2019年12月26日木曜日
「学校の変容」は、どうモンダイになるのか(2)当事者主権と自己責任
kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」とは、以下の5点でした。
① 専門家の専門性や権威が疑われる
② 当事者主権の考え方が、ますます強まる
③ ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
④ 生徒は、教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
⑤ 管理職の力や教育行政の力が強まっている時代
①で「当事者主権」が強まったと言っています。「当事者主権」の事例としてとり上げているのは「ハラスメントの論理」。《「そう感じた私自身」「そのように傷ついた私自身」が、全てにおいて優先してしまいます》というのを「当事者主権」と呼んでいるのですが、これは一般的な用法なのでしょうか。心理学者が遣っているのですか? 訴訟・法律用語なのですか。私には、どうにも腑に落ちません。なぜならハラスメントにしてもいじめにしても、そのモンダイに関しては、いじめられたものだけが当事者ではなく、いじめたものも当事者です。ですから「被害者主権」とでもいうのなら、それなりに説明はできますが、「当事者主権」と呼ぶのは、「かんけい」のモンダイとしてとらえていないのではないかと、思ったりします。
また《例えば、「このクラスにいると中学時代のいじめがフラッシュバックする」から、「年度途中でも、クラスを移動させてくれ」というような理不尽な要求を正当化する》という事例をあげています。
具体的ないきさつを抜いていますから、状況判断はできませんが、「そう感じた私自身」とか「そのように傷ついた私自身」とか「いじめの解決策はクラス替え」と訴えるのは、一方の当事者です。その一方の当事者が「理不尽な要求を正当化する」ことはよくあることです。だって「理不尽」とみているのは当人ではないからです。そして誰もが自分を正当化しながら言葉を組み立てていると、経験的に私は考えています。モンダイは、その事案と向き合う「場」の管理者の立ち位置です。
学校の責任者が、どうしてそうした「理不尽な要求」の湧いてくる源泉を見つめ、多分そのようにしか訴えられない一方の当事者の惑乱している状況を整理してやり、事案の縺れている糸口をほぐして行くことができないのでしょう。もしそれが、現場教師と学校管理者との確執にあるのなら、誰がそのようなことを理不尽に容認しているのかを論題にするべきなのではないでしょうか。
あるいは「ハラスメント」や「いじめ」に関する世の中の気風が背景にあるのを問題として、ポリティカル・コレクトネスの流れを俎上に上げようというのなら、それはそれとして論じればいいのではないかと思います。因みに、ポリティカル・コレクトネスを提示するのは、必ず権力的立場に立つ管理者です。自由な社会の種々のモンダイへの対処を法的に簡略にするためにポリティカル・コレクトネスを提示しているのです。彼らは基本的に、事案の具体性を見ようとしていません。どんな誰が、どのような誰と、どんな悶着を起して、目下どう展開しているかを視野に納めた人は、ポリティカル・コレクトネスなんてことを謂いません。いわば法的な魔よけのお札に過ぎないのですから。
つまり「当事者主権が強まった」と論題を設定するのであれば、もっと焦点を絞って論じないと、ただただ事態に困惑しているkさんが憤懣をぶちまけているようにしか見えません。
察するに、生徒や保護者が学校や教師の「指導」を認めようとせず、自分の言い分ばかりを言い立てる事態が日常化しているというのなら、それはそれでひとつのモンダイではあります。でもそれは、昨日今日にはじまったことではありませんね。生徒や保護者が自分の言い分を押し立てることが多くなったのは、消費者主権も含めて、市民が主権者という考え方が行き渡ったからでしょう。でもそれは、悪いことですか?
因みに、お客様を神様扱いする社会的風潮(という誤解)があります。「お客様は神様」というのは三波春夫のフレーズですが、どこかで彼が「お客様の前で歌うのは神様に向かって聴かせていると思って歌っている」と述懐していたことがあります。つまりお客を神様扱いしろと言っていたのではなく、自身の歌に精魂込めて祈りを捧げるような気持で歌い上げているということだったのです。それが、商業主義時代の「忖度」が働いて「お客様を神様」扱いするような変奏が加えられていったのでしょうね。私は三波春夫の「祈り」の意味では、決して悪いことではないと思っています。つまり教師は、生徒に対するに「神」に対しているのと同じように真摯に、かつ謙虚に、状況を斟酌して向き合っていいと思っています。ただ場面における審級を行うのはだれかという視点だけを外さずに向き合えば、今の社会システムを知っている人であれば、基本的に、教師の振る舞いを承認してくれるに違いありません。
「当事者主権」という言葉で思い浮かぶのは、自己責任の時代になったことです。教師をしていたときの私は、生徒を一人前にすることが学校の役目だと考えていました。一人前というのは自律することです。それは暮らしや生計において自立するだけでなく、ものごとの判断や行動においても自律的に振る舞い、その結果についても自己責任を取ることを求めていました。自由であることは、それに伴う責任を背負うことでもあると考えていました。ただ自由を求める声が、個々の人を包み込んでいた、家族や地域や学校などの中間集団の共同性をも否定する響きをともなてっていることに気づいたのは、ずっと後になってからです。
未熟な生徒を一人前に育てる学校や教師の経験的な振る舞いは、教師が身に体していた古い時代の父権主義的な共同性でした。若い生徒たちの自由感覚は、大人世代の保護的な振る舞いによって責任を阻却されてしまい、勝手気ままな自由を意味していたことに、教師たちはなかなか気づかなかったと言えます。若い生徒たちは、被保護的な立ち位置を一人前の自由と勘違いして、責任抜きの社会的人格として登場していたのです。ところが「自己責任」が問われる社会性とぶつかる局面で、生徒たちは初めて父権的な保護膜がないことに気づき、「なんで俺のせいなんだ。こんなふうに育てた親のせいだ、学校のせいだ、教師のせいだ」と発狂し始めたのですね。それが早ければ、学校時代にトラブルになったでしょうし、親や大人の保護的な姿勢が何らかの形で長引けば、何十年も後になって表出して、50代ひきこもり大人の無差別殺傷事件や70代親の子ども殺害事件になっているのだと思います。
世の中が子どもに対して「やさしい」姿勢をとることと、子どもも(いずれ)社会的な責任を背負って生きなければならないこととを、一緒くたにして論議するのは、あまり賢いとは思いません。でも、そういう事案を、法的に調えようとすれば、一般化せざるを得ず、一般化すると必ず、みそもくそも一緒になってしまうというものです。
つまり社会は、法的言語で覆われてしまうと人びとの生活の中で生きている社会的言葉が揮発してしまいます。今の政治家を見ているとそれがよくわかりますが、法に抵触するかどうかだけがモンダイで、法に触れなければ何でもありという鉄面皮が横行します。荒れる学校現場のとち狂う生徒や親の規範感覚と同じだなあと、日々慨嘆しているところです。
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