ヒトとは不思議なものだ。身は地面を離れることはないのに、思いは遙か遠くへすぐにでも飛ぶ。あるいは高く舞って地上を這い回る己の姿を見ることさえできる。地面を離れることのない身は、眼耳鼻舌肌という五感官を備えて外界を感知する。身は感知したコトゴトを己と外界との関係に於いてとらえ、最初の状況判断をする。危険か安心か、そのどちらでもないか。これは地面を這う身の、最小限の見きわめ。
「身」は外界を感知する本体を総体として指し示す。
古来からの「ミ」は《命ある人や動物の肉体。また、とくにその胴体。中世以降多くカラダが用いられるようになった。……命の有無にかかわらない、外側からとらえられる単なる形としての身体を意味する》と大野晋は解きはじめ、つづけて《それ(カラダ)に対して「ミ」は、前世からの運命、あるいは生まれてからそのときまでの状況をかかえて存在する人そのものをいう。その人がその人として生きている生命、境遇、社会的立場なども含めた個体としての人間総体である》と、「体/カラダ/身体」と異なる「身/ミ」の用法を分ける。いま、「ミ」は包丁や刀のミ(刀身)や容器のミ(中味)の意味にも使われるが、大野晋のいう「個体としての人間総体」は、俗に「心身一如」という意味での魂も肉体もひとつに溶け合った存在をいう。つまり「身」には外部からの刺激を受けとる人の本体の内部的な受信総体をさす意が込められている。それは「こころ」ではないか?
「心」とは、まず「五感の延長/関係感知のセンサー」である。触覚というのを上記で「肌」と記した。ふれる、さわる、なでる、おす、あたる、つくという外部と接した皮膚感覚、痛い、痒い、こそばゆい、くすぐったいという、外的刺激を内的に感じる触感は、いずれもカラダの表面、皮膚が受け止めている。その外的刺激受容の機能的な受容部分が肌である。だがその感覚は、他の感官の受信と合わせ直ちに身によって集約され総合されて、外部世界との「状況」へと変換される。ヒトは外からの刺激を己との関係に於いてどういう意味を持つものかと捉えるクセを鍛えてきた。これが「こころ」である。つまり外部からの刺激を集約し総合する場が「身」である、そこで作動している外部との関係感知のセンサーが「こころ」である。
では冒頭に述べたように「身は感知したコトゴトを己と外界との関係に於いてとらえ、最初の状況判断をする」とすると、「身」は「心」と同じではないか。その通り「心身一如」だ。どの角度で切り取ってヒトの内部と外部の動態的関係を文脈の俎上にあげるかによって、「身」というか「こころ」というかが定まる。
では、遠くあるいは高く身を離れて世を見通す「思い」とは何であろうか。
心に浮かぶよしなしごとというときの、「心に浮かぶ」のが「思い」である。「こころ」は「おもい」の源泉、混沌の海とその動き総体をさしている。大岡晋は「おもひ」にふれて次のように述べている。
《オモヒは思考・思念などの理性的精神活動からさまざまな情意まで、広い範囲にわたる意識の働きをいう。》と枕を振って《……いずれも胸の内に深く蔵して、基本的にその内容は外には表さない。しかし、内容はわからないながら何ものかを胸中に抱いているということが外から見て察知されることは珍しくない。》
「おもひ」を「基本的には外には表さない」というのは、「おもい」が身中のイメージとしてはあるけれども、「考え」と言えるほどのロゴスを有していない。まだ言葉にならないが彷彿と胸中に渦巻く、感情次元で湧き起こるイメージである。だから、ポツポツと湧き出ずる断片であることが多い。
それに対して「考え」は、言葉にして文脈(ロゴス)をもって表出することができる。あるいは、外へ表現されたものである。秘めている「おもい」は「言葉/ロゴス」になってはいない。「おもい」と「考え」との間が、繋がる/繋がらないは、言葉による。だが、ヒトが「身」をもって表現したことには、「気」が籠もる。
ここまで坦々と外部と内部、感官と身、身と心、心と思いとメカニズムをほぐすように述べてきたが、感官と身と心の間をつないで伝達し外部と向き合って放出している原動力となっているのは身の保つ「気」である。子細をいえば、水と空気を基本として摂取しカラダの隅々まで行き渡らせ循環させて浄化し排出する生理的作用に支えられて、身は保たれている。そのヒトの営む摂取と排泄作用が、そもそも、地球規模の循環作用においては、菌類の行っている分解作用である。どう転んでもヒトの存在はグローバルな循環のほんのひと欠片。微生物と変わらない存在に過ぎない。
と、以上のようなことを考えたのは、青山文平『やっと訪れた春に』(祥伝社、2022年)を読んだからである。その一節にこんなことが書かれていた。
《まだ若いうちは、躰に横溢する勢いがもろもろを弾き飛ばすが、勢いが弱まれば伝わるものが伝わる》
そうなんだ。「おもい」も「考え」も、身の内奥に潜むとらえどころのない「気」が暴れ回る。外部からの刺激を受け、ほとばしり、誰彼なくぶつかり、何より暴れ馬のように身の裡に奔流する「気」に圧されて、外から伝えられてきたことが「身」に入らない。そこへもって、なまじっか囓った学問なるものの珍しい見掛けと味わいに惹かれてアタマが先走り、身に堆積してきた伝わっているはずの「こころ」が伝わっていなかったと、齢八十にして思い、臍を噛む。もろもろのものを弾き飛ばしている間は、「弾き飛ばした」ことに得意になって、人生になにがしかの事をなしたように錯誤もした。お恥ずかしい。
とはいえ、今となって反省しているわけではない。世の仕組みに異を唱え、小さな場に於いて(日常に)抗ってきたことは、それ自体としては見当外れではなかったと思うからだ。同書は、こうもいう。
《世の中には、おかしいけれど、ずうっと続いてきている仕組みがごまんとある。それこそ世の中だと言っていいほどだ。そういう世の中にあって、せいぜい己らしく生き抜こうとすれば、おかしいことをおかしいと感じつづけていくしかない。》
そうなんだ。「感じつづけていくしかない」。それはじつは、「己らしく」のオノレの自画像を描き出して、「オノレ」って何だと問い続けることである。その自問自答が、世界のおかしいことをおかしいとえぐり出す作法なのだ。そういうことを思った。
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