大きい病院の入口。駐車場に入ろうとする車がいつも渋滞する。二車線のこちら側はバス用に用いているから、駐車場へ誘導する職員も何人かいて、慌ただしい。
「前が空いてんだろ。だったら早く行けよ」
突然、一人の職員の叫び声が上がる。患者の車の運転手に言ってるのなら、それはすぐにモンダイになる。だが、同じ仕事をしている別の職員にそう怒鳴っている。
バス待ちの長いベンチに腰掛けていたアラフォーの女性が、
「怒らない、怒らない」
と、子どもをなだめるように呟く。着いたばかりのベンチでウィンドブレーカーを脱いでいた私は、そうそう、と思う。
この叫び声の怒りの気分は、周りの人に伝染する。どんな職員がどんな職員に怒鳴っているのかわからないが、人の声は、ただ声が伝わるだけでなく、その声が内包する気分・気風を周囲に広げてしまう。
アラフォー女性の呟きは、その気分・気風が自分に降りかからないようにというお呪(まじな)いなのかもしれない。子どもに言うようにと言うと、まるで怒鳴っている職員を諭すような面持ちになるが、そうではない。怒鳴る状況も理由もわからないままに、他のものが、
「そんなに怒鳴るものではありませんよ」
と口を挟むのは、長屋のご隠居のような場合。もしそのように声をかけたりすると、さらにメンドクサクいことにもなりかねない。アラフォー女性は、自分に降りかからないようにバリアを張っているのだと、後で気づいた。
人が発する声は、ただ単に何を言っているかを伝えているのではない。その人の気分やそういう社会的気風を、周りの人々にまで振りまいている。それを好ましく想う人は、その絶叫に浸っていたいと思うのかもしれないと、アメリカの中間選挙を応援するトランプさんの画像を見て思う。あの熱狂は、アメリカ国民の心の底に鬱積する憤懣を表している。だが対岸でそれを聞く、周辺にいる人にとっては、馬鹿馬鹿しく見え、大いに迷惑である。
欧米の人は、人のメイワクということをそれほど考えないらしい。社会の風潮に照らして自分の振る舞いを決めるというセンスを持っていないからだ。自分の言動がもし周りとぶつかるなら、それとの争いを乗り越えてガを押し通すというのが、欧米流だ。
だが日本では、〈郷に入っては郷に従え〉というように、「場」を支配する空気というものが、まず、勘案される。たぶんそこへ参入する自分を、入口では「場」の周縁にいるものと位置づけるのであろう。つまり自分が踏み込んでいる「この世界」は、誰か他の人たちの作り成した気風に満たされており、もしそれと自分の思いや考えが齟齬するなら、〈郷のルール〉に従って変えていかねばならないと考えるワケである。
〈郷の空気〉と自分の思いや考えとが、たとえ齟齬しても、それを変えようとまでは思わないとか、変える力があるとは思えないとか、そんなメンドクサイことにはかかわりたくないと思う人は、異議・違和感を肚の底に収めて静かに過ごす。
勝手に「場」の空気を私してはならない。降りかかる「場」の気配には、「怒らない、怒らない」と怒り狂う「場」の空気に、呟くように静かに魔除けとか呪いをして、「怒るの、怒るの、飛んでいけえ!」と祈るのである。
これは、ヘイトスピーチをする人や怒り狂う人への呪詛だけではない。絶叫型のパフォーマンス政治家に対するクールな応対も同様だと私は好ましく思っている。
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