そう言えば、学校の作文では「自分の言葉で書きなさい」とよくいわれた。でも自分の言葉って、なんだ? と考えはじめると、これがまた、厄介。自分が考え出した言葉ってワケにはいかない。
ぽんばほけとんろち、でやもにえきゃらんまい。
ほらっ、わからんでしょ。
ことばって、皆さんが使っている用語と文脈で、おおよそ人が言いそうなことを言いそうな場面で口にしてこそ、伝わるってものだ。
えっ、そうかい? と思う人がいると思う。人が言いそうなことを言いそうな場面で口にするのは、同調圧力ってもんじゃないか。そうなんだよ。でも、そうじゃないんだな。
人が言いそうなことってのは、聞き手からして、そう思うことだ。ヒトが言葉を交わすことってのは、実は綿密、且つ厳密に、つかわれている用語の一つひとつを聞き取り、その文脈に照らして解釈して、それへの応答を紡ぎだすってことをしているわけではない。
やあ、今日は****だね。
と声をかけられ、****のところは何を言ったか、よくわからなくとも、「いい天気」と言ったとか、「ご機嫌」といったに違いないとか、見当をつけて遣り取りをしている。
やあ、卿は寝ぼすけだね、と言っていたら、明治の元勲たちがどこかの別荘で言葉を交わしているのであろう。
じつは、やあ、峡は朝霧だね、と言っているとしたら、どこか山奥のテント場から深い渓を覗いて呟いているのかもしれない。
ときとところと誰といつ交わしているかは、口にするまでもなく、共有されているからだ。つまり、おおよその予め胸中に想起される言葉が遣り取りされると思って口にしている。いい加減なのだが、いい加減だから遣り取りが渋滞しないで交わされる。言語学者で文化人類学者でもある西江雅之がいつだったかどこかで、コミュニケーションの6割は身振り手振りで通じると書いていたのが、それに当たる。言葉はその補助手段と考えているとたいていのことは何とか切り抜けることができる。
その背景には、言葉にならないが、共有されている状況がある。状況とは、共に置かれている場面と相手とわが身が置かれている立ち位置の異同も含めて、おおむね共通する認識を持っていることを意味する。これが広く深いほど、緊張感のいらない、心地良い「関係」だと言える。島国だったせいかと私は思っているが、日本人は自然にそうした人たちに囲まれてすごすことが日常になり、それが逆に作用して、「空気読めない」と非難されたり、「同調圧力」と感じられたりするんじゃないか。細かい気配りとか気遣いというのも、根っこは同じ心持ちから出ている。
ヒトの往き来が広がり、文化も違う海外からの人たちと言葉を交わすようになると、逆に、それまでの心地よさと違って、共有するところが少なくなる。旧来の方法で考えていると、にわかに慮る範囲が広がり、ワケがわからない行き違いや、誤解が多くなってくる。もっともそれは、外国人相手とは限らない。
木で鼻を括るという俚諺がある。国会の大臣たちと議員野党議員との遣り取りを思い浮かべれば良い。「記録にあるが記憶にない」などと大真面目に応えている経産大臣。はぐらかすとかとぼけるとかごまかすとか、言い様はいろいろあるけれども、質問者の問いを、「自分の言葉」で返している。「とぼける」とか「ごまかす」というのは、経産大臣が、実は質問者の意図するところを理解していると思うから、そういう言葉になる。だがひょっとして、モンダイの宗教団体との関係があったかどうかを追求されているのだけなのだと思っていたら、うるさくまとわりつくハエを追い払うように応えていたのかもしれない。只今日本の国会議員というエリートは、その程度の人たちなのだと認識する機会になっている。どこかで、前述の経産大臣は東大卒のエリートだと(褒めたのか揶揄ったのかわからないが)言っていたが、案外、東大卒ってのも、そうした発達障害のようなヤツもいるんだと思った方が、正解かもしれない。ごめん、こういう言い方をすると「発達障害」の人に失礼だよね。
つまりこうだ。誰でも、自分の言葉を喋っている。何だお前は、受け売りだな、と言われて馬鹿にされることがあるかもしれない。だが受け売りが自分の言葉だとまず認めて、そこから、どうしてそれが悪いのか、と考えはじめるしかない。居直れというのではない。受け売りをしている「じぶん」てなんだ? どうしてだ? とわが身の成り立ちを振り返って考えてみるってことだね。
受け売りについて、もう少し踏み込んで言うと、言葉って元々が受け売りである。つまり子どもの頃から、周りの人々の口にする言葉を、もの真似をじて覚え、誰に文法を教わるまでもなく使うようになり、他の人と遣り取りをし、言葉を交わす。そしてある時機に、「じぶん」が自分であるというのは、なぜか、と疑問が胸中に湧いてくる。ちょうどその頃に学校で教師から、自分の言葉で書けと叱られる。
つまり(またつまりって言うが)、「じぶん」てなんだ? というといと一緒に「自分の言葉」ってことが浮かび上がる。私は中学生のとき、国語の教師から「その言葉の意味は?」と問われて、テキトーに応えはしたが、別の言葉で言い換えただけのことがどうして「意味」になるのか、わからなかった。いや、厳密には今でもわからない。ただ「その言葉」が発せられた状況に於いて何を指していたかを「別の言葉」で少し説明できるってことかなという程度だ。
つまり「自分のことばをつかう」ってことは、自分の置かれた状況(世界の中の立ち位置)を踏まえて、言葉を繰り出せってことだ。
そう思っていたら、昨日(11/18)の朝日新聞の「教育・化学」面に「津波さまざま メカニズム探る」という記事の中で、「マグマと断層が連動」すると何㌔という高さの津波が引き起こされるという。「約6600万年前の隕石は、高さ4㌔超の巨大津波を引き起こして(恐竜の絶滅に繋がって)いた」と紹介している。これを「じぶんの言葉」で語るとしたら、二通りしかない。
ひとつは、富士山の高さよりも高い津波となると、これはもう、どうしようもない。
もうひとつは、目に見えない断層やマグマの連動とか、隕石の衝突を研究している科学者がいるのだと、「どうしようもない」という私の観念が、長い年月の間にありうることとして受け止めると同時に、万年単位の話しなのねと限定して受けとることだ。
良いとか悪いとかいうことをすっかり忘れて、大いなる自然の営みを感嘆してみている「じぶん」をみつける。これはこれで、ここまでの幸運を感謝することへと結びつくのである。
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