドロの海となり、外との交信の状況に応じて慈愛となりあるいは憎悪となって噴き出してくる。誰もが持っている内心の混沌の海である。

 それがseminarの同窓生は、たまたま憎悪が剥き出しになるような「関係」ではなく、互いに敬意を以て接する穏やかな気配に満ちている。これは、皆が満年齢であるいは数えで80歳になっていることから、本当のこの社会の高齢者としてひっそりとたたずむ存在であると自らを位置づけているからである。そういう世界の側からみると、取るに足らない欠片、あるいはゴミのような存在と自分自身を自覚すると、存在していること自体に自ずから尊敬の念が生まれてくる。自分ならずとも、80歳まで生きてきた朋輩を愛おしくも思うのである。

2022年11月6日日曜日

追い書きーー躰に聞け! (4)人とは何か? ワタシとは何か?

 仕事をしている間の私には職を同じくする山仲間がいました。声をかけられ、あるいは声をかけて共に山へ入ることをしていました。ところがリタイア後は、仕事現役の山仲間とは繋がりが薄くなり、私より先にリタイアした先輩たちに声をかけられることが多くなりました。時間はたっぷりとある。ニューギニアパプアのウィルヘルム山、ヒマラヤのカラパタール、キリマンジャロやイタリアのドロミテなどなど海外の山へも連れて行ってもらっていました。しかし加齢もあってか、いろいろな障害も出来し病にもなり、身辺の変化もあって、山に同行する昔の山仲間が年を追う毎に少なくなって来ました。。

 幸い私は山歩講という山の会をつくる運びになり、同行者のいる山行を続けることができました。それが9年も続いたというのは、思わぬ僥倖と言わねばならないと80歳を超えてひしひしと感じています。そういう人との関わりについてこんなことを書いています。


                      ★ 「人」に託して「わたし」が立つ


     今の社会は自立した個人を前提にして成り立っている。生活的には自立であるが、同時にそれは個々人が自分のことを自ら決めるという自律を意味している。だが、自分のことを自ら決めるとはどういうことか。そう考えると、個々人の考え方だけでなく、世の中の風潮が指し示す方向もとらえておかねばならない。人の欲望は社会的に発生するものだからである。ことに女性の自律となると、ジェンダーがもたらす社会的な佇まいと切り離せない。その相剋と相乗も視野に入れる必要がある。

     なにしろ日本は、男社会である。家族制度の影も色濃い。そうした社会で、女が自律をするというのは、「個人」の意味するところを「男」との関係で位置づけないではいられない。じつは社会的背景を取っ払ってしまえば、「男」も「女」との関係で位置づけないではいられないのだが、世の中の潮流はそれを無用とするくらい、男中心にかたちづくられている。つまり「女」が男を軸として自らを位置づける以外に、自律の道筋は得られないのである。「男」は社会的な空気に育まれて、いつしらず自らの自律の根拠を手に入れているのである。

     その自律の苦悩を、「男」や「女」を問わず、戦前と戦後の一億総中流の時代とを行き交いながら探る物語が、桐野夏生『玉蘭』(朝日新聞社、2001年)に描かれている。時代を半ば戦前と対照させながら、しかし今の時代の自律の問題に焦点を合わせて、身の裡に語らせる手法は、さすが桐野夏生だと思わせて、圧巻であった。もちろん「自律」という言葉は一言も出て来ない。生きている安定点というかたちで内面に起ち現れている。

     桐野が描き出す自律のかたちは、「わたし」の自律は「人」に託したところに立ち現れるというもの。関係的に人の在り様をとらえようとする桐野の視線が好ましい。「わたし」のレゾンデートルが「他者(ひと)」にあらわれるというのは、共に生きるということそのものであり、そのかたちは人の身そのものの在り様を指し示している。個の自律が「わが身」を「人」に託すことに現れるのは、何とも皮肉であるが、人というのがそのような存在の仕方をクセとして持ってきたことに由来すると考えると、得心が行く。文字通り「人閒」なのであった。

     その屈曲点が、身を棄てる地点に現出するというのも、年を取ってからではあろうが、腑に落ちる。世の中の授けたさまざまな観念を自ら棄て去った地平に、「人」に託したかたちではじめて自律は自らのものとして姿を見せる。「関係」のあわいに「人」が見事に浮かび上がる。これは、女ではないが、数えの80歳を迎えたワタシの感懐に近い。


 「追い書きーー躰に聞け!(3)」に記した(a)から(c)への山歩きの変容には、私の無意識の思惑が働いていたと、この文章は言っています。「個人は自立/自律しなくてはならない」という無意識です。山の会の人たち個々人が、自律的に山へ向かうこと。主宰者である私から言うと、「案内して貰う」ではなく「一緒に山に登る」ようになってほしいという無意識の思いが、歩き方の評価になり、時に苛立ちになり、ぶつかったりして、「ちょっと厳しい物の言い方です」と諫められています。

 こうしたことが素直に受け容れられるようになったのは、全く私自身が遭難し、身の不自由を体感し、わが身がいつしか染みこませてきた心の習慣さえ、アタマで動かしていこうとしていた「逆立ち」に気づいたからでした。

 躰に聞け! わが身に問いかけ、感じていることをセカイに位置付けて全身で受け止めていく。そうした心の習慣と自問自答しながら歩き続けよ。そう窘(たしな)めらているように思いました。

 こうして2020年4月半ば過ぎに、四国の「ぶらり遍路の旅」へ向かいました。この八十八カ所巡りもじつは、退職して後2005年に、一年早くリタイア生活に入って経巡っていたカクさんの話しに刺激されて足を運んだのでした。5日間ほど、19番札所・立江寺まで行って帰ってきています。今回は立江寺から37番札所・岩本寺まで16日間、440kmを歩いて「飽きちゃって」切り上げています。草臥れ果てていました。一日平均27・5kmの歩行に、70代を終える躰が十分に答えを出しています。

 こうして山の会にケリをつける決心がつきました。遭難事故報告の末尾に「山歩講の今後について」として、いくつかの思い付きを記しましたが、もうそんな余力は残っていないことを思い知らされたようです。その後に会員のミウラさんから「元気になったら一緒に歩きませんか」とお誘いがあり、そのとき「山歩講のネットサイトを作る」といっていたことはどうしましたか? と催促がありました。全くのごめんなさいですね。その旨のご返事を差し上げましたが、せめて「本にする」と言った「9年間の記録」だけはまとめようとして、やっとここへこぎ着けました。

 あらためて、長い間お付き合い下さったことに感謝します。ありがとうございました。

2022年11月5日土曜日

追い書きーー躰に聞け! (3)

 山歩講の年々の山行回数と山中日数をまとめてみたら、この9年間の明らかに大きな変遷が見て取れます(4月から翌年3月までの年度。2021年だけ4月まで含む)。


  (a)2012~2015(4年)……47山、55日。年平均……約12山、約14日。

  (b)2016~2018(3年)……31山+29山、85日。年平均……20山、約28日。

  (c)2019~2021(2年)……54山+6山、77日。年平均……30山、約36日。

 (b)(c)年度の「+29山」と「+6山」は、「日和見山歩」の山行回数です。


(1)山歩講発足から4年間の(a)は、月例山行が(1回の中止を除いて)着実に月1で行われていました。(b)は「日和見散歩」が加わったので月2回の山行になりました。山歩講のメインの方は、私の体不調などもあって山行回数が減っています。

(2)回数とは逆に(b)は、宿泊を伴う山行が多くなり、山行日数は増えています。比較的軽い「日和見山歩」が入ったことで、メインの方はちょっと厳しめのところへ行けるようになったわけです。「日和見散歩」は天候不順のときは「中止」しました。

(3)(c)の後半時期の2020年3月からは、コロナウィルス禍が加わり、「日和見散歩」の活動は一気に萎んでしまいました。公共交通機関が使えない。県境を越えられない。山小屋が閉鎖される。活動の自粛が呼びかけられる。山歩講の山は移動に車を使うのが常となり、参加者数は少なくなりました。でも逆に、気持ちの上でそれらをクリアできる人たちは、最寄りの駅で待ち合わせて車に乗って登山口まで行くようにしました。車で行く関係上、山へ登ってからテントやバンガローに泊まって翌日帰宅する山行も増えました。キャンプという新しいスタイルのアウトドアが加わったわけです。

(4)そうして(c)の時期の山歩きはいくぶん過激になってきています。廃道になっているところやルートのないところを歩いたり、木に摑まって急峻な斜面を下っていくという山歩きが増え、終章に記した動物になったような気分が愉しいという、おおよそ七十代の山歩きでは思ってもいなかった要素に浸るようになっていたのでした。


 山本正嘉の『登山の運動生理学百科』(東京新聞社、2000年)は、「中高年、女性、こどもの登山」という項目を設けて加齢と共に筋力やバランスが衰えることを指摘しています。20歳の人に比すと、たとえば平衡性(バランス能力)は、60歳で1/4、70歳でさらにそれが半減する。骨密度や筋力の男女差なども取り上げて、若いときの経験が通用しない、頭ではこれくらい大丈夫だと思っていても、躰が言うことを聞かないと警告しています。歳をとることで躰がどう変化しているかをしっかりと意識して山に向かえというわけです。裏返して言うと、アタマで思ったことは疑ってかかれということですね。

 山歩講がはじまったとき、男性会員は、満71歳のオキタさんを筆頭に、70歳のカクさん、69歳の私、68歳のリョウイチさんと4人いました。文中でも紹介していますが、カクさんはトライアスロンや山岳マラソンをする図抜けたアスリートで、ある競技では若い人を育ててもいました。オキタさんは、カクさんに誘われて100㌔マラソンなどに参加したりしていた方。リョウイチさんはまだ現役の仕事人でしたから、初めはときどきの参加、退職してからめきめき力をつけてきました。つまり、体力やバランスは概ね同年齢者の標準かそれ以上ありました。

 女性会員は団塊世代の方を筆頭に還暦前の人たちでしたから、山を歩きながら呼吸法に習熟し、バランスを身につけ、休憩の取り方、水やカロリー摂取の具合を覚えていくようにして、徐々に体力をつけていくことを考えていました。男女の持つ生来的な筋力の違いは、歩き方のいろんな面にも現れてきます。女性陣がよくアラコキの男たちに付き合ってくれたと思っています。

 そればかりではありません。孫が生まれる娘の世話。その孫が学齢に達し下校後の世話をしなくてはならない。高齢の親や病に伏した連れ合いの世話をするなどは、あらかた女性に降りかかってくる役割でした。それらをかいくぐって山へ行く。疲労がたまったまま、睡眠不足のままで参加することにもなる。それは歩度にも影響する大きな障害でした。

 男たちもしかし、年を追う毎に病とか身にいろいろな障害が生じて、躰を気遣わないでは山へ行けないことがしばしば起こりました。そういう意味で、まさしく躰と自問自答しながらの山行でした。

 今振り返ってみると「黄金の60代」「やっとの70代」、そして「最終コーナーを回った80代」と言えそうに思います。自分の躰に聞きながら行程に配慮し、歩度を調節し、身に合った山歩きをする。高齢になるとは、それを意識的に行わなければならなくなったということです。同時に、山歩きだけを抜き出して考えているワケにもいかない社会的な役回りが絡んできます。山の会の山行は、暮らしの中に山歩きを位置づけて考える機会にもなりました。

2022年11月3日木曜日

追い書きーー躰に聞け!

 左手掌の回復が感じられるのは、放りだしておいた山の会9年の記録を出版しようという気持ちが湧いてきたから。4月に入稿し、「急ぎませんから」と言って四国遍路の旅に出かけた。5月に帰ってきたと出版社に知らせ、「今忙しく、ひと月ほどしたら取りかかる」と返答があり、そのままにしておいた。こちらも左手掌の手術をして、未だにリハビリに通っている状態だから、とくに請求もしていなかった。だが当初仕上げると言っていた10月を過ぎてなお、応答がないのは困るなあと思い、「どうしていますか」とメールを送った。「取りかかる」と返信が来た。

 そういうわけで、こちらももう一度エンジンをかけなければならない。まず取りかかったのは「あとがき」。入稿した原稿は、2021年4月の山岳遭難のことと12月に山岳救助隊に御礼に行ったことまで。「あとがき」ではどうも落ち着きが悪い。と言って手紙ではないから、「追伸」でもヘンだ。折口信夫の著書に「追い書き」というのがあったのを思いだし、そういう表題で、終章の後に少し長い「あとがき」を付け加えようと書き始めた。それを、2回に分けて掲載しよう。

      *

  皆野の病院に入院していた18日間に触れておかねばなりません。私にとっては、大転換の時機であったのです。むろんこんな長期の入院が初めてということもありました。それ以上に、打撲と頸椎損傷の上体、ことに右首肩腕が痛みも伴って不自由だが、下肢は健康そのものというアンバランスが全体として体の劣化を強く感じさせました。歩けるけれどもすぐに疲れて休みたくなる。重い物が持てない。それと同時に、病院の食事が1400キロカロリー。体の保持に必要な熱量と栄養を十分満たしているのに接して、ふだんの暮らしが如何に過剰を痛感させられました。当時のことを、こう記しています。


                        ★ あなただれのおきゃくさま?


     身体不自由の長期入院という事態は、日頃のわが身の在り様を考えさせるに衝撃的でした。

     入院当初2回の食事は、食欲もなく汁物だけを飲んで下げてもらいました。お粥にしてもらい、煮びたし、根菜の煮物、煮魚、デザートなど、全部で4品。1日1400kcal、塩分6g未満。病院食です。

     両手がうまく動きませんでした。いまでも右腕は力が入らず、胸の高さに上がりません。もちろん病院は、食事の時に介助をしようとしてくれます。でも、左手でスプーンをもって口元に運び、自力で食べることができるようになりました。

     一つひとつの動作はゆっくりです。間合いも十分すぎるほど必要でした。

     そのときわが胸中に、バチバチとわが身を振り返るウィルスがいくつも入ってきました。

    

     なんて、これまで、忙(せわ)しなく食べていたのだろう。

     なんて、たくさんの量を、ふだん食べているのだろう。

     なんて、味わいもせず、胃袋に放り込んできたのだろう。

     たくさんの「なんて」が湧き起り、それがつぎの「なんて」を生み出します。

     そこで、はたと思い当たりました。

     ああ、食べること、食べ物のことに、ちゃんと向き合ってこなかったんだなあ、と。

     

     山歩きをするとき、食糧計画をたて、調理プランも考えてきました。でも、お腹を満たすこと、カロリーばかりに関心が傾き、あとは重さやかさばり具合を考えて準備をしてきたのです。ま、山は非日常ですから、それはそれで一向にかまわないと、今でも思います。

     日頃の食事がそれではダメなんだよ、とバチバチウィルスの浸入した細胞が訴えています。

     何がダメ?

     基本がダメ。食材がなんであるか、どう調理しているか、取り合わせはどうなのか、どうやっていまこの食膳に並んでいるのか。そんなことにに関心を持たないで、ヒトは生きては来られなかったはずです。

     他人(ひと)様にやってもらって、御馳走になるのは、お客様。

     あなた、だれのおきゃくさま? 

     自分のことを自分でやるというのが、生きていく基本。それを忘れていますね、とわが身がつつかれたのでした。


 これは、ヒトとは何か? ワタシとは何か? 日常とは何か? 自律とは何か? と、一つひとつを自問自答する入口になりました。そうやって考えてみると、ワタシというのはホモ・サピエンスとして現れるまでの人類の進化とそれ以降の身のこなしを親世代から子世代へと受け継ぎ、身を置く環境や世間との関わりから磨かれ鍛えられて変化し、今の私に届いている。その大部分はワタシの無意識に深く根付き、身のこなしとしていつしか振る舞っている。

 これを逆に受け継がれている文化の側からみると、私の躰を借りて人類史の生み出した文化が通過している。その通過途次の私が意識した自己がワタシであり、そう言えばことばも、そもそも世に流通するそれが身を置く環境から伝わってきて、いつしか身に染みこんでいる。感性も感覚も好みも周囲との関係を感知する心の動きも、ことごとくが外から注がれ身の裡で自分なりに秩序づけて、あるときコレがジブンだと思う。その自己が意識されるようになった頃からジブンがコトバを繰り出しているように錯覚してきたことにも気づかされます。

 と同時に、私のワタシと傍らにいるヒトのワタシとは違うことに気づきます。生まれ落ちた境遇も成育中に通過した環境も違うから、身に備えた(本人は無意識の)感性も感覚も価値観も違って当たり前。つまりヒトそれぞれのセカイをもっていて、その共通して重なり合う部分が共に言葉を交わすときの共通感覚となり、共有する世界となっている。無意識と無意識がぶつかり合って揉め事になる。その衝突を解決する方法も違ってくる。ときに喧嘩口論となり暴力が振るわれたりする。ジブンの無意識に問いかけることが、まず状況に臨む第一歩になる。ジブンは何になぜ腹を立てているのか、どうしてこのコトバが許せないのか。そうジブンの無意識と自問自答すること。コトバよりも振る舞いの方が遙かに大切な関わり方と思えてくるのでした。(つづく)

2022年11月2日水曜日

行きたいところ

「11月の*日は空いてる?」

 と新聞を読んでいたカミサンが訊く。

「うん、空いてるよ、何?」

「大井川鐵道に乗って、寸又峡に行かない?」

「ああ、いいね。行きましょう」

「じゃあ、申し込むね」

 と、どこかのツアーに申し込んだ。9月の話しだ。その後に政府の旅行補助が行われるようになり、旅行会社の宣伝は激しくなった。新聞広告も掲載される。

 以前に一度利用してから、ツアー企画満載の雑誌が定期的に送られてくる。カミサンはそれを覗いて、さて今度はどこに行こうかなと探している。私はたいてい、誘われれば行く。カミサンは、

「どこへ行きたいの?」という。

「えっ、う~ん、どこって特にないけど、何か?」

「行きたくないの? いつも無理して付き合ってんの?」

「いや、そうじゃないけど……。山なら計画するよ?」

「そうじゃないのよ。ここへ行きたいってとこへ行こうよっていうの」

「そう言われるとね、とくに行きたいってとこがあるわけじゃないのよ。ただね、誘われれば、できるだけ前向きに行こうと思ってるわけ。行けば行ったで面白いしね。食べ物もおいしいし、観るもの聞くこともいろいろと刺激あるでしょ。でもね、何処へ行って何を観たいってことは、内発的にはないのよ。別に山じゃなくても、あなたが何処其処へ行きたいっていうのなら、プランは作るよ。チケットの手配もするよ。それくらいは、イヤじゃないし、自分も行こうって気になるから。キャンプに行こうとか、山へ行こうっていうのなら、場所を探して行程を作るけど、何処か行きたいとこってある?」

「う~ん、いい。ツアーを観て決めてんだから」

 こんな遣り取りをしている。

 でもどうして私は、行きたいコレというところがないんだろう。

 引っ込み思案というわけではない。そりゃあ、家に居てパソコンに向かって、よしなしごとを書き綴っていれば、それはそれでいいんだけれども、やっぱり外に出て動いているのは捨てがたい。じゃあ何処か決めなさいよと言われると、コレと行って行きたいところが思い浮かばない。メンドクサイというわけではない。

 旅行会社のツアーってのがいやなんだろうか。そうでもない。カミサンが申し込んで連れて行ってもらった隠岐の島も伊勢も紀州と吉野の桜も面白かった。会社企画のツアーではないが、彼女が知り合いの鳥の達者たちが企画した旅もあった。むろん門前の小僧としてついでに連れて行ってもらっている宮古島や石垣島などの探鳥の旅は、鳥もさることながらそれぞれの土地がオモシロイ。

 そうか、どこでもいいんだ、行き先は。ぶらりと行って、何かに出くわすというのが面白いのかもしれない。行きたいといって行ったところで、期待通りのことが観られるってのは、何か内心の意図通りのことが起こって、いわば出来勝負のようなことになる。これは、なるようになるのとは違って、思惑通りに運んでいてつまんないってことかな。

 山とかキャンプというのは、行程を策定するのは「手段」であって、それにくっ付いてくる空間や時間の過ぎゆく様が旅心をくすぐる。自分で行程を策定する「手段」それ自体が、すでに旅のはじまりでもある。

 ところが、パックツアーは、まさしくお客様。皆お任せで行くのなら、何処へ行っても構わない。そんな気分があるのかもしれない。もちろん、お任せが悪いといっているわけではない。それならそれで、すっかり任せて、それ以外のところで旅の偶然性を味わおうと思っているのかもしれない。ま、贅沢な言い分ではある。

2022年11月1日火曜日

歩行とお酒と睡眠と気力

 少し長時間歩くという意欲が甦ってきた。昨日の記事、3時間半ほどの歩きで疲れを感じている。これでは「ぶらり遍路」もおぼつかない。四国の気温を考えると、2月中旬から3月にかけて、今度は「ぶらり遍路の旅」の続きをやろうという思いが湧いている。3ヶ月半ほどをかけて脚力を鍛えねばならない。あわせて、4,5月に「飽きちゃった」轍を踏まないよう思案しなければならない。この思案も気力による。

 も一つ思案しているのが、お酒。週6日ほど夕食時に杯を傾ける。3:7で割った焼酎のお湯割り1杯がクセになっている。それからTVを観ながらボーッと過ごし、風呂に入って9時に就寝というのがいつものパターン。昼間しっかり歩いていると、朝5時過ぎまで起きないで熟睡できる。ちょっとどこかの調子が狂うと夜中に一度トイレに行く。謂わば私の体調管理のバロメータだ。

 昨日は5キロほど先の市立病院へリハビリに行った。涼しいというよりもちょっと寒くなって、歩いても汗をかかない。日差しを受けながら往復2時間ボンヤリと車の少ない住宅街と畑の通りを往き来するのは、心地良い。そして夜の一杯。9時の就寝。そして今朝は5時24分の目覚め。これが順調に感じられるのは、左手掌のリハビリが(長い目で見ると)着実に良くなっているからであろう。物を摑むことができる。力を入れると痛みが走るが、軽くタイピングするのは一部の指を除いて、まずまずだ。

 それもあって、昨日から4月に出版社に送っていた「70代の山歩き――山歩講8年の記録」を仕上げる気持ちが再び湧いてきた。いや、実は三度だ。

 最初は2021年3月に仕上げた。だから「8年」である。その直後、4月に「私の遭難事故」があった。その後の長いリハビリ。その間に山の会は事実上終了し、会計担当をしていた方に、残金の処理をして貰った。「終了」とし「解散」としなかったのは、私の手を離れて会員たちが随意に山歩きをし始めていたから。同行できないが、私も何らかの貢献ができるかなと思ってもいた。でも思うだけで、心持ちが動きを伴わない。

 だが何とか気を持ち直して取りかかった二度目が今年の3月。4月に出版社に原稿を預け、私が傘寿を迎える十月までに仕上げるので良いと依頼して、「ぶらり遍路の旅」に出かけた。帰ってきて、その「遍路のご報告」を出版社に送ったら「ちょっと慌ただしく、一月後くらいに取りかかる」と返事が来ていた。7月に左手掌の手術をしたことが、思わぬほど大きく長引き、未だにリハビリに通う羽目になった。それもあって、当初目指していた十月には間に合わないと判っていても、別に出版社に請求するでもなく、放っておいた。

 こうして今、11月を向かえて三度目の出版意欲に辿り着いた。「8年の記録」が「十年の記録」になる。そうだ、ちょうど70代の記録になる。「はじめに」と「おわりに」に手を入れて、書き足すだけで良さそうだ。ちょっと厄介なのは、400字詰めで約2千枚になること。分冊にするのが良いといわれるかも知れない。校正には手がかかるだろう。ま、そこは成り行きに任せて、デザイン編集を味わいながら、できれば2月のお遍路出発前に仕上がるといいなあ、と考えるともなく思っている。

 昔は十一月になると、一年の疲れがたまってか、どちらかというと気持ちが沈みがちになっていた。仕事をリタイアしてからはそういうこともなく、後ろを振り返らないで日々を送るようになった。ことに65歳の高齢者になってから記しはじめた「よしなしごと」が時間を往来してわが身の裡側を覗き込むような恰好になったからか、外向けの形(なり)には構わなくなった。人にどう見られてもいい、わが身に感じる不思議だけは少しでも解きほぐしていこうとするようになってからは、身が軽くなった。