2019年12月11日水曜日
子どもを学校に行かせないプナン
文化人類学者の奥野克己は、15年ほど前から精力的にフィールドワークの報告を発表したり、翻訳書を刊行して、「森の民」が何を教えているかを伝えている。その奥野克己の著書のひとつ『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年)が、面白い。文化人類学というのは、こういう学問だったのかと思わせると同時に、私たちの今の暮らしや私たちの社会が保持している規範や考え方を、もう一度根底から見つめ直してみようとする視線が提示されていて、刺激的である。
ボルネオのマレーシア領サラワク州の森で、狩猟採集生活をつづけるプナンとともに過ごしながら、彼らの言葉、振る舞い方、家族や集団の関係、死者との関係、近代化の進む街や社会、取り引きや契約の始末つの付け方などに触れながら、その視線の起点に日本の自分の暮らしを置き、考察の果てのところにやはり自らの暮らしを置いて文字通り自省的に吟味するスタンスは、読む者の現在にじかに及んで、ボーっと生きてんじゃねえよと叱られるように刺激的である。文化人類学というのが、果たして、近代化の進んだ研究者の現在を対象化するためのものなのか、近代的暮らし方があることを知っていながら、狩猟採集生活をつづける民の在り様を対象とするものなのか(私は)知らないが、近代の暮らしにどっぷりとつかっている私たちからすると、この奥野克己の記述は、学問の成果を庶民に語り聞かせてくれているような響きを持つ。
詳細は本書に目を通してもらうほかないが、ひとつ、学校教育に触れた部分を紹介しておきたい。マレーシア政府は、ボルネオ島の森林開発をすすめている過程で、強烈に反対運動をするプナンたち森の民に出くわし(いろいろな径庭を経て)、彼らが森の生活を続けることができるように「結界」を設けて特別区として扱うようになった。だが、いずれ(開発をすすめても)彼らが定住できるようにと諸施策を講じ、子どもを学校へ通わせるように働きかける。通わせると何がしかの援助金を出すというと子どもたちはやって来るが、ほんの何ヶ月かで通わなくなってしまう。それを見て奥野は、まず、働きかける政府役人のことを、こう記す。
《社会開発を推し進める側の人々の人柄と熱意には文句のつけられないことが多い。しかし、彼らの社会人としての理想や価値観は、時に、やりきれないほどに動じないものに変転してしまうことがある。社会開発を推し進めなければならないという信念は、近代主義の代表的な価値の具現化である。》
つまり、善意に溢れていることを疑っているわけではないが、システムがなぜかほどに熾烈になるのかと、現状を見ていることを明かす。では、どうしてプナンは子供を学校に通わせないのか。
《プナンの学校教育に対する態度とは、結局、いかなるものだったのだろうか。私には、学校の存在意義を確立していない学校の価値を高いものと認めていないプナンは、近代以降の社会において、私たちが容易に抗うことができないようなイデオロギーに対して正面切っては向かうのではなく、それらを相手にさえしていないように思われる。抵抗する以前に不要なのだから行かない、利用しないとでもいうかのような態度。そこに、逆に希望の光のようなものがあるのではないかと感じてしまうことは、はたしてまちがいだろうか。》
プナンが学校に通わせないのは、「反対している」というのではなく、「不要としている」とみる。「反対」というのは、「賛成」と同じ土俵に上がっていることを意味する。だがプナンの暮らし方に不要であるというのは、土俵が違うとみよ、と指摘しているわけだ。二元論的な思考では、どちらかに軍配を上げるであろうが、奥野は中動態的である。そして、そのことに「希望の光」を感じるのは、間違いだろうか、と控えめに自らの時代と社会を振り返る。そして、こう続ける。
《……疑いになる以前の疑いの断片。あるいは、高潔な理想を掲げることにより世界を構成する、強制的、半強制的な制度やルールに対する無意識の次元の反意とでもいうべき態度、そのような物事が起ちあがる以前の、言葉にされることがない問題感覚こそ、特大の意義があるのではないだろうか。》
つまり、原初のヒトの暮らしに近いプナンの社会関係のつくりように、今の私たち現代人が忘れてしまっている何かが潜んでいるのではないかと、直観を語る。「無意識の次元の反意とでもいうべき態度」とは、理性による人々の意志の総集として営まれる近代社会の仕組みへ迷い込んだ分岐点の指摘にほかならない。私たちの現在は、類人猿・エイプと枝分かれし、類猿人と一括して呼ばれた直立原人やネアンデルタールなどの旧人類・ロストエイプののちに現生人類・ホモサピエンスとして、ここにある。そのホモサピエンスとしての長く見積もっても10万年ほどの暮らしがつくりあげてきた堆積以前の、「言葉にされることがない問題感覚にこそ希望の光がある」というのは、今私たちの暮らしの淵源を辿り返して、私たち自身が自ら良き事と考えているさまざまなことを、もう一度吟味し直してみようではないかと訴えている。そのことに「特大の意義」があると指摘しているのは、日ごろのいろいろなモノゴトへの「違和感」を感じているが、それを個とb内することができない私たち庶民、あるいは言葉にしたところで、為政者の誰にも聞きとってもらえない非力な庶民の声を聴け! と言っているように響く。
自らの「無意識の次元の反意」に、まず、私たちは気づかなければならない。そして、「特大の意義がある」とみてとるエリートたちに声を届けなければならない。「ねばならない」ばかりでは、とても息が詰まる。だが、実を結ぶかどうかは別だ。その一歩を踏み出すことが、私たちの暮らし。生きるということなのだと思う。
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