「11月の*日は空いてる?」
と新聞を読んでいたカミサンが訊く。
「うん、空いてるよ、何?」
「大井川鐵道に乗って、寸又峡に行かない?」
「ああ、いいね。行きましょう」
「じゃあ、申し込むね」
と、どこかのツアーに申し込んだ。9月の話しだ。その後に政府の旅行補助が行われるようになり、旅行会社の宣伝は激しくなった。新聞広告も掲載される。
以前に一度利用してから、ツアー企画満載の雑誌が定期的に送られてくる。カミサンはそれを覗いて、さて今度はどこに行こうかなと探している。私はたいてい、誘われれば行く。カミサンは、
「どこへ行きたいの?」という。
「えっ、う~ん、どこって特にないけど、何か?」
「行きたくないの? いつも無理して付き合ってんの?」
「いや、そうじゃないけど……。山なら計画するよ?」
「そうじゃないのよ。ここへ行きたいってとこへ行こうよっていうの」
「そう言われるとね、とくに行きたいってとこがあるわけじゃないのよ。ただね、誘われれば、できるだけ前向きに行こうと思ってるわけ。行けば行ったで面白いしね。食べ物もおいしいし、観るもの聞くこともいろいろと刺激あるでしょ。でもね、何処へ行って何を観たいってことは、内発的にはないのよ。別に山じゃなくても、あなたが何処其処へ行きたいっていうのなら、プランは作るよ。チケットの手配もするよ。それくらいは、イヤじゃないし、自分も行こうって気になるから。キャンプに行こうとか、山へ行こうっていうのなら、場所を探して行程を作るけど、何処か行きたいとこってある?」
「う~ん、いい。ツアーを観て決めてんだから」
こんな遣り取りをしている。
でもどうして私は、行きたいコレというところがないんだろう。
引っ込み思案というわけではない。そりゃあ、家に居てパソコンに向かって、よしなしごとを書き綴っていれば、それはそれでいいんだけれども、やっぱり外に出て動いているのは捨てがたい。じゃあ何処か決めなさいよと言われると、コレと行って行きたいところが思い浮かばない。メンドクサイというわけではない。
旅行会社のツアーってのがいやなんだろうか。そうでもない。カミサンが申し込んで連れて行ってもらった隠岐の島も伊勢も紀州と吉野の桜も面白かった。会社企画のツアーではないが、彼女が知り合いの鳥の達者たちが企画した旅もあった。むろん門前の小僧としてついでに連れて行ってもらっている宮古島や石垣島などの探鳥の旅は、鳥もさることながらそれぞれの土地がオモシロイ。
そうか、どこでもいいんだ、行き先は。ぶらりと行って、何かに出くわすというのが面白いのかもしれない。行きたいといって行ったところで、期待通りのことが観られるってのは、何か内心の意図通りのことが起こって、いわば出来勝負のようなことになる。これは、なるようになるのとは違って、思惑通りに運んでいてつまんないってことかな。
山とかキャンプというのは、行程を策定するのは「手段」であって、それにくっ付いてくる空間や時間の過ぎゆく様が旅心をくすぐる。自分で行程を策定する「手段」それ自体が、すでに旅のはじまりでもある。
ところが、パックツアーは、まさしくお客様。皆お任せで行くのなら、何処へ行っても構わない。そんな気分があるのかもしれない。もちろん、お任せが悪いといっているわけではない。それならそれで、すっかり任せて、それ以外のところで旅の偶然性を味わおうと思っているのかもしれない。ま、贅沢な言い分ではある。
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