8月の下旬に記したが、12月4日に開かれる36会seminsrの講師をミコちゃんが務めることになった。お題は「80歳のわたしの風景」。それを聞いた連れ合いのマンちゃんが「あんたがそれをやるのなら、わしは今後seminarには顔をださん」と言った。ミコちゃんは「この人の唯一世間と接してるとこじゃけん、それを取り上げちゃあいけん」と講師を辞退すると伝えてきた。そのことを9月seminarの折りに参加者に話したら、ミコちゃんと親しいスズさんとドリさんが、「私らが加勢するから、やろう」ということになったと私に伝えてきた。
面白い。3人が前に出て話すとなると、seminarというよりシンポジウムだなと思い、そのように「seminar案内」を皆さんに送った。何人かの人から「おもしろいこころみ、楽しみ」とメールの返信があった。
その返信メールの中に、「そんなシンポジウムをやるなんて話は誰がつくったん。わたしは前に席を列べてやるなんてことは言うとらんよ」とスズさんが言ってきたとドリさんからクレームがついた。ドリさんもミコちゃんと席を列べるつもりはないという。
ワタシはすぐに返信して齟齬をほぐそうとした。
《ええっ、私の方が驚いています。/前回の席で、ミコちゃんが講師として出るのではマンちゃんが困るということなら、お二人が加勢して講師をやりますと、私は理解していました。/何処で、何がどうすれ違ったのでしょうか。スズさんとあなたが、そうじゃないというのでしたら、この企画は取り下げねばなりません。/シンポジウムという表現をとったのは私の判断ですが、3人が講師として「前へ出る」というのでしたら、齟齬はないと思いますが。/スズさんとも相談して、ご返事下さい。》
ドリさんから返信が来ます。彼女の了解を取っていないので、それを紹介はしませんが、ワタシは再返信をして、粘ってみました。
《手を煩わせてごめんなさいね。でもね、シンポジウムという試みを、面白いと言う声が届いています。/トキ君のが、まず、そうでしたね。オーガ君もそういうことを書き添えています。またタツコさんも、同じように「楽しみ」にしています。/面白いという声は、これまでのseminarと違って、話しが立体化するという期待なのではないかと私は考えています。/結局ミコちゃんが一人前に出ておしゃべりするのでは、話しが立体化しない。スズさんやあなたが、ミコちゃんの話に関連して、どう思い、何を考えるかを話すと、ミコちゃんの話も膨らみをもって、面白くなるのではないかと私は思っています。》
ドリさんから「ミコちゃんがマンちゃんを引き合いに出すことはしない。高校でてからのことを振り返って、今の世相がかわってしまったと感じていることを喋る。司会は事務局のフジタがやって、その進行で末席で援護するスズさんやわたしに振ってくれればいいんじゃないか」と、概ねそういう趣旨の再々返信でした。それに対するワタシの返信。
《おやおや、とうとうセンセイ呼ばわりですね。揶揄っちゃあ、イヤですよ。/「末席で」というのが、気になるのです。マンちゃんは「前の席に3人並んでいる」のをみるのです。何を話しているかは、聞こえません。そこんところが、肝心なのですね。/しゃしゃり出ないで控え目に、というのを、アメリカ文化に身が全部浸っているあなたが口にするなんて、驚き桃の木です。/もちろん私が司会をしてというのは、考えないでもありませんでしたが、やはり女同士がああでもないこうでもないと(ミコちゃんが話すという)「仏様の話」をいじくり回すってのは、面白いじゃありませんか。/彼女の取り出す話題を、「ワタシは信仰心がありませんから、どうしてそれを信じちゃうの?」って、問いかける。どう彼女が応えるか、ワクワクして聞いていますよ。/ぜひぜひ、更にご検討を御願いします。タツコさんが「楽しみ」といっているのに、応えて差し上げて下さいな》
ここの段階ですっかり私は、シンポジウム形態を諦めています。それよりも、英語が堪能で、アメリカとこちらを往き来しているドリさんが、3月のseminarで「ジェンダーについて」講師をしたことにかこつけて、言葉を交わすことに関心が移っていました。
むろんseminarはミコちゃんを講師として、従来通りの形式で開催されます。ひと言ワタシが「驚き桃の木」と書いたことへ、「大和魂は持ち合わせております/大和撫子ですよ」とドリさんから返信がありました。ワタシは私の関心に沿って、付け加えないではいられませんでした。その再々再返信。
《(前略)アメリカ文化に馴染みの深いあなたが「シンポジウム」を面白いと言わなかったのを、らしくないと思ったわけです。スズさんは、胸の内を皆さんに打ち明けるのに、いつも及び腰です。seminarの講師を務めたこともありません。そのスズさんに引きずられるあなたを、らしくないとも思いました。/私たち世代の女の人たちは、間違いなく大和撫子です。男たちは間違いなく父権主義者です。男は女を保護し、女は男の影に隠れて縁の下の力持ちになる。そういう文化にどっぷりと浸って育って来たのですから、そう簡単に拭えるものではありませんし、拭うのがいいかどうかも、一言では言えません。欧米文化も未だ、父権主義的な名残は多く残しています。たださすがに、女性の引っ込み思案が讃えられるという森喜朗のようなセンスは、影を潜めています。もうそのジェンダーに関する「公的な見方」は、はっきりしています。残る問題は、日常の言動に於いて「一歩退いて振る舞う」ことを良しとする女性が、それを超えて、男か女かに関係なく振る舞うかどうかですが、ま、これは、私たちの子・孫の時代に委ねられるでしょうね。この辺りも、ミコちゃんの話にかこつけて話題にしてくれるといいですね》
とまあ、こんな遣り取りをして、しかしこれはジェンダーのモンダイではないのかもしれないと私は考えはじめています。
(1)しゃしゃり出ないのを美徳と考えるのは、女に限らない。控え目であること、一歩退いて事態を見極めることを寛容とする気質を私も色濃く身に備えている。オレがオレがという振る舞いはみっともないとも思う。この感覚は、何だろう。
(2)リーダーシップを取る人といつも前に出てリーダーという位置を占めなければ気が済まない人とどういう次元で、区別しているのか。自ずからというのがキーワードになるように思うが、それは集団の動きの中でどのようにして醸し出されてくるのか。自然(じねん)というなりゆきを、人の意識的な営みとしてつくりだしていくのは、どうやったらいいのだろうか。
(3)控え目であること、一歩下がってコトに対処する女性の資質と、にもかかわらず、家内の家事采配を一手に引き受けて立ち回る「縁の下の力持ち」的な女性の堅実さは、社会的な場面ではどう評価され、どうジェンダーを取り壊して人の暮らしに定着していくのか。
(4)上記のことと、生物的・生理的な男女の違いは、機能的な違いだけでなく、心理的・感性的・精神的な違いを育児・養育・教育などに与えると思う。それを子細に分別して論題にすることは、なされていない。どう考えていったらいいものだろうか。
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