2019年12月27日金曜日
「学校の変容」は、どうモンダイになるのか(3)「場」を視界に入れる
前回の「(2)当事者主権と自己責任」に関して、もう一つ付け加えておきたいことがあります。生徒の訴えるいろいろなモンダイを解きほぐして行こうとするとき、学校とかクラスという、ほかの生徒たちと当該生徒や教師との関係がどう動いているかは、欠くことのできない要素です。私はそれを「場」と呼んでいますが、「場の力」が当該の生徒に働きかけるモメントは(教師の視野に入らないことが多いだけに)、絶大なものがあります。
事案にもよりますが、わがままを言い立てる当該の生徒は、実は自分が何に文句を言いたいのかわかっていないことが多々あります。とにかく教師にとどめ置かれて、わが振る舞いに(学校とか教師とかが)掣肘を加えようとして来ていることに、腹がたっているだけかもしれません。思いつく理屈を言い立てているだけで一貫性があるわけでもなく、ちょっとクールに「あなたがいいたいのは、学校の校則が間違ってるってこと?」とでも問いかけてやれば、そうではないことがすぐに判明したりします。もちろん「校則が間違っている」とでも言えば、教師ならいかようにも生徒とクールに話をすすめることはできるはずです。たいていは、無性に腹が立つ。我慢できない。何に対してかわからないから、余計に腹が立つ。要するに自分に腹を立てていることもよくあることです。
そうしたとき、学校や教師に文句を言うのは、生徒にとっては定番のようになっていますから、そうしているのでしょうが、ほかの生徒と場を共有する教室や学校の公的な場面へ目を移して、そこへ当該の生徒を置いてみたらどう見えるか。そこであなたはどうしたいのかと展開すると、黙ってしまうことが多かったように思います。教師はついつい言葉で生徒を説得できるように思ってしまうことが多いのですが、それでは的を外してしまうことになります。例えば当該の生徒は「みんなもそうしているのに何で私だけ」と愚痴をこぼします。それは、教室の秩序が混沌化していて、自分の落ち着きどころを探している声かもしれません。あるいは孤立していて、所属する位置を定めがたく感じている訴えかもしれません。生徒の気に病んでいるのは、生徒同士のあいだで自分がどう位置づいているか、どう評価されるかであって、それは「校則」にしたがうかどうかではなく、教師にやり込められるコトでもなく、つぶされる面目さえつかみきれないことであったりするからです。だから、当該のトラブルを「場」に返してみたらどう見えるか。そうして観ると、学校や教師の力不足のところが浮かび上がるかもしれません。
「場の力」の規範や秩序がどう移り変わっているかが、当該生徒に関係しています。当該生徒の振る舞いだけを抜き出してとらえるのではなく、それを表出する特異点とみて、他の生徒や「場の気風」の在り様に返して吟味すると、kさんがいうほど困惑することはないのではないかとさえ、思います。案外、担任をしていないと「場の気風」は感じとれないかもしれませんね。まして授業をもたない副校長となると、特異点に凝集された在り様の生徒だけが眼前におかれて、全体の気風を忘失するのでしょうか。
教師が現場の状況を外に伝えようとすると、耳目を集めようと、つい特異な振る舞いをピックアップして特筆大書してしまうことがあります。だがいつだって、それが単独でそこに起こっているわけではありません。それを包んでいる全体の気風が、良くも悪くも作用しているに違いないのです。そこにおいて、その振舞いを見る。逆にその振舞いに現れた、全体の気風を読み取る。もっとも、ここで「全体」というのが学校や教室に限定されるとは限りません。その当該生徒がかかわる社会の諸相がかかわっていますから、その解析で「学校の変容」を読み取るには景観が大きすぎるかもしれませんが。
このように「場」を視界に入れることが、「教師は学校をつくる。生徒は学校が育てる」という経験的教育観の神髄だと、私は思っています。えっ? それではモンダイの解決にはならないって? そうです。モンダイの在処を、起きている事態から読み取ることが、まず第一歩。「教師は学校をつくる。生徒は学校が育てる」という回りくどい方法論は、教師と生徒の距離を、どのような次元で取るのかを示しています。「場をつくる」とコトバは簡単ですが、いろんな力が作用しています。こうすればそうなるというほど、現場の教師も生徒もヤワではありません。教師の力を結集する仕組みも、トップダウンが効率的だという教育行政の思惑で、ごちゃごちゃになっています。つまり個々の教師をササラ状に単独化させて管理しておいて、なお、教師の力を結集しようというのは、ほとんど習近平式の力技がなければ、なかなかできないことです。それは長い目で見ると、「解決策」などではありません。
力のない平教師は、せいぜい自分の担当するホームルームの型をつくり、できれば学年のチームを志向しながら教師同士の言葉を交わして力を合わせる。あとはせが「場」の薫陶を受けて、自らの人格を陶冶することを期待するばかりなのはないかと、思うばかりです。
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