2022年11月5日土曜日

追い書きーー躰に聞け! (3)

 山歩講の年々の山行回数と山中日数をまとめてみたら、この9年間の明らかに大きな変遷が見て取れます(4月から翌年3月までの年度。2021年だけ4月まで含む)。


  (a)2012~2015(4年)……47山、55日。年平均……約12山、約14日。

  (b)2016~2018(3年)……31山+29山、85日。年平均……20山、約28日。

  (c)2019~2021(2年)……54山+6山、77日。年平均……30山、約36日。

 (b)(c)年度の「+29山」と「+6山」は、「日和見山歩」の山行回数です。


(1)山歩講発足から4年間の(a)は、月例山行が(1回の中止を除いて)着実に月1で行われていました。(b)は「日和見散歩」が加わったので月2回の山行になりました。山歩講のメインの方は、私の体不調などもあって山行回数が減っています。

(2)回数とは逆に(b)は、宿泊を伴う山行が多くなり、山行日数は増えています。比較的軽い「日和見山歩」が入ったことで、メインの方はちょっと厳しめのところへ行けるようになったわけです。「日和見散歩」は天候不順のときは「中止」しました。

(3)(c)の後半時期の2020年3月からは、コロナウィルス禍が加わり、「日和見散歩」の活動は一気に萎んでしまいました。公共交通機関が使えない。県境を越えられない。山小屋が閉鎖される。活動の自粛が呼びかけられる。山歩講の山は移動に車を使うのが常となり、参加者数は少なくなりました。でも逆に、気持ちの上でそれらをクリアできる人たちは、最寄りの駅で待ち合わせて車に乗って登山口まで行くようにしました。車で行く関係上、山へ登ってからテントやバンガローに泊まって翌日帰宅する山行も増えました。キャンプという新しいスタイルのアウトドアが加わったわけです。

(4)そうして(c)の時期の山歩きはいくぶん過激になってきています。廃道になっているところやルートのないところを歩いたり、木に摑まって急峻な斜面を下っていくという山歩きが増え、終章に記した動物になったような気分が愉しいという、おおよそ七十代の山歩きでは思ってもいなかった要素に浸るようになっていたのでした。


 山本正嘉の『登山の運動生理学百科』(東京新聞社、2000年)は、「中高年、女性、こどもの登山」という項目を設けて加齢と共に筋力やバランスが衰えることを指摘しています。20歳の人に比すと、たとえば平衡性(バランス能力)は、60歳で1/4、70歳でさらにそれが半減する。骨密度や筋力の男女差なども取り上げて、若いときの経験が通用しない、頭ではこれくらい大丈夫だと思っていても、躰が言うことを聞かないと警告しています。歳をとることで躰がどう変化しているかをしっかりと意識して山に向かえというわけです。裏返して言うと、アタマで思ったことは疑ってかかれということですね。

 山歩講がはじまったとき、男性会員は、満71歳のオキタさんを筆頭に、70歳のカクさん、69歳の私、68歳のリョウイチさんと4人いました。文中でも紹介していますが、カクさんはトライアスロンや山岳マラソンをする図抜けたアスリートで、ある競技では若い人を育ててもいました。オキタさんは、カクさんに誘われて100㌔マラソンなどに参加したりしていた方。リョウイチさんはまだ現役の仕事人でしたから、初めはときどきの参加、退職してからめきめき力をつけてきました。つまり、体力やバランスは概ね同年齢者の標準かそれ以上ありました。

 女性会員は団塊世代の方を筆頭に還暦前の人たちでしたから、山を歩きながら呼吸法に習熟し、バランスを身につけ、休憩の取り方、水やカロリー摂取の具合を覚えていくようにして、徐々に体力をつけていくことを考えていました。男女の持つ生来的な筋力の違いは、歩き方のいろんな面にも現れてきます。女性陣がよくアラコキの男たちに付き合ってくれたと思っています。

 そればかりではありません。孫が生まれる娘の世話。その孫が学齢に達し下校後の世話をしなくてはならない。高齢の親や病に伏した連れ合いの世話をするなどは、あらかた女性に降りかかってくる役割でした。それらをかいくぐって山へ行く。疲労がたまったまま、睡眠不足のままで参加することにもなる。それは歩度にも影響する大きな障害でした。

 男たちもしかし、年を追う毎に病とか身にいろいろな障害が生じて、躰を気遣わないでは山へ行けないことがしばしば起こりました。そういう意味で、まさしく躰と自問自答しながらの山行でした。

 今振り返ってみると「黄金の60代」「やっとの70代」、そして「最終コーナーを回った80代」と言えそうに思います。自分の躰に聞きながら行程に配慮し、歩度を調節し、身に合った山歩きをする。高齢になるとは、それを意識的に行わなければならなくなったということです。同時に、山歩きだけを抜き出して考えているワケにもいかない社会的な役回りが絡んできます。山の会の山行は、暮らしの中に山歩きを位置づけて考える機会にもなりました。

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