図書館の書架にジョージ・オーウェルの『動物農場』を見つけ手に取った。最近(2022-10-22)何かの感懐を記すとき、これを引き合いに出したことを思い出したからだが、読んだのはもう昔も昔。印象が果たして間違えていなかったかと手に取り、旅の合間に読んだ。
印象は間違えていなかったが、ひとつ時代相の違いを感じる発見があった。読んだ学生時代にはスターリン批判として読み取っていた。それはそれでいいのだが、いま読むとファシズムとか全体主義に対する見方が、オーウェル時代とすっかり変わって、深みが増していると感じた。
オーウェルの描き方は、賢いリーダーがおバカな民衆を率いて「大転換」を起こす。民衆は騙されたのではなく、自分たちが国家社会をつくっているのだという正義感に満たされて苦難に耐え、歓びに溢れて大転換に翼賛していくのだが、リーダーたちの主導権争いと交代による正義性の変化に気づかず、またリーダーは見事に民衆の無知と忘れっぽさにつけ込んで情報操作と状況操作を行う。何年か経ってみれば「大転換」はどこへいったやら、ただ単に国家社会の指導層が変わっただけで、元の木阿弥だったという物語りである。
トランプのようにフェイクだ、盗まれたと叫ぶところは見事に同じ。習近平のように欧米諸国が偽りを言って我が国が人権侵害をしているとか、産業技術を盗んでいると攻撃していると吹聴するのと同じ。あるいはプーチンが、法的手続きを次々と変えて正当性を貫き、実はその裏で反対派を次々と粛正して権威と権力を守り通すのと同じ。
だが今の時代、民衆がおバカさんとは言わないところが、時代相の変化だと気づいた。アメリカも中国もロシアもまさしくそうした類いの激動の渦中にあるから、岡目八目のようにクールには見つめられないのかもしれないが、民衆がおバカでフェイクに騙されているのだといって、わが派の主張の正当性を証すのは、お粗末の限り。むしろ民衆自身がそれに拠る熱狂を求め、それに身を寄せてお祭りを敢行して鬱憤を晴らしたいというホンネの衝動が浮き彫りになっている。
つまり、指導層の手練手管は変わらないが、その原動力は、むしろ民衆の側の内的衝動の発露が結晶化しているというところまで、国家社会の「大転換」の解析は進んでいると読むことができる。これは、時代相の変化なのか、政治社会の解析の進展なのか。
20世紀の前半には、ロシア革命の正義性が本物なのか偽物なのかが、わからなかった。社会主義革命という人類史上のひとつの「理念の結晶」が、実行過程で果たして上手くいくのかどうかが問われていると(当該の国のというだけでなく、世界の)民衆はみていたし、もちろん反対する資本家社会の国々は「動物農場」の人間たちのように、「大転換」が成功することは資本家社会が欠陥品であることの証明になりかねないとみていたであろう。つまりどちらの陣営も、ロシア革命の推移が「正義性」を証す象徴のようにみていた。まだ時代の気風の中で「正義性」は生きていたのであった。
ところが、1989年にソビエトは崩壊した。いや、それよりずうっと以前に、ソビエトが恐怖政治によって支えられ、社会主義経済は破綻しているといわれてきた。ただ、男女の平等と教育、科学、芸術は行き渡り、保護されてきたと評価を受けていたから、なにもかもが悪かったと感じられていたわけではなかったろうか。
しかしソビエトの崩壊は、資本家社会の一人勝ちのようにみなされ、市場経済という交換形態と資本家社会経済とが一緒くたにみなされ、それはちょうど、自由と民主主義が資本主義経済と一緒くたにされたのと同様、ありとあらゆる人間の経済活動が資本主義的な論理ですすめられるのがより正しいとみなされる結果となった。つまり人間の集団性のもつ贈与互酬とか無償の保護・慈愛という関わりまで、自由競争と金銭計算の対象となり、それ以外の交換関係をゴミ箱に捨ててしまうような社会観が行き渡る結果になった。その結果、社会主義の当初掲げていた「正義」もゴミ箱行きとなり、古いタイプの人間だけが、それはそれとして守り育てることとなった。
ところがヒトというのは、足らざるものをなにがしかの方法で取り戻そうと、心裡のどこかで求めるもののようだ。足らざる憤懣を鬱屈として溜め込み、何かの機会に鬱憤を晴らす衝動へと注ぎ込む。それがときに、銃を握って学校で乱射したり、爆発物を連邦ビルに仕掛けて爆破したり、あるいは航空機を乗っ取って貿易センタービルへ突入するという形を取る。そこまでいかずとも、トランプの爆発的な絶叫に誘われて群れとなり、ますますわが鬱屈の正当性が証されるように感じて叫び声を大きくする。それがただ単に、本人も気づかない、白人至上主義的な願望が時代の進展によって衰退の一途をたどっていることへの不安感であったのかもしれない。明日の食事代にも困る生活保護を受けている人が、役所の冷たい処遇に反発して、嘘八百を告発するトランプの声の響きに誘われたのかもしれない。
つまり、「正義性」が崩壊してしまっているのだ。その時代の民主政治が、嘘か真かを問う作法を失い、テンポとリズムと響きの良さと、それを受け止める時機の折り合いとによって選び取られて、大集会となり、大きなうねりとなって世上に報じられる。それがまた、勢いを加速する。情報の氾濫は、ヒトの思惑を揺さぶり、勢いづけ、あるいは抑圧する。知らない方がより真実に近い的を射ることも起こる。知るか知らないかよりも、より深く思索する、より根源から説き起こして現在までを視界に収める作法を、手に入れる方が、時代や国家社会の正鵠を射る。そんな時代になっている。
オーウェルの時代よりも、より人を見る目が深くなっているのか。それとも、人の心の動きが、国家社会の動きにより近く作用するようになっているのか。ファシズムも全体主義も、政治指導者の言動に振り回された結果というだけではなく、ヒトの本源的な性向が原動力となっている。そういう時代になっている、とみた方が良さそうに感じる。
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