2019年12月22日日曜日

地軸の傾きが「今日」という日を生んだ


 今日(12/22)は冬至。外はすでに真っ暗。明日からは夕方が少しずつ遅くなる。夜明けはまだしばらくは、暗い日が続く。そうなることを先月末の36会Seminarでmykさんから思い出した。自転軸が公転面に対して傾いている。そのため、太陽光の当たる地球表面に対する角度が(赤道を中心とすると)北と南とに半年ごとに入れ替わる。それが北回帰線の北に位置する日本などには四季を生む。ありがたい話だ。四季を身体に感じて育った私のアイデンティティの一角を占めている。


 毎年冬至になると、年賀状を書かなければと思う。これがいつも一仕事。文言とかデザインとかが難儀というわけではない。パソコンのソフトが動かなかったり、住所の印刷に失敗したり、何かしらトラブルがある。それが、二年前にはプリンタの故障だった。去年は住所ソフトが画面表示と異なる印刷をするようになって、慌てた。今年もやはり、プリンタの色合いが薄いヴェールが掛かっているように霞んでいる。三度ほどプリンタの設定をいじって「クリーニング」をする。どうもそちらではないようだ。ひょっとすると、写真印刷を使うことがなかったから、色インクが劣化したのかしら、と思う。でも、モノクロ印刷をしていても、カラーインクを少しずつ混ぜ合わせて使っているらしく、カラーの方も減るから、劣化なんてことはあるのだろうか。

 クリアな青色を多用する写真を取りやめ、どちらかというと黄色と赤をつかった薄ぼんやりとした色調のデザインに代えた。柚子を描いて隅に置くなんて、これまでにしたことのない配置にして、カラーのぼやけを逆手に取った。つまりこれは、わたしたち夫婦が「ぼやけはじめましたよ」というメッセージ。「相おともと変わらず山や鳥、虫や植物と気まま三昧の日々」という趣旨の文面を削った。「自慢たらしい」とカミサンは言う。年賀を受け取る皆さんの感触を忖度しているのだ。

 こういうセンスが、私には欠けている。欠けているから悪いとかいいとかというのではない。欠けているのが時に、言葉のきつさをぶつけて磊落に振る舞える。忖度づくしのカミサンは、いろいろと気遣って、天真爛漫とはいかない。気鬱になったりする。でもふと思ったのだが、地球が太陽の周りをまわるってのは、地球を太陽系に位置づけるってこと。つまり公転しているという認知は、太陽系に自らをマッピングしていることだ。地球が太陽を忖度してまわっているわけではあるまいが、もともと天の川銀河の片隅の燃えるガスの塊だったものが太陽を中心とする渦の塊としてかたちをなし始め、それが回転するうちに太陽を中心とする一つの系として恒星と惑星と呼ばれる集団に変化していった。その絶妙の変化の恩恵が、地軸の傾きと太陽からの距離と公転周期。むろん月が地球の周りをまわっていることも、無視しえない「力関係」を構成している。この公転がマッピングだというのは、太陽という地球の外部から自らを見る視線になるからである。

 ふと思い当たったのは、この公転の公というのは、ヒトの社会に謂う「公/公共性」ではないのか。つまり公共性というのは、地球という自分を離れて、(太陽系という)世界の中心が太陽にあって、それの周りを(互いの力関係に導かれて)回転しているという自己認識を指している、と。そういう象徴的な言い方は、太陽系を擬人化していると思うかもしれない。そうかもしれないが、「公」という言葉を使うのは、別に擬人化であろうと物理世界のことであろうと、ヒトの言葉である。象徴的なことから来る直観が、ひょっとすると的を射ているかもしれないではないか。つまり、公共性を心得た市民を想定するというときに、実体的なかたちをとったヒトを想いうかべるよりは、世界に自分をマッピングしてみてとることと考えると、ずいぶんと分かりやすい。

 冬至と太陽系と時点と公転の関係が、我田引水して、思わぬ想定に走った。面白い地球上の弧状列島の一角にいるなあと、うれしくなっている。

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