2022年11月7日月曜日

肝胆相照らす

 寿老人の「人はなぜ憎しみあうのだろう」と言ったコトバが、まだ胸に引っかかっている。カインとアベルの物語を思い出したが、それをヒトの本性とすると、逆に、そうではない(仲の良い)兄弟姉妹はなぜ(そう)なのかの説明がつかない。つまり、憎しみ合うと仲が良いとの両方を一括してとらえる次元を探り当てなければ、単なる性悪説ということになる。それは違う。どちらも極端な場合を引き合いに出しているが、じつは二者択一ではなく、双方の機縁がヒトの身の裡に内包されて無意識に沈んでいる。状況がその機縁に触れることによって、いずれかが無意識の奥で優勢となり、表出するのではないか。

 いつかも記したが、兄弟というのは育っていく間の相互的な関わり合いによって醸成される要素が、無意識に蓄積されている。私は男ばかり5人兄弟の3番目、つまり真ん中であった。昔から「3人寄れば公界(くがい)」と謂われる。口にしたことを秘密にしておくことはできないよという意味で用いられてきたが、公的な場、つまり社会だ。その意味では、5人兄弟というのは生まれがらにして社会に放り出されているようなことであった。ただこの「言い習わし」には無意識ということが想定されていない。公界というにせよ社会というにせよ、いずれも言葉を交わす世界と考えられている。これは、無意識という概念がなかったのだから、仕方がない。だが今私は、公界の底に流れる無意識の共通感覚が「3人寄れば」にも、「兄弟」にも「公界」にも「社会」にも、しっかりと流れていることを感じているし、知っている。

 憎悪も慈愛も、何がその契機にあるのか、その根柢になっているのかとなると、当人にもわからない。あるとき、ある状況に於いて発生する身の内奥から突き上げてくる「憎しみ」や「慈しみ」を、それとして感知する。その鉾先を誰彼に向けるというのは、憎悪慈愛とは別の次元で生じていることである。手近な人へ向ける。誤解(?)して象徴的な人へ銃弾を放つ。あるいは誰でも構わない高まる感情をぶつけられればいいとして繁華街の歩行者天国へ車を突っ込む。

 そう考えると、人がなぜ憎悪慈愛の感情を持つのかと問うことになる。それは、社会関係において人はなぜ上下優劣関係を紡ぐのか、ヒトはなぜ模倣し、かつ模倣されることを嫌うのか。人はなぜ他者の鏡に映すようにして己を意識しないではいられないのか。ヒトはなぜ群れるのかと問うのと同じで、一つひとつ、その都度、そのケースに従って解きほぐしていくしかない。

 兄弟においてそう考えてみると、肝胆相照らすという言葉が浮かぶ。辞書では「互いに心の底まで打ち明けて親しく交わる」とあるが、これも言葉を軸に置いていて、身の振る舞いで存在それ自体を相照らす気配が薄い。「互いの心の底まではわからないと互いに承知し合ってなお、互いの存在を快く受け容れる」ことというのが、より正解に近い。歳をとって本当に久々に会っても、別れたのはつい昨日のような思いで言葉を交わす。あるいは共に育った土地で、縁側に黙って座っているだけ。目の前の山や川を眺めているだけで、(心の底までは自分でもワカラナイことを)わかり合っているという感触に浸れる。これこそまさに、肝胆相照らすだと思う、この共にいる身が浸っている感触こそ、無意識が培い身に刻んできた共通感覚である。

 むろんこれは、兄弟に限ったことではない。もう65年も前の高校の同窓生と隔月にseminarを行っている。この地方都市にひとつの高校は、当時、小学区制であったために小中と共に同窓であった人たちもいて、いずれも同じ町の空気を吸って同じ時代の気配を感じ身の無意識に刻んできているせいか、仲が良い。社会人として働いてきた40年以上もの無沙汰を抜きにして、seminarを開いてもう十年近くになる。

 肝胆相照らすとまでは行かないが、子どもの頃に身に刻んだ無意識が紐帯となって、15人ほどが隔月に集まっている。意気不平とはいわないが、ほぼそれに近いくらい意見の違い、思いのズレはある。そもそも互いが高校を卒業して古稀ほどになるまでの間、何をしてどう過ごしてきたかを知らない。だがそれを当然の違いとして言葉を交わす。口頭の交わりと俗にいうほどの儀礼的な言葉は交わしていない。互いの感覚や価値観を尊重し、そのズレや違いの出所や根拠について互いに語り合う。そう語り合うことによって、根っこに座る無意識の共通感覚にに辿り着き、その感覚部分から湧き上がってくる(共に過ごしたという感触に到る)80年間という人生を振り返る。その80年間への敬意が、何より今ここに友人として存在することを支えていると思っている。

「肝胆も楚越」という荘子の言葉がある。

《自其異者視之、肝胆楚越也。自其同者視之、万物皆一也。》

(異った見方でこれを視ると、肝胆も楚と越のごとく違ってみえるが、同じ見方で視ると、物皆同じに見える)

 ここにもまた、異・同についての二者択一的な視線はあるが、身につけた無意識と世の中に出てから身を置いた世界や時代の醸し出す感覚や価値観のずれは、まさしく「肝胆楚越也」である。同時に、幼い頃から自己を確立したと思う高校時代までを過ごした社会と時代の無意識の共有は「万物皆一也」と感じている。つまり、憎悪と慈愛のように相対立する感情や感覚は身の裡に溶け合ってドロドロの海となり、外との交信の状況に応じて慈愛となりあるいは憎悪となって噴き出してくる。誰もが持っている内心の混沌の海である。

 それがseminarの同窓生は、たまたま憎悪が剥き出しになるような「関係」ではなく、互いに敬意を以て接する穏やかな気配に満ちている。これは、皆が満年齢であるいは数えで80歳になっていることから、本当のこの社会の高齢者としてひっそりとたたずむ存在であると自らを位置づけているからである。そういう世界の側からみると、取るに足らない欠片、あるいはゴミのような存在と自分自身を自覚すると、存在していること自体に自ずから尊敬の念が生まれてくる。自分ならずとも、80歳まで生きてきた朋輩を愛おしくも思うのである。

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