2022年11月21日月曜日

自然(じねん)が好ましいのはなぜか?

 昨日のブログ記事の末尾の(2)に記した「自然(じねん)」を私は好ましいと思っている。なぜなんだろう。

  自然(しぜん)の対語は三省堂反対語辞典によると「人工、不自然」とある。ちょっと違和感があって馴染めない。それで私は態々、「自然(じねん)」というふうに仏教用語を用いている。「自然(じねん)」と呼ぶと「自ずから成るべくして成る」ことを意味する感触が滲み出てくる。対語は、「人為」「作為」となるか。

 自然(しぜん)にしても、あるがままに手をつけず放ったらかしにすることと考える人たちがいる。かつて子どもの頃の私はそうであった。いや私が子どもの頃の日本人は、概ねそう考えていた。三尺流れて水清しと思っていたから、瀬戸内海の海水浴場の沖合を「おわい舟」が通っていた。むろん江戸以来の土をつくる作法にも糞尿を肥料として循環させることが戦後暫くは行われていたから、田圃の片隅には肥溜めが掘られていた。その代わりといってはいいすぎかも知れないが、子どもたちの体の中には必ずといって良いほど回虫がいたし、ときどき虫下しを呑んでもいたのだった。

 いうまでもなく人の世は人為と作為に満たされている。ヒトの営みが介在していない自然などあり得ないという認識が、自然保護という考えを生み出した。人の手によって手入れされなければ自然は荒れてしまうと考えられた、これが西欧流の自然保護意識である。だがそれも、近代化がはじまるにつれて、人為による自然の改造が急速、且つ過剰に行われるようになって、遂に自然への人の介入は臨界点を突破してしまった。人口が急増したことも深い関係がある。

 人為の介入を制限して自然と調和的な共存を試みる思想はインド以東のアジア地域に古くからあった。ヒンドゥの混沌の海もそうだし、仏教の宇宙観もそうだし、道教の自然もそうである。だが、人が手を入れて自然を監理保護をする必要は、その臨界点を超えての反省もまた早かった西欧が先行することになった。

 この洋の東西の齟齬が、現在の自然保護思想の混沌の因にもなっている。人の交通は激しくなり、ヒト・モノ・カネの地球規模での流通が頻繁煩雑になっているのであるから、動植物もまた、ヒトの交通手段に乗って地球規模で頻繁に往来するのが、当然、自然である。にもかかわらず、外来植物の繁茂が騒がれ、ヒアリやカミツキガメ、ブラックバスの侵入が問題視されるのは、どうしてなのか。生態系の破壊ということをモンダイにするのなら、まず最初にヒトとモノの過剰と自由往来を話題にしても良さそうなものだが、新型コロナウィルスがやってくるまで、俎上に上ることもなかった。

 そうか、ヒトは、その存在自体が「自然(しぜん)」ではない。だから別格なんだ。だったら、温暖化という人為のもたらした災厄をどうにかしようというのなであれば、別格扱いの人類そのものを、まるごとどうするのかを根柢から問う思考が必要なのではないか。

 それは、問えないよ。人口が減ることを経済活動の衰退の徴候として慌てふためいている人類だもの、80億どころか、百億の人口を養う算段を立て始めてさえいるのだ。人口減少を率先垂範する先進国が順当に衰退して、人口増加が止まらない発展途上国が、経済的な進展を順当にすすめて、いずれ先進国並みに人口減少に向かうという妄想が、実は一番将来の地球に必要なことなのだが、誰もそうは言わないし、そうなるとも思えない。

 まずヒトも自然の生き物のひとつ。新型コロナウィルスが教えてくれたように、ケチな存在なのだ。どこかでコロナ感染の洗礼を受けて共存に踏み切らなければならない。ゼロコロナで頑張っている中国も、どこかでコロナ禍との共存を考えなければならない地平に立つことになる。そのとき、密にならず、経済活動も小さな集住単位に基本を置いて、最小限の交通と交換を通じて、世界規模で支え合うシステムを作り上げる道しか、長い目で見ると残されていない。

                                      *

 では、私の胸中にいつ知らず芽生え好ましく感じる感性にまで根付いている「自然(じねん)」の感覚は、何に由来するのであろうか。

「人為」「作為」が作用するときのモメントに、それが策定されてゆく過程の「自然性」が問われている。予め有力者に根回しをして、公の会議では「型どおりの’民主的)討議」を行って決定するというのは、決定過程に恣意が働いていると私はみる。森喜朗はそういう恣意的な決定を常とする「民主的会議」ばかりを過ごしてきたから、女性理事がいろいろと発言するのは「余計なこと」と思ってしまうのだ。つまりはじまる前にすでに決定していることが彼の会議の常識であり、だから彼のオリンピックに関する理事会の発言は女性差別というものではなく、非民主的な日本の伝統的決定法だったと非難さるべきモノだったと私は思っている。

 あるいは、アベ首相が国会討議で啖呵を切ったことを忖度して、官僚があろうことか記録文書まで書き換えするという暴挙も、それに対する質問に答えようとしない態度も、「人為」「作為」の悪質な事例である。民主主義を標榜する議会や行政運営の、自ずから成る成り行きを、自らの立場の有している権限を全力で発揮してゆがめてしまう。そういうことを私は、「自然(じねん)」ではないとして排斥したいと思っている。

 今の時代の日本の民主主義は、可能な限り民意を反映できるシステムを取っていない。選挙で選出された議員が「主権」を代行する形を取っている。その議員たちは、もっぱら政党というプロ政治集団のシステムに組み込まれて、昔風の言いようになるが「陣笠」として議会や行政機関で働いている。当然、その政党の上意下達の仕組みに組み込まれ、選挙民から託された「主権」を「政党意思」を偽装するために用いている。こうした実態を、マス・メディアの報道で知るにつけ、もっと素朴に、もっと率直に、もっと直接に「民意」に応えるような振る舞いを、然るべく成るべくして成る「理想型」のように思ってしまう。

 それが私の「自然(じねん)」である。

(1)政治家の言動を信用しない。

(2)政府機関の専門家というのを信用しない。

(3)情報メディアや学者、専門家は、玉石混淆とみる。疑ってかかり、つい信じたくなる自分を信用しない。

(4)公開されている情報や特定領域の情報を、日常の暮らしに連接させて、限定的に解読してくれる専門家の言動に注目する。それに注意目する自分を疑ってかかる。

(5)ありとあらゆる情報の洪水を、わが身を通過させて感じ取られた慥かなものを吟味し、胸中に一先ず蓄えて、世界全体の動きとパッチワークしながら、自分流の読解を試みる。試みるというのは、文章にするということ。

(6)自分の記した文章をときどき読み直して、あらためて(5)の物語を咀嚼する。

 とまあ、私の「自然(じねん)」として、そんなことを思い浮かべた。結局行き着く先は「混沌」ではないかと、ふと思う。なにもかもが一緒になって、よくわからなくなる。でも、腑に落ちる。それこそが、「自然(じねん)」の境地に入域することのように感じられる。ふふふ。

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