山を歩かなくなって1年半。山へ行きたいという衝動は、大分薄れた。それでもふと気が付くと、図書館の雑誌書架で山岳雑誌を手に取って眺めていたり、TVの「日本百名山」をボンヤリと見ていたりする。身の裡の憧憬は熾火のように、相変わらず火種を宿しているのかもしれない。
夢枕獏『呼ぶ山』(メディア・ファクトリー、2012年)を図書館の書架に見つけ、手に取った。短編集。この作家は、幻想的なイメージを膨らませて、遠野物語の民話に絡ませて山歩きを取り上げる作品があったのだが、そのときに描き出される歩くプロットが、ほとんどクライミングハイになったときの私の内面の記憶に似ていて、好ましく思って気には留めていた。
そのうちの一篇、『山を生んだ男』(1978年初出)に、北穂から大キレットを越え槍ヶ岳へ向かう一人の登山者が描かれる。冬の雪山の単独行。吹雪と自分との闘いを「ケンカ」と称して叱咤激励する。ところが、中岳避難小屋にデポしておいた食料が持ち去られている。手持ちの食料などを計算して停滞する日数を案じ、上高地まで降りるのにギリギリとみていたのに、装備をほとんど何処かになくした遭難者が現れる。助けられた彼は、しかし、狂ったようになって、予備食を全部盗み食いしたあげくに、ピッケルやアイゼンなどまで持ち去って避難小屋を出て行ってしまう。
という限界状況に於いて、この登山者の前に現れた山の女神が槍ヶ岳に登ることを促し更にその上の道をたどることをすすめる。そういう設定の中で、主人公の心裡に去来する想念が眼前にみる「更に上への道」を、こうイメージする。山の女神というのは、読んでいる私が登場人物に勝手に名付けた妄想だ。
《山とは地が天へとどこうとする意志なのではあるまいか。ここに群れる頂は、天にとどこうとしてとどくことができなかった死体の群れなのだ。/頭上にさざめく星のひとつずつも、何かしらの山の頂であるような気がした。島や大陸が、海の底で繋がっているように、星とこの大地も、宇宙の底でつながっているのだ。/……山へ登るというのは、天へかえろうとする儀式なのかもしれない》
これに似た感触を、私も何度か体感したことがある。標高5800mの氷河の上に張ったテントで目覚め、トイレへ行こうと外へ出て、ふと空を見上げたとき。星と山のピークが、同じように宇宙のピークというのではないけれども、わが身が宇宙とひとつに溶け込むような心持ち、わが身はほんの取るに足らない欠片なのだけれども、間違いなく大宇宙の、いま、ここに抱かれて実在しているという一体感。取るに足らない欠片というよりも、目にも止まらない微生物よりもさらに小さい、分子や原子というか、素粒子くらいの大きさに過ぎないけれども、まさしく大宇宙の一角を占めて存在しているのだという不思議な「一体感」である。
あるいは、何処をどう歩いているというルートに関する意識はとっくにどこかへ置いてしまって、ただ、今、ここに身を置いて歩一歩と歩いている慥かさだけを手放さず、次の足の置き場にだけ意識がいっているという澄明な陶酔の感触。
それを「天へかえろうとする儀式」といわれると、いつであったか、山には登らない私の友人に「あなた、山へ死にに行ってるの?」といわれたことを思い出す。そう言われたとき、身の裡のどこかが、そうかもしれないと頷くのを感じてもいた。でも「死にに行くのではない」と、表現上のズレを思った。イメージはそれにちかいけれども全く私の意志ではない、と。その端境の塀の上を歩いて、帰ってくることを懸命に試みるとでも言おうか。それを、「天にかえろうとする」とか「かえろうとする儀式」といわれると、何だか胸の内を射貫かれたようである、そうして、それが宇宙とひとつになる感触を求めていたと言われると、まさしくそうだったと、受け止めた感触に名付けぬまま、心裡のどこかに棚上げして捨て置いた感触を思い出す。
もう、そのイメージを体感することは二度とないだろう。でも、その感触を感じたことを、こうして思い出すことはできるのだと、振り返っている。
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