ウクライナは寒さに震えている。
ロシアのお得意戦術、ナポレオンからナチスまで、いずれも冬将軍を味方につけて追い払った。でもそのときウクライナはロシア帝国やソビエト連邦の一角であった。いまロシアは寒さと核を味方につけてウクライナばかりかヨーロッパを震え上がらせてやろうと、マチの構えを取っている。
DNAに刷り込まれた得意技を駆使するために発電施設を破壊する。いやそればかりではない。ウクライナが奪還したヘルソンの取材を聴くと、占領から撤退するときに街の徹底破壊をしたという。そうか、これも「戦争と平和」という映画で観たことがある。敵に糧食と寒さを防ぐ家屋を与えないで焼き払うという、やはり伝統的戦術だ。
コトここに到ると、原発かどうかはどうでもいい。温暖化がどうなるかも構わない。コロナウィルスの話しだって、ウクライナでどうなってるってニュースにならない。背に腹は代えられない。
だいたい日本だって、戦果に見舞われているわけでもないのに、もうフクシマのことは忘却の彼方に押しやって、耐用年数を延長して原発の稼働をすすめようとしている。寒さに震えるっていう生物的限界レベルじゃない。今の経済水準をいささかも落としたくない。株価を落としたくないって動機が強力に働いているのだから、笑っちゃうよね。喉元過ぎれば熱さ忘れるってことだ。
その原発村と呼ばれる国家・企業・学会一体の秘匿体質と、ちかごろ大手製造企業で表沙汰になっている製品の強度などの検査を誤魔化す体質が一体になっていることをどう表現できるか。こういう「地味な」テーマをエンタテインメントに仕立てて、ミステリにしようというのが、真保裕一『シークレット・エクスプレス』(毎日新聞出版、2021年)。
フクシマから十年目というのを狙ってもいたのであろうが、世間の熱はとっくに冷めて、引退後「原発を即時にでも廃止」を反省の弁を声高に口にしている元宰相でさえ、ほとんど構われることがない日々だ。物語りにするのに、著者が四苦八苦している気配が伝わる。
読み始めてすぐに物語りのおおよその肝がみえてくる。だが、エンタメ的に仕上げるのには、大がかりな事件が起こらないとオモシロくない。しかしそれをやると、原発村の秘匿主義を上回る、ロシアのようなウクライナ侵略的な悪意を盛り込まねばならない。それをやると反原発をすっかり悪者にしてしまう。これは、リアリティから離陸することなく物語を紡いできた作家としては、飛べない枷になる。社会派作家が、象徴的にもリアリティから離れないで、エンターテインメントを盛り込んでミステリに仕上げる限界なのではないかと思わせた。その限界を突破しようとすると、麻生幾になってしまう。
ちょっと辛口の物言いになるが、この物語りは、新聞記事などで周知の原発村の隠蔽体質を、自衛隊を絡めることで「軍事機密」的に覆い隠す国家機密次元に仕立て上げて完璧を期す。その綻びを、一部内部告発を交えて、取材記者と反原発ネットワークの連携と、輸送担当機関の大真面目な安全確保の信念を糸口にしてほぐしていく。だが読者は、このどこにエンタメの工夫があるのと、拍子抜けを味わう。これがドキュメンタリーなら、成程ここまでやるのかと、それぞれの、メディアの記者、輸送メディアの企画、実施担当者、原発研究の最先端技術者、それぞれの企業の経営責任者、反原発運動の当事者のご苦労に、賛辞を送るところだ。だがそれがフィクションとなると、えっ、こんなもの? と、ゲンジツから離陸しきれない物語性の薄弱さに、つまらなさを感じてしまうのだ。
では、どう物語りを紡げば、心裡に残るのか。
もしこれをフィクションとするのなら、社会的な(隠蔽体質とか秘匿主義という)システムを背景に押しやって、現場の仕事人の悲哀を、個人的な、しかし誰もが避けて通ることのできない事情を絡めて、直に読者の日常感性に呼びかけるように、紡ぎ出すしかないのではないか。エンタメにはほど遠いかもしれない。だが、人を描く。人を描いて、その背景に確固として揺るがない社会システムと対峙させ、その哀感を浮かび上がらせる。
そう考えてみると、真保裕一という作家の描く主人公的な登場人物は、市井の庶民ではない。どちらかというと、社会のリーダー的な位置を身に纏っている人たちである。そういう立ち位置の人は、社会システムを、自身の力では動かし得ない確固たる壁と認識することなどないのかもしれない。もし、その設定する人物の思い違いを描き出せば、原発村の秘匿体質も、国家社会のリーダーたちの隠蔽気質をも、お寒いゲンジツとして取り出すことができたかもしれない。
寒いのは、ウクライナばかりではない。いや、心底寒いのは、むしろ今、ここの、日本なのかもしれない。
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