2019年12月31日火曜日

慥かに生きる感触


 寺地はるな『わたしの良い子』(中央公論新社、2019年)は、面白かった。

 事件が起こるわけではない。異様な人たちが登場するわけでもない。ごく普通の人たちの身につけている何気ない言葉が、一つひとつ突き刺さる。突き刺さったのを跳ね返すわけでもない。ただ受け流すのでもない。一つひとつの言葉をわが身の裡において吟味しながら、わが心もちの落ち着くように腑に落としていくと、いつしか自律した身の置き場を得ている。その姿は、ごく普通の人から見ると、ヘンなヒトにみえる。

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(7)現場教師の頽落は臨界点を過ぎたか


 さて、いよいよ年の暮れになりました。この連載にも始末をつけて、新しい年明けを迎えましょう。
 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」は、以下の5点。今回のテーマは⑤です。
専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代

 kさんは上記⑤の事例として、3点「状況」を記しています。長いのですが、状況をよく示していますので、そのまま紹介します(下記の(a)~(c)の記号は引用者)。

2019年12月30日月曜日

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(6)ヒトの実存における棒のようなもの


 昨日の(5)の話に関係する書き込みがありましたので、少しつづけます。朝日新聞(12/28)の「異論のススメ」で佐伯啓思がkさんのぶつかった事態と似たような事例をあげています。
 
 《先日あるレストラン経営者と話をしていたら、次のようなことを言っていた。若いものが修業に来ても、簡単に叱れない。また、「君はどうしてそれをやりたいのか、ちゃんと説明してくれ」ともなかなか言えない。少し強く言うと、パワハラだといわれかねないからである。その種のことがネットで拡散すると、仕事に差し支えるからだ、と》

2019年12月29日日曜日

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(5)学校をしっかりつかむ


 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」は、以下の5点。④が今回のテーマです。
専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代

 ④に関してkさんは《今日の生徒は、かつての「荒れた生徒」たちのように、あからさまな反抗はしません》と記しています。反抗しない生徒がなぜモンダイなのか。kさんはこう続けます。

 《生徒は教師からの教育的働きかけを「十分に受け取らない」。……(その)ことによって教師をコントロールしようとするのです。具体的には、お喋りをやめない、後や横を向いている、ピアスをつけ続ける、携帯を手放さない、教科書を出さない、鉛筆を手に持たない、課題をやらない、小さな「暴言」を吐く、心を閉ざす、「嫌い」オーラを出す、指示を受け流す、等々です。》

2019年12月28日土曜日

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(4)経験則の頽落


 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」とは、以下の5点。今回は③を考えてみましょう。
専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は、教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代
 
 《ベテラン教師のやり方は「時代に合わず古い」と批判の対象になり、「若手の新しいやり方を学べ」と、管理職や教育行政から強いられます》とkさん。その事例として英語科教師に対する「最新の英語の教え方」を事例として挙げています。年配の教師が、研修を受けた若手や中堅教師の教えを受けている。それをkさんは「若手や中堅の教師がベテラン教師に教えるという悲喜劇」と記しています。

2019年12月27日金曜日

「学校の変容」は、どうモンダイになるのか(3)「場」を視界に入れる


 前回の「(2)当事者主権と自己責任」に関して、もう一つ付け加えておきたいことがあります。生徒の訴えるいろいろなモンダイを解きほぐして行こうとするとき、学校とかクラスという、ほかの生徒たちと当該生徒や教師との関係がどう動いているかは、欠くことのできない要素です。私はそれを「場」と呼んでいますが、「場の力」が当該の生徒に働きかけるモメントは(教師の視野に入らないことが多いだけに)、絶大なものがあります。

2019年12月26日木曜日

「学校の変容」は、どうモンダイになるのか(2)当事者主権と自己責任


 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」とは、以下の5点でした。
専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は、教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代

 ①で「当事者主権」が強まったと言っています。「当事者主権」の事例としてとり上げているのは「ハラスメントの論理」。《「そう感じた私自身」「そのように傷ついた私自身」が、全てにおいて優先してしまいます》というのを「当事者主権」と呼んでいるのですが、これは一般的な用法なのでしょうか。心理学者が遣っているのですか? 訴訟・法律用語なのですか。私には、どうにも腑に落ちません。なぜならハラスメントにしてもいじめにしても、そのモンダイに関しては、いじめられたものだけが当事者ではなく、いじめたものも当事者です。ですから「被害者主権」とでもいうのなら、それなりに説明はできますが、「当事者主権」と呼ぶのは、「かんけい」のモンダイとしてとらえていないのではないかと、思ったりします。

2019年12月25日水曜日

今冬初の雪山――蕨山


 昨日(12/24)は晴れ。下山口でkwrさんと落ち合い、私の車で登山口に向かう。飯能市の名郷。奥武蔵の蕨山に登る。じつは台風19号の襲来した2日後に様子を見に行ったが、徒渉する沢の水が多く、流木などで登り口がふさがれていて、その日登山を断念したことがあった。その私のリベンジに、体調の回復したkwrさんとkwmさんがつきあってくれた。

2019年12月23日月曜日

「学校の変容」は、どうモンダイになるのか(1)教師の専門性


 さて前回までにとりあげたkさんの背景説明につづいて「学校の変容を巡って」と見出しを付け、《私(kさん)が一教師であった七年前と比べてみても……以下のような変化がある》と5項目を挙げています。

専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は、教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代

 一つひとつの項目について、私の感想を述べていきますが、①~⑤は、どれも、いつの時代にもモンダイになったことだと思います。ただ、それがどうモンダイなのかが、kさんの記述ではあまりはっきりしません。

2019年12月22日日曜日

地軸の傾きが「今日」という日を生んだ


 今日(12/22)は冬至。外はすでに真っ暗。明日からは夕方が少しずつ遅くなる。夜明けはまだしばらくは、暗い日が続く。そうなることを先月末の36会Seminarでmykさんから思い出した。自転軸が公転面に対して傾いている。そのため、太陽光の当たる地球表面に対する角度が(赤道を中心とすると)北と南とに半年ごとに入れ替わる。それが北回帰線の北に位置する日本などには四季を生む。ありがたい話だ。四季を身体に感じて育った私のアイデンティティの一角を占めている。

2019年12月21日土曜日

問題浮上のいきさつ(5)転向?


 kさんはなぜ「合意形成」と「信頼の構築」にこだわったのか。そのワケを《②副校長としての「着地点」や「妥協点」探し》にあったと言います。kさんは副校長になって「価値の争奪戦」をしていると思っていたようでした。何と争奪戦をしていたのか? 《彼らは常に「問題を起こすな」ということを大切にし…「丸く収める」ことや、そのための「着地点」を探すことに、力を注ぐ…》、そういう校長や副校長の姿勢と争おうとしていたようです。kさんが提示した価値とは、《問題と正対して、衝突を恐れずに価値を語り、対決する》ことでした。所謂管理職の「保身」と対決するという趣旨でしょうか。だったら自分から辞めるのではなく、解職されるようにすればいいのにと、外野の私は無責任に思います。「現場のモンダイを巡って、k副校長解職される!」というのは、メディアにも格好のネタになります。舞台を代えての「価値争奪戦」となると、一般論が幅を利かせるでしょう。

2019年12月20日金曜日

問題浮上のいきさつ(4)現場のモンダイが普遍に通じる?


 話をさらに続けます。
 kさんは《③「無限定な」「正しい教育」ワールドで、「無限定」は解決策を提示した》と題して、私の指摘に対する自省を綴っています。続けて、
 《私は、「学校教育について語るなら、積極的な解決策が必要だ」と発想しました。そのため余計に、「演繹的」で「オールマイティ」な「教育評論家」による「正しい教育」について、「原因はこうであり」「こうすればうまくいく」語り方をしてしまいました》
 と記しています。「 」の中の言葉は、私の用いた言葉であるようです。ようですと半ば不信を抱いているようにいうのは、kさんの都合でぶつ切りで引用しているからです。たとえば、「学校教育について語るなら、積極的な解決策が必要だ」という発想を私は批判しますが、「現場について語るなら……」ですね。一般論で学校のことを語る分には、解決策など提示しようがないことは、たくさんあります。

2019年12月19日木曜日

春のような御前山散歩


 昨日(12/18)、晴れの予報に山へ向かった。じつは、先月末に予定していた「熊倉山」の下見を10月に行った。kwrさんとkwmさんがつきあってくれたのだが、秩父線の駅への下山時刻が4時を過ぎてしまった。これでは冬至近くの山としてはむつかしいと判断、急遽、12月半ばに予定していた御前山(の下見)へ行こうとしたのだが、kwrさんが体調を崩し、延期していた。

 この体不調が、じつは、8月の表銀座縦走・槍ヶ岳に登る山行のもたらした余波。律儀なkwrさんもkwmさんも、「トレーニング山行」にしっかりとつきあい、加えて、合間の週にも山へ向かうという鍛錬をした。そのため(と私は思うが)、9月に入って体調が揺れ動き、予定していた山行を行ったり行かなかったりと、その都度の様子を見ながらに変更するようであった。

2019年12月18日水曜日

人倫の最高価値は雲散霧消してしまったのか


 現役教師であるkさんの話を続けます。
「問題浮上のいきさつ(1)」で記しましたように、彼は「教育の謎」を問おうとして、抽象論の世界に踏み込み、「問題浮上のいきさつ(2)」の記述のように、「そもそも正しい教育とは何か?」を問うてしまったと、展開しています。そして、《現場の教師としての「学校の共同性」に解消され》るかもしれない、具体的なアクションの段階にとどめておけばよかったかと、反省しているように思いました。あるいは私のメモによる指摘を、そのように受け取ったのかもしれません。

2019年12月17日火曜日

問題浮上のいきさつ(2)二元論克服の道筋


 現役教師のkさんの反省の第二点は《「正義は我にあり」「悪は相手にあり」だから「そもそも正しい教育とはなにか?」と問う》と表題されています。kさんは、「そもそも正しい教育とはなにか?」と問うたことが、誤っていたと反省しています。そしてこう続けます。《それはまた、現場の教師としての「学校の共同体性」に解消されない、そこを超え出ていくような普遍性の追求、「学校教育の公共性」の追求でも、あったわけです》と綴っています。

2019年12月16日月曜日

問題浮上のいきさつ(1)「教育の謎」


 現役の教師をしている50代半ばのkさんと、教師という仕事について、少しばかりやりとりをしています。この方は副校長をしていたのですが、現場での身の処し方に行き詰まりを感じて、平教員に戻りました。あっ、いまは平教員も階層があって平教諭と主幹教諭とあるそうですから、主幹教諭に降りたわけですね。

 夏の終わりごろに、このkさんから長文の「2019の構想」と題されたレポートが送られてきました。ここ7年間に考えてきたことをまとめたもの。「中身としてはまだ人にお見せできる段階ではない」「ご意見をいただいて、仕切り直しをするべきは仕切り直して、前にすすみたい」と記していますから、いずれ手を入れて発表するつもりの「草稿」だと思います。ま、いわば「査読」を頼まれたのだと受け止めました。

2019年12月15日日曜日

「規定」の齟齬を埋めるのは労をいとわぬこと


 今日(12/15)は団地の修繕専門委員会。昨年の役割の関係で、一年間はこのお役目を引き継がなければならない。今年は、給水管給湯管更新工事の具体化に向けて、設計監理を引き受けてもらうコンサルタント業者を決める。その業者選定の作業が先月でひと段落し、今月初めの管理組合理事会で承認された。それに従って、今月上旬に候補業者と最終的な文面や金額の調整を済ませ、契約にこぎつけた。そういうこともあって、今日の修繕専門委員会はルーティン事項を片付けて、軽く終わると私はみていた。ところが、午前中の協議時間を超えて長引いてしまった。

2019年12月14日土曜日

自己矛盾が破綻しない「かんけい」


 前田英樹の『倫理という力』(講談社現代新書、2001年)を読んでいたら、次のような記述にぶつかった。

《たとえば、返す当てもないのに、必ず返すと言って、金を借りる。借りて行方をくらませば、自分は得をする。それは得をして、「幸福」になる一つのやり方だと言ってもよい。けれども、これを道徳に適った行為ということはできない。なぜなら、道徳行為の信条は、定言命法にしたがい、それが普遍的法則たることを意欲しつつ実行されるからだ。借金の踏み倒しが、普遍的法則になったのでは、約束をする意味もなくなるだろう。法則は自己矛盾を起して、破綻するだろう》p50

2019年12月13日金曜日

沈黙という祈り


 奥野克巳の長い表題の本で指摘されていたもう一つの事実に触れておきたい。

 プナンは獲物をとってきて食するわけだが、イボイノシシをとってきた場合、解体から食べ終わるまで、全員が沈黙を貫く所作があったそうだ。声を発することが獲物を貶める振る舞いとみられているようだと奥野は言う。獲物にありつけるということは喜びであるはずだ。にもかかわらず沈黙を貫くというのは、獲物への敬意であり、命あるものを奪って食するということへの畏れであり、私たちの文化に引き寄せて謂えば、森やイボイノシシという自然への感謝の儀礼化したものということができる。沈黙という祈りであろう。

2019年12月11日水曜日

子どもを学校に行かせないプナン


 文化人類学者の奥野克己は、15年ほど前から精力的にフィールドワークの報告を発表したり、翻訳書を刊行して、「森の民」が何を教えているかを伝えている。その奥野克己の著書のひとつ『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年)が、面白い。文化人類学というのは、こういう学問だったのかと思わせると同時に、私たちの今の暮らしや私たちの社会が保持している規範や考え方を、もう一度根底から見つめ直してみようとする視線が提示されていて、刺激的である。

2019年12月10日火曜日

「忘れる―忘れない」を共に生きる


 昨日の(4)《鏡に映る姿を認知することについて、それは「じぶん」であるが、「じぶん」ではないと相反するコトを同時に受け容れること……絶対矛盾の自己同一》は、私たちの日常に満ち溢れている。「ことば」は、自分が発するものであっても、自分のものではない。社会のもの、他人との共有物である。自分が発した言葉も、一度発せられてしまえば自分のものではない。受取り手のものになり、であってみればとどのつまり、自分が発した言葉は自分のものでしかないという達観にも通じる。

2019年12月9日月曜日

また、霹靂


 佐藤究『ANK:a mirroring ape』(講談社文庫、2019年)から受けた「刺激的であった」ことを書く前に霹靂が襲って、やむなく中断の運びになった。昨日のブログ記事のこと。

2019年12月8日日曜日

ヒトの起点に起こっていたこと


 久々に刺激的な小説を読んだ。佐藤究『ANK:a mirroring ape』(講談社文庫、2019年)。ジャンルでいえば、SF小説。見据えている地平は、今の私たち人類の来し方を振り返ったときの、遠近法的消失点と言えるような800万年ほど前。猿と類人猿がとっくに枝分かれし、類人猿が類猿人と枝分かれしたあたりの光景。その地平への関心を底流においた、近未来の出来事をミステリ風に仕上げている。

2019年12月7日土曜日

暗い未来? いえいえ、暗い現在


 ちょっと目に止まった、昨日(12/6)の「文春オンライン」のひとつの記事に考えさせられている。
 ライターは安田峰俊。《J-POPの表現も中国基準へ? 酸欠少女さユり「MV削除事件」が示す暗い未来》と見出しを付けて、一人の歌手のミュージックヴィデオが、動画サイトから削除されているという報告記事。一人の歌手「酸欠少女さユり」について安田はこう紹介する。

2019年12月6日金曜日

AIとの共生はできるのか


 12/5の新聞各紙が、今年行われたOECDの「学習到達度調査(PISA)」の結果を報じた。《15歳対象国際調査 「読解力」続落 日本15位》と、2003年に読解力の順位が急落したことを機に文科省が全国学力調査を実施するなどの対策をとったが、効果が疑われるという内容。大雑把に、数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力の三指標をみたとき、前二者の順位は、2003年の1、2位から5,6位への変容だが、読解力は、8位から15位へ順位が落ちたというのである。

2019年12月5日木曜日

地元の尽力、実るはまだ先か――都留アルプス


 やっと二日ばかり関東の乾季を思わせる気象がつづいている。昨日(12/4)、今月の(山の会)「日和見山歩・都留アルプス」を歩いた。チーフリーダーはOさん。古稀を超えた女性だが、なかなかの身体能力を持つ方。またここにも「アルプス」があったのかと思いながら、私も参加した。

2019年12月3日火曜日

なんとなく一仕事終えたような気分


 今日は年一回の健康診断の日。昨日の夜9時から飲み食いはせず、朝から採尿と検便、検査が終了して1時間経過するまで食事は一切禁止。でもそれだけで体重が2キロ減るのだから、年寄りのからだって、ヤワにできている。

2019年12月2日月曜日

人知れず消え去る、か


 先日、団地の私の階段の上の階の奥様が、ご亭主が亡くなった、とご挨拶に見えた。一週間前、救急車で運ばれ手当てを受けて家へ返され、その後容体が悪化して再び救急車で搬送された先で、身まかられたという。知らなかった。救急車がやって来たことにどうして気づかなかったろうと思ったが、あるいはちょっと外出したときに、そういう動きがあったのかもしれない。