2019年12月7日土曜日

暗い未来? いえいえ、暗い現在


 ちょっと目に止まった、昨日(12/6)の「文春オンライン」のひとつの記事に考えさせられている。
 ライターは安田峰俊。《J-POPの表現も中国基準へ? 酸欠少女さユり「MV削除事件」が示す暗い未来》と見出しを付けて、一人の歌手のミュージックヴィデオが、動画サイトから削除されているという報告記事。一人の歌手「酸欠少女さユり」について安田はこう紹介する。


 《さユりを知らない読者のために説明すれば「人と違う感性・価値観に、優越感と同じくらいのコンプレックスを抱く“酸欠世代” の象徴=『酸欠少女』として、アコギをかき鳴らしながら歌う、2.5次元パラレルシンガーソングライター」(オフィシャルサイトより)である。独特の世界観が若者層を中心に人気を集めているアーティストだ。》

 この歌手の新曲「航海の唄」のCDが最近リリースされたが、そのフルバージョンのMVがYouTubeで公開されてわずか2日で閉鎖されたというもの。この新曲が香港のデモを暗示するような画像をともない、香港の若い人たちの気持ちを表すような内容であったことから、中国当局が閉鎖を命じ、YouTubeが応じたものらしい。それを安田は「このMVが政治的にちょっとキナ臭いことになっている」と書き始める。そして、

 《問題は削除が中国国内の動画サイトだけにとどまらなかったことだ。なんと11月29日ごろまでに、YouTubeやApple Musicで公開されていた「航海の唄」のフルバージョンのMVまで、なぜか次々と見られなくなったのである》

 と、ワールドワイドに広まりをみせていることに懸念を示す。そう言えば、安田も触れているが、アメリカのNBAのあるチームのマネジャーが香港デモを支持するツイートをしたために中国国内の放映権を持つメディアが試合放送をボイコットしたり、中国バスケットボール協会が当該チームとの協力を停止するなどがあった。また、ティファニーがSNS上に中国人モデルが右目を手で覆う広告写真を掲載したことが香港デモを支持していると非難を受け、削除されることもあった。

 つまり中国当局の言論統制が、中国国内だけでなく13億人の市場を失うことを恐れた企業やチームに、ワールドワイドな影響を及ぼしているという指摘である。「酸欠少女」の場合も、彼女を抱える興業チームに属する他のタレントが、中国市場から締め出されることを恐れて転出することが懸念され、興業チーム側もMVを作り替えて再提供しているという。

 《……いまや中国企業の国外向けサービスであるTikTokはもちろん、TwitterやYouTubeやApple musicといった西側系のプラットフォームであっても、資本の論理のなかでその(中国の言論統制の)くびきから逃れることは難しくなっている》

 と、安田は「暗い未来?」を予測する。だが、そうか?

 振り返って考えてみると、これまで私たちはアメリカという政治的・軍事的・経済的・文化的大国の圧倒的影響下で暮らしていたから、アメリカンスタンダードを自由社会の代名詞のように受け止めることが出来ていた。あたかも「資本の論理」にしたがうことが自由社会と同義であるように錯覚していただけではないのか。実際上、アメリカの国家当局が通信やIT関連のメディアに(法的手続きを経て)介入することは容認してきたし、ときには「テロリスト」の名を冠して、法的手続き抜きに非法な暴力を行使することや、他国の国家主権を無視した「作戦」によってテロリストを暗殺したことを誇らしげに世界に発表してきた。あるいは、元CIA職員・スノーデンが暴露したことへの対応、ウィキリークスを図ったウィリアム・アサンジに対するアメリカ政府の措置を、いまも私たちは当然のように受けとめているのではないか。安田が指摘する「暗い未来?」は、実は今に始まったことではなく、とっくに公然と行われてきたことなのだ。たまたまその主導権をとっている文化が自由主義的であったから、あたかも「資本の論理」と歩調を合わせているかにみえただけである。

 思えば、いま政治的・軍事的・経済的大国となりつつある中国が行う言論統制は、日本の政府にも影響を及ぼしている。香港のデモに関して日本政府は、公然と中国政府を非難しない。なぜ? 中国市場との関係を失いたくないとなれば、沈黙に如くはなしだからだ(もっとも日本政府自身が習近平的な人民支配観を持っていないとは言えないから、そもそも香港のデモを支持する気持ちを持っているかどうか、わからないが)。アメリカの大統領トランプだって、香港デモへの支持を率先して行ってはいない。彼もまた「資本の論理」に基づく13億人市場・中国との駆け引きに気持ちが傾いているからだ。

 つまり世界の規範は(資本の論理に従うという意味で)とっくの昔に、強いものが支配する論理がまかり通っていたのであり、自由人権という理念が、たまたま政治的・軍事的・経済的権力と符節を合わせていたから、グローバリズム=自由社会と思い込んだにすぎない。いまその世界支配の勢力配置が変わりつつある。自由人権を文化とする世界から、自国第一主義を最優先として世界を統制しようとする帝国的支配を意図する世界に移行しつつある。

 もう一度「つまり」というが、「暗い未来?」ではない。とっくに暗い現在なのだ。明るく見えているのは、わたしたちが世界の文化の陽気な上澄み部分を摂取しているからにほかならない。

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