2019年12月31日火曜日

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(7)現場教師の頽落は臨界点を過ぎたか


 さて、いよいよ年の暮れになりました。この連載にも始末をつけて、新しい年明けを迎えましょう。
 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」は、以下の5点。今回のテーマは⑤です。
専門家の専門性や権威が疑われる
当事者主権の考え方が、ますます強まる
ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
生徒は教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
管理職の力や教育行政の力が強まっている時代

 kさんは上記⑤の事例として、3点「状況」を記しています。長いのですが、状況をよく示していますので、そのまま紹介します(下記の(a)~(c)の記号は引用者)。


(a)第一に、管理職は、職務上の上司だけでなく、教育上の上司でもある。生徒の生活指導のモンダイとか、保護者のモンダイとか、現場で処理しきれない教育上の問題について、管理職が口を出します。また、現場も、「お願いします」と指導をゆだねます。その結果、管理職がトップダウンで解決する場面が多くなりました。
(b)第二に、教育行政が学校を経営体と見立てて、校長に学校経営計画を立てさせます。校長はその計画に基づき、計画実現ための方策を示し、実現の目安としての数値目標を与えます。教師は、そういう数値目標を実現する「コマ」として扱われ、業績評価されることになります。
(c)第三に、学校に民間が入り込んでくることで、管理職や教育行政の力が強まっています。高校の場合ですと、以下のように民間が入り込んでいます。(1)新センターテスト(ナショナルテスト)で、民間の英語検定の活用、また、国語などの論述のモンダイで、民間の塾に採点させる。(2)ベネッセに代表される、各種の進学サポート。模試、スタディ・サポート、そして、研修会の企画。すべての大学で「ポートフォリオを出させる」という施策により、高校の8割以上がベネッセの「クラッシー」というシステムを使っています。(3)私自身もやった「勉強クラブ」などにおいて、チューターや講師として民間の塾の人に入ってもらいます。また、大学受験に向けた作戦を授けてもらいます。
 
 なるほど、こうして読むと、高校の現場が産業能力主義的にシステム化されていっていることが、切々と感じられます。もう臨界点を超えているのかもしれませんね。
 (a)は現場教師が、産業能力=学力=育成装置に過ぎないことを如実に示ししています。指導要領のいう「論理国語」が前面に押し出されてきます。しかし佐伯啓思が指摘するように、言葉は人の感性や情念をくぐらせて成り立っているからこそ、ヒトそのものなのです。そのヒトの機能主義的な側面に特化するのを「論理国語」と呼ぶとき、感性や情念や感懐というヒトとしての実存の在処は、産業能力的にはバグなのですね。学校における生活指導上のトラブルというのは、そのバグが噴き出して起すモンダイ。それは、機能主義的な産業能力の育成装置からすると、すぐに、その「場」に籍を置く資格があるかないかという境界線上の問題となります。そうなると、アメリカの学校のように、校長が引き受けて判断する領域となります。自分たちに求められる仕事がそういうものだと(事態に)適応していきますから、現場教師たちの感覚も、バグの始末は私たちの仕事ではないと受け止めるようになっていきます。日本も、そうなってきたのですね。

 (b)は、(a)の方向性を推し進めたのが教育行政当局だということを指し示しています。ちょうど20年ほど前になりますが、トップダウンが通らない学校現場は「日教組が悪い」から悪玉をあげて、「改革」していったのが東京都でした。現場では、日教組どころか組合に加わるものが少数。すでに現場の教育に関する発言力においては体をなしていません。組合はただ、政治組織の外郭団体のようにして、行政や政治の世界では力があるようにみえていたのでしょうね。当時文科省の審議官、いまは京都にある藝術大学のエライサンをしている方が、「団塊の世代が現場から消えていなくなれば、学校は良くなりますよ」と述懐していたことが印象深く甦ってきます。彼からみると「改革」を邪魔だてしているのは「古い時代の教育センス」とみえたのでしょう。ですが今、団塊の世代はとうに現場を退いているのに、どうして現場はかわらないのか。トップダウンを唱えていた都教委の偉い人たちがどう分析しているのか、教えてもらいたいくらいです。

 kさんが指摘するように、「コマ」として扱われる教師たちは「コマ」としての仕事しかしません。数値目標を達成しろと言われれば、データを改竄してでも達成したように見せかけるのは、今の政府を支える「エリート」たちを見ていればすぐにわかりますね。そもそも人を育てるのを数値目標で示せと指示すること自体、見当違いも甚だしいと言わねばなりません。kさんは《現場も、「お願いします」と指導をゆだねます》と管理職を頼りにしているように記していますが、私にはそうは思えません。「委ねる」というより「私の守備領域ではありません」と通告しているようにみえます。あるいはもう少し身を寄せて推し量ると、個々の教師たちが自分たちで対処しようという「ネット―ワーク/集団」が出来ていないのではないでしょうか。個々の教師たちは孤立していて、ササラ状につながっている(役職上の上司)に相談するしか手がないのかもしれませんね。でもそれも、トップダウンがもたらした必然の結果です。

 でも校長や教頭という管理職が、そのような世間的に分かりやすい名声や名分に身を寄せて生きていることは、昔から明らかでした。彼らは寄ると触ると、誰がどこへ昇進したとかあれは左遷だという出世情報の話ばかりだと聞いたことがありました。何が面白いのだろう、バカだなあと思ってみていました。ですから私は、管理職になろうかと思ったことさえありませんでした。むろん毛色の違った校長にも出会ったことがあります。校長室でいつも本を、それも洋書を読んでいる方。職員会議でも黙って教師たちの発言を聞いている。「もし何かあったら、そのときは私が責任を取りますから」と、教師たちをバックアップする姿勢だけを示して、教師たちの尊敬を集めていました。たぶん、そのヒトの教養が溢れ出ていて、オーラを発していたのでしょうが、これも「古い時代の教育センス」の現れかもしれませんね。

 でも教育行政当局からすると、それでは物足らなかったのでしょう。現場で教師たちが種々さまざまに振る舞い、チームをなして何かをするときは教育行政に文句をいうときとあっては、学校現場でいろいろなモンダイが発生するのは、教師が頽落したからと見たのでしょうか。翻って、現場を統括する管理職の力をつける、現場教師の力を矯めるかしかない。そう考えて、トップダウンの仕組みへ「改革」の舵を切ったのでしょう。職員会議は協議機関ではない、伝達機関だとして骨抜きにしてしまいました。校長たちに「経営方針」をつくらせて数値目標を提示させ、それをもって評価するという発想で、現場を引き締めようとしたやにみえます。ですが、それは報告文書作成ばかりに力を必要とし、やたらと現場は忙しくなりました。文書ですから、体裁さえ整えばウソとタテマエに溢れます。それを見破るほどの眼力も、評価する側にまだ育っていないのでしょう。出世情報に現を抜かす管理職たちの身にもたらすものは阿諛追従の生活習慣です。当然このシステムでは、それが現場教師たちにも伝わり、阿諛追従のスウィッチが押されます。むしろ「頽落」というのは、こういう事態を指すのではないか。これよりは(現場の)混沌の方がましと、私なら思いますね。

 学校現場のトラブルが、社会や時代の大きな変化によって引き起こされているという認識がないと、短期的な解決策が期待され、小手先の弥縫策ばかりが採用されます。ときにはもみ消しも行われ、トラブル自体にはまったく向き合っていない現場が、あちらにもこちらにも出現するのではないでしょうか。何年もかけて学校をつくるような「方針」は、2,3年で交代する管理職に期待することはできません。教師にしたって、現場を「わたしの学校」と思うようになるのに、5年はかかります。転勤したての頃は「この学校」と口をついて出て来ます。前任の学校との違いが、浮かび上がるのですね。学校のつくり方の違いが、モンダイをもたらしていると思ってしまうものなんです。じっさいにクラスの担任をし、学年に入って2巡目になるころから、「わたしの学校」という心もちになります。廊下にゴミが落ちているとそれを拾う。階段が傘から落ちた水に濡れているとモップをもってきて拭きとる。生徒のいなくなった放課後、教室の机が乱雑になっていると担任教師は一人でそれを整え、溢れているゴミ箱のゴミを始末する。そういう振る舞いもするようになります。こうなって初めて「学校経営方針」が、生徒の身に沿うかたちで考案されるのではないかと、経験則的に私はおもっています。

 ひとつの学校を、短期的に収益を上げるように経営しろということ自体、お役所仕事と言わねばなりません。伝統校という高校を覗いていただければわかります。たいていそこでは、生徒が自治的に学校行事を運営し、教師は授業に力を入れる姿を見受けることができます。生徒の動くシステムのなかに伝統的な文化の継承が脈々となされています。その伝統が生徒の胸中に誇らしさをともなった「棒のようなもの」を育みます。だからこそ教師は、知的に、伝統的な文化に槍を突き立てる刺激を生徒たちに送り届けることができるのです。それは、生徒の心裡に鮮烈な印象を刻みます。それを受け取るかどうかは、生徒のモンダイ。まさに薫陶です。そこでは身に備わりつつある誇らしさの芽と知的と意識される事柄との確執が醸されています。それは独立不羈へ向かうヒトの源泉なのです。佐伯啓思の読書三昧の高校生活はそれを指し示していました。

 (c)は、つい先ごろ文科省の「方針延期」で明らかになったことですね。でも、この三つの民間委託をみてみると、kさんが①にいう現場教師の「専門性や権威が疑われる」という事情が、よくわかります。でもちょっと引いて考えてみると、全国の数多いる高校教師の数と、大学受験=産業力能育成=に長けた塾講師とでは、勝敗は明らかです。むしろ先述の状況と経験則を勘案すれば、学校の教師はバグに対処するのに優れたものを持っていると言ってもいいかもしれません。そこを勘違いして、教師の力量を上げようというのは、子どもたちがの産業的力能を伸ばして、安定した職業につける力をつけてほしいという親の期待と、誰でも勉強すればそれができるという社会的な思い込みと、その方面にしか目がいかない教育行政担当者の施策の貧弱によって、現場教師は虚仮にされていると言ってもいいかもしれません。

 バグに対処する教師たちの胸中の、出世スウィッチを押すことで、その力能を貶めてしまっていると、教育行政の担当者や保護者たちが気づいてくれるかどうか。そのためには、私たちが培ってきた「棒のようなもの」がどれほど人びとの暮らしに培われ、培ってきたかを社会が振り返り、回復できるか。それが「社会の失った読解力」だと思うのですが、どうでしょうか。もう臨界点を過ぎてしまっているように思えて仕方がありません。

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