左手掌の回復が感じられるのは、放りだしておいた山の会9年の記録を出版しようという気持ちが湧いてきたから。4月に入稿し、「急ぎませんから」と言って四国遍路の旅に出かけた。5月に帰ってきたと出版社に知らせ、「今忙しく、ひと月ほどしたら取りかかる」と返答があり、そのままにしておいた。こちらも左手掌の手術をして、未だにリハビリに通っている状態だから、とくに請求もしていなかった。だが当初仕上げると言っていた10月を過ぎてなお、応答がないのは困るなあと思い、「どうしていますか」とメールを送った。「取りかかる」と返信が来た。
そういうわけで、こちらももう一度エンジンをかけなければならない。まず取りかかったのは「あとがき」。入稿した原稿は、2021年4月の山岳遭難のことと12月に山岳救助隊に御礼に行ったことまで。「あとがき」ではどうも落ち着きが悪い。と言って手紙ではないから、「追伸」でもヘンだ。折口信夫の著書に「追い書き」というのがあったのを思いだし、そういう表題で、終章の後に少し長い「あとがき」を付け加えようと書き始めた。それを、2回に分けて掲載しよう。
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皆野の病院に入院していた18日間に触れておかねばなりません。私にとっては、大転換の時機であったのです。むろんこんな長期の入院が初めてということもありました。それ以上に、打撲と頸椎損傷の上体、ことに右首肩腕が痛みも伴って不自由だが、下肢は健康そのものというアンバランスが全体として体の劣化を強く感じさせました。歩けるけれどもすぐに疲れて休みたくなる。重い物が持てない。それと同時に、病院の食事が1400キロカロリー。体の保持に必要な熱量と栄養を十分満たしているのに接して、ふだんの暮らしが如何に過剰を痛感させられました。当時のことを、こう記しています。
★ あなただれのおきゃくさま?
身体不自由の長期入院という事態は、日頃のわが身の在り様を考えさせるに衝撃的でした。
入院当初2回の食事は、食欲もなく汁物だけを飲んで下げてもらいました。お粥にしてもらい、煮びたし、根菜の煮物、煮魚、デザートなど、全部で4品。1日1400kcal、塩分6g未満。病院食です。
両手がうまく動きませんでした。いまでも右腕は力が入らず、胸の高さに上がりません。もちろん病院は、食事の時に介助をしようとしてくれます。でも、左手でスプーンをもって口元に運び、自力で食べることができるようになりました。
一つひとつの動作はゆっくりです。間合いも十分すぎるほど必要でした。
そのときわが胸中に、バチバチとわが身を振り返るウィルスがいくつも入ってきました。
なんて、これまで、忙(せわ)しなく食べていたのだろう。
なんて、たくさんの量を、ふだん食べているのだろう。
なんて、味わいもせず、胃袋に放り込んできたのだろう。
たくさんの「なんて」が湧き起り、それがつぎの「なんて」を生み出します。
そこで、はたと思い当たりました。
ああ、食べること、食べ物のことに、ちゃんと向き合ってこなかったんだなあ、と。
山歩きをするとき、食糧計画をたて、調理プランも考えてきました。でも、お腹を満たすこと、カロリーばかりに関心が傾き、あとは重さやかさばり具合を考えて準備をしてきたのです。ま、山は非日常ですから、それはそれで一向にかまわないと、今でも思います。
日頃の食事がそれではダメなんだよ、とバチバチウィルスの浸入した細胞が訴えています。
何がダメ?
基本がダメ。食材がなんであるか、どう調理しているか、取り合わせはどうなのか、どうやっていまこの食膳に並んでいるのか。そんなことにに関心を持たないで、ヒトは生きては来られなかったはずです。
他人(ひと)様にやってもらって、御馳走になるのは、お客様。
あなた、だれのおきゃくさま?
自分のことを自分でやるというのが、生きていく基本。それを忘れていますね、とわが身がつつかれたのでした。
これは、ヒトとは何か? ワタシとは何か? 日常とは何か? 自律とは何か? と、一つひとつを自問自答する入口になりました。そうやって考えてみると、ワタシというのはホモ・サピエンスとして現れるまでの人類の進化とそれ以降の身のこなしを親世代から子世代へと受け継ぎ、身を置く環境や世間との関わりから磨かれ鍛えられて変化し、今の私に届いている。その大部分はワタシの無意識に深く根付き、身のこなしとしていつしか振る舞っている。
これを逆に受け継がれている文化の側からみると、私の躰を借りて人類史の生み出した文化が通過している。その通過途次の私が意識した自己がワタシであり、そう言えばことばも、そもそも世に流通するそれが身を置く環境から伝わってきて、いつしか身に染みこんでいる。感性も感覚も好みも周囲との関係を感知する心の動きも、ことごとくが外から注がれ身の裡で自分なりに秩序づけて、あるときコレがジブンだと思う。その自己が意識されるようになった頃からジブンがコトバを繰り出しているように錯覚してきたことにも気づかされます。
と同時に、私のワタシと傍らにいるヒトのワタシとは違うことに気づきます。生まれ落ちた境遇も成育中に通過した環境も違うから、身に備えた(本人は無意識の)感性も感覚も価値観も違って当たり前。つまりヒトそれぞれのセカイをもっていて、その共通して重なり合う部分が共に言葉を交わすときの共通感覚となり、共有する世界となっている。無意識と無意識がぶつかり合って揉め事になる。その衝突を解決する方法も違ってくる。ときに喧嘩口論となり暴力が振るわれたりする。ジブンの無意識に問いかけることが、まず状況に臨む第一歩になる。ジブンは何になぜ腹を立てているのか、どうしてこのコトバが許せないのか。そうジブンの無意識と自問自答すること。コトバよりも振る舞いの方が遙かに大切な関わり方と思えてくるのでした。(つづく)
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